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44.毒

 夏真っ盛り。朝にも関わらずうだるような暑さの中、いつもの通り朝の会は開かれていた。


「まぁ、昨夜陛下が昭媛のところへ? 皇后さま、本当ですの?」

「えぇ。記録によると間違いございません」


 驚いた声を上げる徳妃に、勝ち誇ったような昭媛。修儀と充儀も驚いた顔をしている。ただ一人、貴妃だけはよく分かっていない様子だ。


 珠蘭は皇后の職務として、皇帝がどの妃嬪の元へ通ったのか記録に目を通さなければならない。だから皇帝がどの宮で過ごしたか、後宮内での動きはだいたい把握している。それを妃嬪たちに伝える義務はないので通常は言わないが、今回は堂々と昭媛自身が発表したのだ。


「ようやくいらして下さいましたのよ。陛下はもっと早くくるべきだったとおっしゃっていましたわ。皇后さまは陛下が妃嬪の元へ通うように進言するお立場ですのに、一人で陛下を引き止めすぎではございませんの?」


 皇太后の生誕祝いでの言動によりしばらく謹慎となっていた昭媛は、全く反省する様子なく、復帰してからも朝の会で吠えまくっていた。要するに、独り占めしていないでさっさと皇帝を昭媛のところにこさせろ、と。

 普段は昭媛に対して冷ややかな態度を取る修儀と充儀も、この意見だけは賛同しているところがまた珠蘭の悩みの一つであった。


 いざ皇帝が来たとなれば静かになるかと思いきや……いや、思ってなかったが……これまた騒がしい。


「素敵な夜でしたわ。最後にはまた来るとおっしゃってくださって、離れがたそうにしていらっしゃいましたの」


 皇帝が昭媛の宮へ行ったのは記録によれば事実であるが、あの玉祥が昭媛が言うように甘い夜を過ごすだろうか。それはないだろう、という気がしてならない。だけど宮に行った、という記録しかない以上、その先の事は本人たちにしかわからないことだ。


 玉祥だって男の人だ。皇后の宮へは頻繁に訪れるがそういうことはなく、徳妃は懐妊中。貴妃は、うん。九嬪である修儀と充儀のところへは行っていないし、その下の位の侍妾に手をつけている様子もない。となれば、もしかしたらそういうことになってそうなったのかもしれない。昭媛は性格がどうであれ色気のある身体つきをしているし。


(…………嫌だな)


 ふっと湧いた、もやもやとした感情に戸惑う。皇后としてはこういうとき、妃嬪に労いの言葉をかけるべきなんだろう。だけど、もし昭媛の言ったことが全て事実だったとしたら。そんな想像をしてしまって、言葉にならない。


 横から小さく徳妃に「皇后さま?」と心配そうな顔を向けられてハッとした。


「昭媛、これからも陛下によく仕えるようになさい」


 昭媛は返事をせず、皇后を一瞥しただけだった。





 それから一月ほど過ぎ、少し暑さも和らぎ始めたある日、珠蘭は徳妃の宮でのお茶会に参加していた。


「徳妃、体調はどうですか?」

「暑さに少し疲れておりますけれど、問題ございませんわ」


 ふっくらとしたお腹に手を当てながら、徳妃は微笑んだ。しばらくは懐妊が分からないように伏せていたけれど、だいぶ目立って隠せなくなってきたため、先日朝の会でも報告した。


「他に何か問題は起こっていませんか?」

「……大丈夫ですわ。こちらで対処できておりますもの」


 何もない、とは言わなかった。ということは、何かされたり盛られたり、いろいろ始まったのだろう。

 以前に妊娠していた時も、堕胎剤を仕込まれたり、偶然を装ってわざと体当たりされたりといろいろあったらしい。


「ここは後宮ですもの。何もないとは思っていませんわ。皇后さまもお気をつけになって」

「えぇ。でも何か力になれることがあれば言ってくださいね」


 実は珠蘭のところにもしばらく前から毒が届けられている。以前と違って知識があるので簡単にやられたりはしないが、気分は落ち込むし安心して過ごせない。お腹の子を守らなければならない徳妃はより大変だろう。


「貴妃さまも少しずつ後宮に慣れてきたようですわね」


 目線の先には徳妃の子と遊ぶ貴妃がいる。全ての事に怯えている様子だった貴妃にも笑顔が見られるようになった。十三歳ながら小柄で身も心もまだ幼い雰囲気の貴妃は、七歳だけれど大人びたところのある徳妃の長男と気が合うらしい。妃たちと茶を飲みながら話すよりも、ずっと生き生きと楽しそうにしている。


「陛下は貴妃のところへ行っているのかしら?」

「訪問はしているようですよ。陛下からも何度か様子を見に行っていると聞いています」


 玉祥はなるべく貴妃が怯えないように、短時間の訪問で恙なく過ごせているか、少しだけ話しをするらしい。行かないと皇太后に怒られると愚痴っているのを聞いた。行っても話すだけでは意味がないとまた怒られそうだが。


「今日は何を食べたかとか、何をしているのが好きかとか、いろいろ聞いているみたいですよ。気分は父親のようだと言って、項垂れていました」

「まぁ」


 徳妃はクスクスと笑う。玉祥にとっては、まだ幼く見える貴妃は自分の妃の一人というよりも娘とか妹のように見えるらしい。


「このままの関係を続けられればいいのですけれどね」


 少し切なそうに言った徳妃の言葉に珠蘭は同意した。そんなふうに思っている相手といつか床を共にしなければならない。それが皇帝の務めのひとつ。優しくていろんなことに気を使ってしまう玉祥にとって、喜ばしいことではないだろう。


「昭媛のところへも通っているようですわね。昭媛は自分から大仰に話すものだから、すぐわかりますわ」

 

 さすがに昭媛も記録があることをわかっているので、「陛下がお渡りになって」という嘘は言わない。実際に通っている記録があって、初めていらしたと大騒ぎした日から昨日でもう五回目になる。一月の間に五回とは、妃嬪としてはかなりの頻度だ。


「徳妃、昭媛が朝の会で言っている事は本当かしら? 昭媛の宮の中でのことは分からないし陛下にも聞けないのですけれど、どうにも陛下が昭媛にあのように接しているとは思えなくて」

「わかりますわ」


 昭媛は「陛下は来るたびにわたくしに夢中になって」というような感じでしゃべる。ついでに、いつまでも子ができないと皇后を責めるような発言や、寵愛が移ったのだといった発言もしている。寛容な珠蘭でなければ不敬だと罰するところだ。


「もし昭媛の言う事が本当なら、と考えてしまうと、どうしてか、こうもやもやするのです。陛下の御子ができることは喜ばしい話なのに、もし昭媛がそうなったらと思うと…………ごめんなさい、忘れてくださる? 皇后失格ですわね」

「そんなことありませんわ」


 徳妃は静かに珠蘭の目を見た。

 昭媛の瞳と違って徳妃には、珠蘭を侮蔑するような色はない。


「わたくしが身ごもった時、皇后さまはとても喜んで下さったではありませんか。わたくしも昭媛の態度はおかしいと思っていますもの。子ができたとしても喜べない気持ちはよくわかりますわ」

「でも……」


 珠蘭は言っていいものかと少し迷いながら、それでも誰かに聞いてほしくて小さな声で懺悔するように口を開いた。


「昭媛のことだけでなくて、皇后としては修儀たちのところへも行くように陛下に進言しなければならないのでしょうけれど、最近はそうしたくないと思ってしまうのですよ。やはり皇后として駄目ですね」


 昭媛のところへ皇帝が行くようになってから、訪れのない修儀と充儀も希望を持ち始めている。二人からも皇帝に自分たちのところへ来るように勧めてほしいと願われているのだ。皇后としては、それも職務だと理解はしているのだけれど、最近は気が進まない。


「皇后さまだって一人の女人ですもの、好き嫌いがあって当然ではございませんか。職務だとしても、やりたくないこともございますわ。それに」


 そこで言葉を切ると、徳妃は楽しそうに珠蘭に笑いかけた。


「皇后さまは陛下を想っていらっしゃいますのね」

「えっ?」

「いいえ、気にしないでくださいませ」


 徳妃はフフッと笑うとお茶を一口飲み、さっきとは変わっていきなり真面目な顔をした。どうしたのだろうと珠蘭も少し身構える。


「皇后さま、陛下がどのような行動を取られたとしても、陛下のお心は皇后さまにありますわ」

「わたくしに、ですか?」

「そうです。だから、陛下を信じてくださいませ」

「えっと、陛下のお心はわかりませんけれど、陛下の事は信頼しておりますし、信じていますよ?」

「それならばいいのです。どうかそれを忘れないで下さいね」




 事件が起こったのは、そんな穏やかなお茶会の夜だった。


「娘娘、大変です」

「何があったの、雲英?」

「徳妃さまが毒を受けて倒れられました」

「なんですって? 状況は?」

「まだ詳しくわかっておりません。先程侍医が駆けつけたとのこと」

「すぐに行きましょう」


 慌てて徳妃の宮へ急ぐ。皇后らしくなんて考える余裕もなかった。裾を持ち上げ、できる限り早く歩く。いや、小走りで向かう。急いだため、宦官の持つ灯りが途中で消えてしまった。風で消えただけなことはわかっているが、それでもそれがより不安を搔き立てる。

 徳妃が無事なのか、お腹の子は。


 宮へ着くと、荒い息を整えて門番に命じた。


「通しなさい」

「申し訳ございませんが、通すことはできません。陛下がいらしています。誰も通すなとのお達しです」


 門番が申し訳なさそうに言う。


「陛下が? ではわたくしがここに来ていることを伝えて」

「かしこまりました」


 いかに皇后であっても、皇帝の命であれば入ることができない。もどかしい気持ちで待つと、中から皇帝の側近である宦官が一人出てきた。


「入ってもいいかしら?」

「陛下がもうすぐいらっしゃいます。それまでここで待つようにとのことです」


 実際にはそれからすぐだっただろう、だけどとても長く待った気がした頃、皇帝が中から出てきた。厳しい顔だ。

 珠蘭は軽く礼を取り、問いかける。


「陛下、徳妃は?」

「侍医によれば、容体は落ち着いたとのことだ。今は見舞いは必要ない」


 なぜか切り捨てるかのような声色に、珠蘭と合わせようとしない視線。まるでいつもの玉祥ではないみたいだ。


「皇后は宮へ戻って待機せよ」

「陛下?」

「聞こえなかったか? 宮へ戻れと言った」


 有無を言わせない物言いに少し焦るが、皇后として、状況が何もわからないまま戻るわけにはいかない。


「陛下、命令に背くつもりはございません。ですがその前に状況を教えてください」

「徳妃は皇后と共にお茶会をして、その後毒に倒れた。毒を盛った可能性のある皇后を徳妃に近づけるわけにはいかない。宮に戻り、沙汰があるまで外出はならぬ。話は雲英から聞く。ここで弁解を聞く気はない。下がれ」


 夜の静けさの中に響く、鋭く命じる声。周りに集まっていた人達も何事かとこちらを注視している。


「かしこまりました」




 雲英とその場で別れると、皇帝付きの宦官が宮まで送り届けてくれた。送ってくれたといえば聞こえはいいが、実際は見張りだろう。現にその宦官たちはそのまま門の前に立っている。珠蘭たちが外へ行くのも、誰かが訪れるのもきっと拒まれるのだろう。


「娘娘が徳妃さまに毒を盛るだなんて、ありえません! なぜ陛下はあのようなことを」

「そうね」

「悔しくないのですか? 娘娘が疑われているのですよ。絶対娘娘じゃないのに、陛下は信じて下さらないのでしょうか」

「わたくしと徳妃は共に茶を飲んだばかり。陛下がどう思っていたとしても、客観的に見れば疑われても仕方がない状況だわ」


 珠蘭に向けられた皇帝の瞳の中に、わずかに嫌疑と違う色が混じっていた。

 だから信じている。何か考えがあってのことのはず。



 雲英が宮に戻ったのは翌日の夕方になる頃だった。


「雲英、徳妃は無事?」

「はい。お腹の御子共々、順調に回復されているようです」

「よかった」

「娘娘はご自分の心配をなさってください。今は娘娘が徳妃さまに毒を盛ったと疑われているのですよ」


 徳妃に毒など盛っていない。それは確かだ。

 それならば、誰が徳妃に毒を?

 そして、誰が珠蘭に罪を擦り付けようとしているのだろう。


「何か分かったことはある?」

「犯人については調査中です。ですが、今外では娘娘を疑う声が高まっています。『寵愛を受けているにも関わらず身ごもらない皇后が、身ごもった徳妃を妬んだらしい』 そんな噂ばかりを耳にします」


 妬みようがない。だって、玉祥は頻繁に珠蘭の宮へやってくるが、実際にはそのようなことは起こっていないのだから。しかも、拒んでいるのは珠蘭のほうだ。


「一部では、前の淑妃さまを婕妤に落としただけでは満足できず、今度は徳妃さままで、という声も出ています。陛下自身が皇后さまが毒を盛った可能性があると発言されたことで、もう皇后さまが犯人かのように言われております」

「なんで娘娘が! そんなことするわけないじゃない!」

「それから、皇后さまは陛下の寵愛を失ったらしい、という噂も」


 珠蘭以上に明明は怒っている。そんな明明を見て、珠蘭は少し笑ってしまった。


「なに笑ってるんですか!」

「いや、代わりに怒ってくれる人がいると、気持ちが楽になるものだなと思って。実際にやっていないのだから、いずれ疑惑は晴れるわ」


 明明は珠蘭同様に宮から出られない。宮から離れる許可を得ている雲英だけが、また外へ出ていった。


 珠蘭は玉祥を信じている。

 本当に昭媛を寵愛し始めたとは思っていなかったし、此度の件もきっと玉祥なら珠蘭ではないと信じてくれるはずだと思っている。


「きっと陛下はすぐに教えて下さるわ」



 しかし、それから三日経っても五日経っても新しい情報がもたらされることはなく、珠蘭が宮から出る許可も下りなかった。

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