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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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49.徳妃の思い

「宦官に?」

「えぇ。その後、どれだけ泣いたかわかりませんわ。彼の一生を台無しにしてしまったと、どれだけ悔やんだことか」


 話し続けていた徳妃は一度言葉を切ると、お茶を口に含んだ。珠蘭も同じようにお茶に手を伸ばす。もうすっかり冷めきってしまった。


「それで彼は一緒に嫁ぎ先に?」

「えぇ。話を続けてもよろしいですか?」

「徳妃の体調が大丈夫であれば、続きを聞きたいです」


 徳妃は微笑んで頷くと、また口を開いた。


 〇


 ごめんなさいと謝って泣き続けるわたくしに、彼は呆れたように苦笑しました。


『そんなに泣いては嫁げない顔になってしまうよ』

『本望だわ』

『何をいってるんだ。それじゃ、俺は宦官になり損じゃないか。明林が泣いたところでもう戻らないんだから、覚悟を決めて一緒に行こう』

『わたくしのせいで……』

『明林のせいじゃない。俺が離れたくなかったんだ。明林を一人にするなどできなかった』


 後で聞いた話では、彼はわたくしの父に懇願したそうです。宦官になること、一生支えるからついて行かせてほしいって。彼に対して申し訳ないと思っているけれど、同時に馬鹿ね、とも思うのです。何もしなければ、彼はいずれ可愛い奥さんを迎えて幸せに過ごせたかもしれないのに。



 こうしてわたくしは安世と一緒に今の陛下の宮へ嫁いできて、婚礼を上げました。婚礼といってもわたくしは側妃ですから、正妃さまから側妃として認めるという書を授かるだけです。


 陛下は当時はまだ皇太子になる前。ここでも当時の呼びかたで、殿下と呼ばせていただきますね。


 初夜、わたくしは与えられた部屋で殿下の訪れを待ちました。

 殿下は直前に正妃さまを娶られたばかり。ほぼ同時に二人の妃を娶ったことになります。だから来ないかもしれないと思いました。大変失礼な話ですが、そうであってほしいと思いました。わたくしの存在を忘れて、訪れのないままでも構わない、と。


 わたくしにとっては残念なことに、殿下は予定通りにいらっしゃいました。

 殿下は当時十五、わたくしは十七。初めての顔合わせでした。


 殿下は律儀に自己紹介をして、今日は疲れただろう、とわたくしを気遣ってくれました。皇族の男性ですから、もっと偉ぶってて横暴なのかと思っていましたけれど、全然そんなことはなかったですね。


 わたくしは粗相しないように必死でした。何といっても皇族ですから、何かあれば首を切られるかもしれない、くらいに思っていたのです。今の陛下から考えると、少しの粗相くらいで怒る方ではないと分かるのですけれどね。当時は初対面でしたから。


 ものすごく緊張して手が震えてしまい、お茶を陛下のお召し物に少し零してしまいました。その時殿下は真っ青になって震えるわたくしに、『気にするな』と。ひどいところへ嫁いだわけじゃなかったと、安心したのを覚えています。


 

 それから少しお互いの事をお話して、初めての床を共にしました。


 ことが辛くないように、殿下は気遣ってくださいました。乱暴に扱われることもなく、わたくしはきっと幸せ者なのだろうと思いました。当時は殿下だって慣れていなかったでしょうし、むしろわたくしのほうが年上でしたのに。 


 嫁いだのですからそうなることはわかっていましたけれど、殿下がお戻りになってから泣きました。慕う彼を裏切ったような感覚、彼のものになれない自分、それから殿下を騙しているような罪悪感。いろんな感情がごちゃまぜになって、涙が止まりませんでした。


 そんなわたくしを、彼はただ静かに慰めてくれました。彼の気持ちは知っていましたから、彼も辛かったはず。わたくしはただ謝ることしかできませんでした。



 それからわたくしは妃の務めとして、殿下を幾度も迎えました。

 思ったようにすぐにはできませんでしたが、しばらくして子を授かりました。

 とてもホッとしたのを覚えています。慕う相手が整えた寝台で殿下と体を合わせる罪悪感を、しばらくは感じずにすむからです。




 子はお腹の中で順調に育ち、予定よりわずかに早く、無事に生まれました。

 殿下は男の子の誕生をとても喜んでくださいました。わたくしもとても嬉しく思いました。殿下には常に申し訳ないと思っていましたから、一つ、殿下の役に立てたと思って。


 それからしばらくの間、わたくしと彼と乳母とで初めての育児に追われました。

 幸いにも子はすくすくと育ち、生後半年を迎えるころ、殿下がまた通ってくるようになりました。


 あの件が起こったのは、そんな殿下の訪れがあった夜のことです。



 わたくしはその日、精神的に不安定だったのです。

 ことを終えて殿下が戻っていき、堪えきれなくなってしまいました。


 育児疲れ、殿下のお渡りの再開、原因はいくつもありましたけれど、一番は今の皇太后さまに子を奪われそうになっていたことです。


 李家から嫁がれた正妃さまは体が弱く、子を産むのは難しそうだと思われていました。

 皇太后さまは子は正妃が育てるべきだと言って、わたくしから取り上げようとしました。幸いなことに殿下と正妃さまそれぞれが反対して下さったのでそうはなりませんでしたが、その時は奪われる寸前のところだったのです。


 思い返してみれば、殿下がまたわたくしの元へ通うようになったのも、皇太后さまにそう言われたのでしょうね。子を産めない正妃に代わって産ませろと。殿下にとっても仕方がなかったことなのでしょう。


 次から次へと涙が溢れ、止まりませんでした。

 寝台に腰かけながら泣くわたくしを、安世は隣に腰かけてそっと抱き寄せてくれました。


 彼の整えた寝台で、殿下の匂いの残るわたくしを腕の中に収めるのはどんな気持ちだったでしょうね。罪悪感に潰されそうになりながら泣くわたくしを、彼は子供をあやすように背中をトントンと優しく叩きながら慰めてくれました。


 その時、普段ならありえないことが起こりました。

 殿下が戻ってきてしまったのです。


 寝台に腰かけて泣くわたくし、それを抱きしめる安世。

 殿下からは、泣いて嫌がるわたくしに安世が手を出そうとしているように見えたのでしょう。


『何をしている!』


 殿下はわたくしたちの間に入ると、安世を力ずくで弾き飛ばしました。そしてわたくしを背に庇うように立つと、安世と対峙して懐から短い手剣を取り出しました。


 刃がキラッと光を反射して、彼が斬られると思いました。

 わたくしは咄嗟に安世の前に出て、両手を広げて彼を庇いました。


 殿下にとってはわたくしの行動は想定外だったのでしょう。守るはずのわたくしが、相手側についたのですから。


 張り詰めた空気の中でしばらく睨み合いました。

 本来なら、その場で斬り捨てられてもおかしくない状況でした。それなのに殿下はそうしませんでした。殿下はゆっくりと剣を鞘に納め、困惑しきった顔で聞きました。


『どういうことだ』


 わたくしたちは目を見合わせ、それから全てを話しました。


 わたくしたちがどう弁解しようと、わたくしは殿下でない男性を慕い、彼もまた皇族の妃となったわたくしを想っている。これだけでもう、許されることではありません。お互いに覚悟の上でした。

 ただ、子だけは助けてほしいと懇願しました。何の罪もない赤子。間違いなく、殿下の子です。


 殿下は全て聞き終えると、『沙汰を待て』とだけ言い残して戻っていきました。



 わたくしたちは沙汰が下りる前に整理をしました。子は助けてもらえることを信じて、残される子がちゃんと育つように、乳母たちが困ることがないように、荷物をまとめました。


 翌日の夜、殿下がやってきました。わたくしと安世を残して人払いすると、疲れたようにドカッと座りました。今までの殿下の様子とは違って、少し驚いたのを覚えています。


 わたくしたちは指示通りに並んで腰かけ、沙汰を待ちました。この場で斬られるか、それとも毒を賜るか。

 共に逝かせてもらえたらありがたいと思いました。少なくとも、引き離されるよりはいい。彼だけ罰を受けるのは耐えられない、そんなことを考えていました。


 それから、そのような判断をしなければならない殿下に、申し訳なく思いました。嫁いでからとても良くしていただいたのに、恩を仇で返すことになったのですから。


 殿下はわたくしたちを何度か交互に見た後、ハァと息を吐きました。


『見なかったことにする』


 何を言われたのか、一瞬分かりませんでした。

 見上げたわたくしたちに、殿下はもう一度、ハァと息を吐きました。


『どうするのがいいか考えた。だが、あまりいい考えは浮かばなかった。お前は徐家の令嬢だから、離縁したところで別のところにまた嫁ぐことになる可能性が高いだろう? そうなれば二人が共にいられるとも限らない』


 殿下は難しい顔をしながら、さらに続けました。


『ここからこっそり逃がすかとも思ったが、そうしたところで二人だけで生活できるかわからない。宦官ではできる仕事も限られる。どこかで囚われるかもしれないし、子と共に逃げるのはさらに難しいだろう。それに互いに政略結婚だ。お前に何かあれば徐家にも類が及ぶ。それは望まないだろう?』


 チラッと確認するように殿下はわたくしを見ました。けれど、わたくしは何も答えることができず、ただ目を丸くしていました。


『こちらとしても、妃に逃げられたとか不貞を働かれたなどと言われるのは困る。それならば、見なかったことにするのが一番かと思った』


 一瞬どころか、しばらくわかりませんでした。

 わたくしたちは共に天へ昇ることを考えていたのに、殿下はこれからどうするのが良いかを考えて下さっていたのです。


『で、殿下……』

『なんだ』

『このままここにいても良いと? わたくしは、その……』


 殿下を一番に慕うことはできないでしょう。さすがに口に出すのはためらわれましたが、きっと安世と会う事を禁じられたとしても、この情が殿下に向かうことはないはずです。そんなわたくしが側にいていいはずがありません。


『表向き、お前は皇族の妃だ。心の中でどう思おうが構わないが、周りに悟られないようにしろ。もし母上にでも知られてしまえば庇いきれん。従順な皇族の妃とその従者を演じていられるのならば、お互いこのままが良いのではないか』


 信じられない気持ちでいっぱいでした。

 それからのことは、正直記憶があまりありません。最後まで困惑した表情で殿下が戻られるまで、ひたすらお礼と謝罪を繰り返したような気がします。泣きじゃくったかもしれません。


 〇


「その日から、わたくしたちは陛下の忠実な臣下なのです。陛下はそう思っていないかもしれませんが、わたくしたちにとっては救ってもらった命。陛下のお役に立つためならば喜んで差し出しますわ」


 一呼吸つくと、徳妃は首席宦官を呼んで、冷めてしまったお茶を交換するように伝えた。かしこまりました、と出ていく姿を見て珠蘭は、あぁそうか、と納得した。徳妃の宮を訪れた時、徳妃が庭園を散策する時、いつもすぐ近くに控えていたのは彼だった。


「彼が徳妃の大切な人なのですね」


 徳妃は微笑んで頷いた。


「彼との事を、陛下は許してくださいました。だからわたくしは、陛下の役に立つことであれば、何でもしたいと思っています。子を産み育てるのもその一つ。陛下ったら、それからしばらくわたくしに指一本触れようとしなかったのですよ」


 建前上通わないわけにもいかないので徳妃の元へ来るが、何もすることなく戻っていったという。徳妃は他の男に心を寄せる者になど触れたくないのだろうと思っていて、ただ陛下が気を使っていただけだったと判明するまで、時間がかかったそうだ。その間、お互い何となく気まずい雰囲気だったとか。


「徳妃は辛くないのですか?」

「もう辛いとは思いませんよ。なぜなら……」


 徳妃が言いかけた時、扉が開いて徳妃の宦官が新しい茶を持ってきた。徳妃と珠蘭は彼に目線を移す。いきなり二人から見つめられた彼は、戸惑うように少し固まり、それを見た徳妃がふふっと笑った。


「わたくしの子は彼にとても懐いていますから。忙しい陛下に代わって、良い父親役なのです」


 安世は目を見開いてまた固まった。それから少しして、今度は微笑み、珠蘭に恭しく頭を下げた。

 お茶をそっと差し出すと、徳妃と目を見合わせ、退出していく。なんとなく、和やかな空気が流れた気がした。


 徳妃と彼は家族になることはできない。だけどここで、二人は穏やかに、共に時を重ねているのだろう。


「どうして皇后さまを疎まないのか、皇后さまがいないほうがわたくしにとって都合がいいのではないか、というお話でしたね。これで答えになったでしょうか?」

「えぇ、よくわかりました。話してくれたことを嬉しく思います。けれど、どうしてわたくしに話す気になったのですか? あまり知られていいことではないでしょう?」

「陛下が言っていたのですよ。皇后さまが気にしていたと。陛下の憂いを解くのもわたくしの仕事ですから」


 徳妃の過去を話しても問題ないか玉祥に確認したところ、徳妃に任せると言ったらしい。それだけ珠蘭は信頼されているのだろうか。


「わたくしから皇后さまにお願いが二つございます」

「何でしょう?」

「一つ目、このお話は内密にお願いしますね」


 当然のことだと頷いた。

 もしこの話が広まれば、徳妃の身も危険になるし、玉祥の醜聞にもなる。 


「もう一つ。陛下は今、母である皇太后さまを幽閉して、表でも派閥の調整でお忙しく、精神的にも体力的にも疲れていらっしゃいます。どうか支えになって差し上げてください」

「えっと、それはわたくしにできるでしょうか?」 

「難しいことではないのですよ。陛下が望むときに側にいればいいのです」


 それだけでは支えになど到底なっていないような気がするが。


「皇后さま、わたくしは陛下の臣下ですから、陛下にとって何が良いのかを常に考えています。今の陛下には皇后さまが必要なのですよ」

「わたくしが?」

「えぇ。陛下にとって皇后さまが邪魔者であるならば、わたくしはなるべく皇后さまを陛下に近付けないように動くでしょう。でも陛下が皇后さまを必要となさるなら、わたくしは全力で後押しします」


 何の後押しだろうか。

 よくわからなくて首を傾げると、せっかくですから熱いうちにどうぞ、と茶を勧められた。安世が用意した茶は、優しい香りがする。


「わたくし驚きましたの。あの、いつも何を考えていらっしゃるのかわからない顔ばかりしている陛下が、皇后さまの前でだけは感情を思いっきり出しているのですもの。そこそこ長く陛下と過ごしておりますけれど、あんな顔は初めてですわ」


 お茶を吹き出しそうになった。いつも何を考えてるかわからないと思っていた徳妃にそれを言われるなんて、玉祥は一体どんな顔して過ごしてきたんだろう。


「それに皇后さまのところでは朝までお過ごしになるのでしょう? 今までそんなことは一度もなかったのですよ」

「そうなのですか?」

「えぇ、皇子時代から、聞いたことがありませんわ。それだけ信頼していらっしゃるのでしょう。わたくし、陛下には幸せになってもらいたいのです。だから皇后さま、陛下を頼みますね」

「えっ、あの、わたくし?」


 珠蘭の困惑は見なかったかのように、徳妃はふわりと微笑んだ。

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