42.李皇太后の生誕祝い2
食事の時間が終わると、皇太后の孫である徳妃の子と李婕妤の子がお祝いを述べるために壇上に上がった。昨年は当時淑妃であった李婕妤の子を膝に乗せて可愛がっていたものだったが、婕妤へと降格した彼女の子を可愛がる様子はない。挨拶だけを受けると、すぐに下がらせていた。
子供たちはこの変化をどう感じているのだろう。皇太后は、同じ孫なのに母の身分が変わっただけで切り捨てるつもりなのだろうか。
その後は妃嬪侍妾の挨拶タイムである。代わる代わる皇太后のところへ来ては生誕のお祝いを述べ、その横にいる皇帝と皇后の席にも立ち寄っていく、という流れになっている。侍妾たちにとって、皇帝の目にとまる最大のチャンスだ。
だいたい身分順なので、貴妃、徳妃が挨拶を終えると昭媛が壇上に上がってきた。皇太后は席の前で礼を取る昭媛を不機嫌そうに眺めている。しゃらしゃらと髪飾りが揺れ、盛られた頭も重そうだ。
「皇太后さま、本日はおめでとうございます」
「ずいぶんと素敵な衣装ですこと」
皇太后は昭媛を一瞥すると、ぶっきらぼうにそう言った。完全に嫌味である。派手な衣装と装飾品は、今日の主役よりも目立っている。
珠蘭はヒヤヒヤして仕方がなかったが、どうやら彼女はなかなか強い精神力をもっているらしい。
「お褒めに預かり光栄ですわ」
ニコリと微笑む昭媛。
褒めてない。絶対に褒めてない。
もう何も言うなという珠蘭の願いは届かず、さらに昭媛は追撃を食らわせてくれた。
「陛下にもお気に召していただけるでしょうか?」
隣の皇帝が冷え切ったオーラを放っている。
(どう見ても気に入ってないよ。しかも皇太后さまに聞くことじゃないよ)
「どうでしょうね」
(あぁ、皇太后さまも冷え切ってるよ)
「なかなか陛下にいらしていただけないのです。皇太后さまからもお口添えいただけませんか? 皇后さまには口添えを頼んだのですけれど、伝えて下さっていないようなのです」
皇太后は呆れ果てたような顔になっている。珠蘭はもう頭を抱えるしかなかった。きっと後で妃嬪の躾けがなっていないと怒られることだろう。怒られるだけで済めばいいが。
隣の皇帝が昭媛のほうを向いた。
「昭媛、それはこの場で母上に頼むことではなかろう。それに、皇后からその口添えとやらは聞いている」
「そんな、それではどうしていらしてくださらないのですか? 陛下が通われるのは皇后さまのところばかりではございませんか。皇后さまは陛下に妃嬪のところへ行くように勧めるべき立場。それにもかかわらず陛下を独占なさるなんて、ひどいですわ」
珠蘭を軽く睨んでから皇帝に向き直り、今度はよよよ、と今にも泣き出しそうな顔をする昭媛。なかなかの演技派であると感心さえしてしまう。
(というか、今は皇太后さまへのお祝いを述べる時間だよね?)
全く空気を読まない昭媛。
珍しく怒りを灯した目をした皇帝。
呆れ果てて物も言えないといった顔の皇太后。
珠蘭同様に妃嬪侍妾らがハラハラしながら壇上に注目する。
この場は皇太后の生誕祝い。皇太后の機嫌を損ねるようなことはあってはならないはずだが、昭媛はそれを全く理解していない。むしろ、自分に有利なように皇太后に口添えしてもらおうくらいに考えているらしい。
(これはちょっとまずいかも)
妃嬪侍妾は常に皇帝の動向を伺っている。皇帝は場の空気を支配しているのだ。彼が怒れば空気が凍る。
慌てて珠蘭は口を開きかけたが、残念ながら玉祥の方が早かった。
「昭媛、その口を閉じよ。口添えとやらを聞いた上で昭媛のところへ行かぬのも、皇后のところへ向かうのも、すべて余の意思だ。それ以上何か申せば、皇后への侮辱と受け取り罪に問うぞ」
普段温厚な皇帝の明らかな怒りの言葉に、皆が息をのんだ。皇太后さえも驚いている。さすがに皇帝の怒りは通じたのだろう、昭媛も悔しそうに口を噤んだ。
あちゃー、と頭を抱えつつも、この場で動けるのは珠蘭だけだ。妃嬪侍妾たちは壇上に手出しできないし、当事者たちは動きを止めている。珠蘭は隣の玉祥の袖をそっと引いた。
「陛下……」
鋭い目線を昭媛に送り続ける皇帝になるべく柔らかく呼びかけると、皇帝はハッと目線を逸らして息を吐いた。
「母上、申し訳ございません。せっかくの生誕祝いですのに、余が至らぬせいでこのようなことに」
皇太后は皇帝、皇后、昭媛を順に見て、長く息を吐いた。
「陛下、たとえ母親相手だろうとも、皇帝が謝ってはなりませんよ。今回は陛下に免じて何も見なかったことにしましょう。ただ、陛下が皇后のところばかりへ通うのも原因の一つかと思いますよ」
どこまで強い精神力をもっているのか、昭媛はその言葉を自分に味方してくれたと捉えたらしい。顔をパッと明るくして「皇太后さま」と声を上げた。
それを遮るように、玉祥は「下がれ」と命じる。
「そんな」
「昭媛、陛下は下がれと命じられたのですよ。下がって、部屋へ戻りなさい。これ以上の宴への参加は認めません」
これ以上とどまると、昭媛も危険だ。気分を害した皇太后と皇帝がどんな命令を出すかわかったものじゃない。珠蘭も皇后として命じ、昭媛の侍女へ目配せすると、引っ張るようにして彼女が昭媛を連れていってくれた。
あとに残ったのはピンと張り詰めた空気。
(どうしろというのよ……)
暖かい日差しが差しているのに、真冬だろうか。雪が降るのか? もはや降ってほしい。そうすれば皆の気持ちも和むだろうに。
(いい天気だなぁ)
現実逃避ぎみの思考になる。空は青く、雲は白い。雪は降るはずもない。
それでも珠蘭は皇后で、この場の責任者。なんとかしなければならないのである。
遠のきそうな意識をかろうじて引っ張り、現実に戻ってきた珠蘭は、咄嗟に楽団に音楽を奏でさせた。
壇上から降りて、皇太后と皇帝に礼を取る。
「一曲、舞わせてくださいませ」
音楽に合わせて適当に舞う。公主として、皇后の嗜みとして練習はしたが、珠蘭は舞いが得意ではない。舞うための衣装でもないし、即興アドリブは正直言って無理がある。前皇帝に舞いを披露して見初められたという皇太后からしたら失笑ものだろう。
やや陽気な音楽に合わせて体を動かし、回る。舞いの先生から言われたのは、たしか指先足先まで神経を通わせてうんぬんかんぬん。ちょっとまて、うんぬんかんぬんの部分が大事だったはずなのに、思い出せない。とりあえず笑顔で回っておこう。それから、適当なステップ、ステップ、ジャンプ。
音楽の合間に女性たちのクスクス笑う声が聞こえてきた。ちょっと盛り上がってきたかしら。いや、けっこう本気で踊ってるんだけど。
指先を見つめてから、ピシッと伸ばしてみた。また笑い声が聞こえる。
そして、最後の決めポーズ。
「ハアハア、いかがでしたでしょうか?」
「そこで息が上がっている時点で駄目ですよ」
「お目汚し失礼しました。皇太后さまの舞いの十分の一、いえ、百分の一くらいは上手く舞えたと思うのですけれど」
首を傾げてみると、皇太后がフッと笑った。失笑でも苦笑でも、笑ったは笑ったのだ。主役が笑えば場が和む。
周りからはプッと吹き出すような音が聞こえた。ぐるっと大きな動作で女性たちを見回してみる。
「あら? わたくしほどの舞い手はいるまいと思っておりましたが、あまりに上手すぎて皆には理解できなかったのかしら?」
わざとおどけてみせると、と女性たちが品よく笑う声が聞こえてきた。上手じゃないことくらい、充分すぎるほどわかっている。
(後で皇后らしくないと怒られるんだろうなぁ)
クッと笑った皇帝が立ち上がって三度ほど拍手代わりに手を叩く。
「たしかに余にとって皇后ほどの舞い手はおるまい。……なかなか、そうだな、興味深い舞いであった」
付け加えられたような言葉に、皆がクスクスと笑う。
そんなにひどい出来だったか。
「気に入った。褒美を取らす」
「まぁ! 陛下に感謝いたしますわ」
わざと軸を外しまくってクルッと周り、手を胸に当てて礼を取る。また笑い声が聞こえてきた。
「妃嬪侍妾の中で舞いが得意なものはいるかしら? 舞いの名手でいらっしゃる皇太后さまの前で踊れる、めったにない機会ですわよ」
顔を見合わせながら、三人ほどがおずおずと出てきた。再び始まった音楽に合わせ、舞い始めるのを見届けて、珠蘭は壇上の席に戻った。
九嬪の位につく二人に目配せして、皇太后への祝いの挨拶も再開させる。場の雰囲気が戻ってきたことに、珠蘭はホッと息を吐いた。