43.生誕祝いのその後に
母である皇太后の生誕祝いを終え、玉祥は皇太后と共に庭園をゆっくり歩いていた。行き先は特にない。良い天気だから歩きましょうと言われ、ついてきたまでだ。
皇后にも声をかけたが、断られてしまった。昨年は皇帝の命令には逆らえないとばかりに黙ってついてきたものだったが、ずいぶんとはっきり意見を言うようになった。
「わたくしに母の気持ちというものはわかりませんが、息子と二人で散策したいのだと思いますよ」
そう小声で言われてしまえば仕方がない。玉祥としては共に散歩したところで愚痴を聞かされ文句を言われ、女のところへ行けと言われるだけなので、あまり二人になりたくないのだが。
それにしても、いつの間に珠蘭はあそこまで皇后らしくなったのだろうか。昨年までのようなおどおどしていた様子は全くなく、今日の生誕祝いでは昭媛が起こした問題を取り成し、場の空気を変えてみせた。皇后としての貫禄を充分に感じさせる振る舞いだった。
皇太后へ祝いを述べるついでに挨拶に来た侍妾たちは、昨年までは皇帝に色目を使いつつ皇后を侮っていたが、今年は尊敬の眼差しを向ける者が少なくなかった。それに皇后自身は気が付いているのだろうか。
そんな思いにふけりながら歩いていた玉祥に、皇太后が話しかけた。
「陛下、貴妃はどうですか? もう宮へは行ったのでしょう?」
「母上、彼女はまだ子供ではないですか。もう少し時間が必要でしょう」
「掛けている時間がないから、貴妃を入内させたのではないの。最近は皇后を気に入っているようだから、あのように幼く見えるほうが好みかと思ったけれど、そうでもないのかしら?」
「限度があるでしょう。貴妃は幼く見えるだけじゃくて実際幼いではありませんか」
息子を幼女好きのように言わないでほしい。母としてそれでいいのだろうかと悲しくなる。
いや、もはや母と息子ではなく、皇太后と皇帝なのだ。その証拠に、母は玉祥を名前ではなく「陛下」と呼ぶ。
「李家本家の姫ですよ。大事になさい」
そう思うならなぜこんなに早く入内させたのだ。皇太后も関わっているのだろう、その理由はなんとなくわかるけれど、だからといって通えと言われるのはどうかと思う。
咲き誇る花々を抜け、池にたどり着いた。橋に乗ると魚が寄ってきて、餌をねだるようにパクパクと口を開ける。
「誰か餌を持っているかしら?」
皇太后が振り返って侍女や宦官に声を掛けると、全忠が饅頭を差し出した。皇太后はそれを受け取ると、ついてきている側近たち皆に橋の前で待つように指示を出す。皇帝の側仕えである全忠は玉祥に確認するように視線を向けたが、従うようにと手で合図した。
皇太后と二人きりで橋の中ほどまで進む。ここまで来れば、声は届かないだろう。
「陛下の分ですよ」
二つに割られた饅頭の大きい方を差し出され、玉祥は何も言わずに受け取った。それを小さくちぎって池に投げ入れると、魚がバチャバチャと音を立てて食いつく。隣で皇太后も静かに池面に饅頭を落とし始めた。
ふいに昔を思い出した。
『そのまま食べてはなりませんよ。小さくちぎって、投げ入れてごらんなさい』
『見て下さい母上、大きな魚が食べましたよ』
『母上、どっちが遠くへ投げられるか勝負しましょう。それ!』
『ふふっ、負けてしまいました。貴方には敵いませんね』
母の側近は必ず饅頭を持ち歩いていて、ここで魚に餌をやるのは散歩の楽しみだった。
あの時はまだ玉祥は母を慕う子供で、皇太后は子を思いやる母だった。少なくとも玉祥はそうであったと信じている。
「陛下は覚えているかしら? まだ貴方がほんの小さいころ、ここに落ちたことがあったの。皆それは慌ててね。咄嗟に侍女の一人が飛び込んで貴方を救い上げたのだけれど、深くて底がないような気がしていた池は侍女の胸くらいの深さしかなかったのよ」
侍女が立ち上がった時は驚きと安心とが混じって、涙目で笑ったものだった、と皇太后は目を細めた。
皇太后からその話を聞いたことはあるが、小さかったからだろう、玉祥の記憶にはない。
「そういえば一年前、皇后が溺れていた犬を助けた時も腰くらいの深さでしたね。中ほどまで行けば深いのでしょうが、端は全体的に浅いのかもしれません」
「あぁ、犬。そんなこともあったわね。あの犬は皇后のところにいるのでしょう?」
「えぇ、もうずいぶん大きくなりました。なぜか余にも懐いてくれて、癒されていますよ」
「もしかして皇后の宮へ行くのは、犬に会いに行っているのかしら?」
「それも目的の一つかもしれませんね」
玉祥はフッと笑ったが、皇太后は無表情のままだ。
パクパクと餌を食べる魚につられたのか、鳥も集まり始めた。もう餌はそんなにないのだけれど。
「あの時は犬目掛けて飛び込んだ皇后を見てなんてことをするのかと思ったけれど、今日はずいぶんと皇后らしく振舞っていたこと」
認める気になったのかとわずかに期待を込めて顔を覗き込んでみれば、残念ながら、無表情の中に嫌悪とも取れるような感情が浮かんでいた。
玉祥はその表情を良く知っている。母がまだ妃だったころ、当時の他の妃嬪の話をするときにこういう顔をしていた。
「陛下は最近、皇后に入れ込みすぎですよ。皇后は黄国の公主。それを忘れてはなりません。渡した茶は飲ませているのでしょうね?」
子をできないようにするための茶だ。もちろん玉祥はそれを珠蘭に渡していない。はいともいいえとも言えず、玉祥は口を噤んだ。
「まさかとは思うけれど、皇后に子を産ませるつもりなの?」
「余の子を産むのは後宮の后妃の務めではございませんか?」
少し前までであれば、「そんなつもりはありませんよ」と言っていただろう。皇太后を安心させて、それでお互い表面上は穏やかに過ごせるように。
「今日の皇后は皇后らしかったと母上はたった今おっしゃいましたよね。皇后はよくやってくれています。皇太后である母上にも孝を尽くそうと努力しているではありませんか。それでも認められませんか?」
「皇后を寵愛するだけならば目を瞑ろうと思っていましたけれど、子となれば話は別です。陛下、母の言う事を聞きなさい。貴方は皇帝なのですよ。女一人に現を抜かすようではなりません」
わかっていた。
皇太后と皇后は相容れない。たとえ皇后がどれだけ皇后らしくなろうとも、どれだけ努力しようとも、どれだけ皇后が歩み寄ろうとしても、皇太后は皇后を拒絶する。
いずれ、また……。
もう餌がなくなった事を察知して、鳥たちが悠々と戻っていく。まだ諦めきれない魚たちが口を開けているが、だいぶ数が減ってきたようだ。
「母上、そろそろ戻りましょう」
玉祥を睨みつけている皇太后に、柔らかく、それでいて有無を言わせない態度で声をかける。姿勢を伸ばし、堂々とした威厳を持って。それはくしくも、この母に教わったことだった。
母の後をついていたあの頃と違い、玉祥は先に一歩を踏み出す。少し遅れて皇太后が歩き出したのが気配で分かった。
まだ後宮で暮らしていた幼いころ、この庭園をよく散歩した。あの頃と庭園の様子はそんなに変わらない。変わったのは、玉祥と皇太后だ。
この庭園でただ楽しく走り回っていたのは、いつまでだっただろう。ある時を越えたあたりから、母は玉祥を皇帝にするためにいろいろな課題を課すようになった。庭園にいるときでさえ皇子らしくあれと言われるようになって、少しでも態度におかしなところがあれば叱られた。
軽く振り返る。いつも見上げていた母より、背が高くなった。母が押し上げたことによって立場も玉祥が上になった。もう母に従い続けていた子供ではない。そして母にとっても、玉祥は可愛い息子であるというより、皇帝なのだろう。
それがひどく寂しくて、辛かった。
今日は皇太后の生誕祝いだったことを思い出し、玉祥は庭園で適当に花を摘んで花束を作った。
「母上にこれを。本日は母上の生誕祝いですから、ささやかなお祝いです」
「まぁ、ありがたいことね」
「母上には花が似合いますね」
皇太后を宮まで送ると、玉祥は入っていく背中をじっと見つめた。あの背中について皇太后と同じ宮に入っていった日々は、もう終わった。戻る場所も、進む道も、もう違う。
玉祥は母であった皇太后の背にそっと礼を取ると、皇帝の宮へ向けて歩き出した。




