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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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41.李皇太后の生誕祝い1

「極悪非道人になった気分だったとおっしゃってました」


 朝の会を終え、徳妃と庭園を歩きながら先日の皇帝の様子を報告すると、徳妃は耐えられないとばかりに口を押さえ、下を向いて肩を震わせた。意外と表情豊かな人なんだな、と最近気がついたが、さすがに外で大声で笑うことはしないらしい。


 少し目元に滲んだ涙を指でぬぐっている。


「はぁ、面白すぎますわ。極悪非道だなんて、陛下ほど似合わない方はいないと思いますのに」

「わたくしもそう思います」

「とりあえず、陛下があの貴妃に手を出すとは思えませんでしたけれど、その通りになってよかったですわ。貴妃は李家の姫ですから、もしかしたら陛下も貴妃も無理をなさって……となることを心配していましたの」

「そうならずにすんでよかったです。当分貴妃の所へは渡らないそうですよ」


 それから小声で「別の意味で昭媛のところにも」と付け加えた。徳妃も納得らしく、大きく頷いていた。


 二人が歩いているのは、李皇太后の生誕祝い下見である。またその時期がやってきたのだ。

 昨年はこの生誕祝いで皇太后に毒を盛ったという疑惑で、下女仲間だった丹を失った。そういうことが二度と起こらないように、たとえ下女であっても、後宮の女が処刑される場合はまず審議に掛けられ、皇后まで報告が上がるように制度を見直した。もう勝手に下女に手出しはさせない。


「準備はわたくしの方でやりますから、徳妃は無理をしないようにして下さいね」

「皇后さまはお優しいですわね」

「いいえ、わたくしは自分の為に言っているのですよ。徳妃にもし何かあったら、わたくし一人で後宮の業務を回さなくてはなりませんもの」

「まぁ」


 徳妃がクスクスと笑う。

 実際に、後宮の仕事を回すのに珠蘭は手一杯だ。珠蘭自身が制度を見直したりなんだかんだと仕事を増やしている自覚はあるが、徳妃のおかげでそれができている。徳妃がまったく動けない、という状況になるのは本当にきつい。





 迎えた李皇太后の生誕祝い当日。


 昨年同様に着飾った女性たちが、咲き誇る花よりも目に眩しい。そういう珠蘭も着飾っているが、主役は皇太后だし、こういう場所は女性たちが皇帝にアピールできる少ない機会でもあるので、皇后らしさを失わないギリギリ地味ラインを攻めている。


 頭は重いし衣装は苦しいが、あまり気にならなくなった。皇后らしく取り繕うことにもずいぶん慣れたものだと思う。


 珠蘭が数々の挨拶を通り抜けて壇上の近くまで来たところで、後ろで黄色い声が上がった。


「陛下がいらしたようですわね」


 いつの間にか横にいた徳妃が、声の方向に目を向けている。珠蘭もそちらに視線を向けると、皇帝が輿から降りて皆を制するように手を軽く上げたところだった。


 ほとんどの女性が礼を取りつつ道を開け、そうしてできた道を皇帝は堂々と歩いてくる。誰もが邪魔できないはずの皇帝の行くてに立ちはだかる者が現れた。昭媛だ。


 皇太后よりも派手なのではないかと不安になるような衣装に、装飾品をじゃらじゃらと身に着けている。胸のふくらみが強調されているように見えるのは気のせいだろうか。チラッと自分の胸元を見て、珠蘭は何事もなかったように姿勢を戻した。胸の大きさだけがすべてじゃないさ。


 髪飾りを揺らしながら、昭媛は丁寧な動作で礼を取る。


「陛下にご挨拶を」

「挨拶はいらぬ」


 道を開けろという意味が伝わっていないのか、昭媛はその場を動く気配がない。周囲の女性たちが息をのんで注目する中、昭媛は悲し気な顔をしてみせた。


「どうしてわたくしの挨拶を受けてくださらないのですか?」

「ここにいる全員の挨拶を受けていては、席にたどり着けないではないか」

「全員の挨拶など受ける必要はございませんが、わたくしは九嬪ですのよ」


 皇帝が溜息をついたのを見て、珠蘭は足早にその場へ向かった。この場を収める必要があるだろう。

 皇帝の前に進み出て、礼を取る。


「陛下、昭媛が失礼いたしました」


 許可を得て、昭媛に向き直る。


「昭媛、陛下の進む道を塞ぐなど不敬ですよ。下がりなさい」

「わたくしは当然のことをしたまでではございませんか」

「わたくしは今、下がりなさいと言ったのですよ。陛下が迷惑しているのがわかりませんか?」

「一体何の騒ぎですか?」


 皆の視線の先に、皇太后が輿から降りてくるのが見えた。礼を取り直した女性たちの間を悠々と歩いてくる。さすがは皇太后と思える貫禄だ。

 近くまでくると、皇帝が実母である皇太后に向かって礼を取った。珠蘭はその横に控えた。


「母上にご挨拶を」

「顔をお上げなさい。何があったのですか?」

「大した事ではございません。お気になさらず」

「何があったのか聞いたのですよ。隠さず答えなさい」

「……昭媛が余に挨拶をしようとして、余の前を塞いだのです。それを皇后が窘めてくれたところですよ」

「まぁ」


 皇太后は昭媛を上から下まで舐めるように見て、苦い顔をした。やっぱり衣装が皇太后よりも派手にみえる。


「皇帝の道を塞ぐなど、窘めるだけで済ませていいのかしら? 皇后の躾けがなっていないのではなくて?」

「申し訳ございません、皇太后さま。わたくしの落ち度でございます。昭媛は後宮に入ったばかりで、まだ後宮の道理を弁えていないのです。どうかお許しを」


 頭を下げると、皇太后はフンと鼻を鳴らして壇上の席へ向かっていった。珠蘭はふぅと小さく息を吐き、皇帝と並んで壇上へ向かう。


「母上、改めまして、本日はおめでとうございます」

「陛下に感謝するわ。このような会を開いてくれた皆にも感謝します。今日は楽しみなさい」


 皇帝の祝いの言葉と皇太后の挨拶で、誕生祝が始まった。楽器の音色が響き、舞いが始まる。

 壇上からチラッと昭媛を見れば、まだ不満そうな顔をしている。本来は左右に身分順に席が並ぶのだが、今回は貴妃、徳妃、昭媛の順で並んでもらっている。真ん中でどちらにも気を配らないといけない徳妃の負担が大きすぎるが、壇上にいる皇后では手が出せない。


「陛下、今年の舞子はいかがかしら?」

「皆上手だと思いますよ」

「気に入った娘がいれば褒美を取らせるといいですよ。彼女たちにとっての褒美とは何か、わかりますね?」


 皇帝が手をつけること、そう言いたいのだろう。昨年と同じように、舞子の中に少しずつ色の違う衣装を着て目立つ舞いを披露する者がいる。皇太后のおすすめなのかもしれない。


「後宮にはすでに女性がたくさんいますから」

「そんなこと言って、陛下はどこへも行かないではないの」



 食事の時間に、またひと騒動起きた。昭媛が、自分の飲み物の味がおかしいと騒ぎ出したのだ。昨年皇太后に毒が盛られた疑惑の騒動があったので、今年は口にするものに関して、徹底的に管理している。食材から食器に至るまで全て検査させ、調理、盛りつけ、運ばれてくるまで信頼できる監視を付けた上で毒見も通している。


「これをわたくしに飲めと言うの?」

「申し訳ございません、すぐに別の物をお持ちします」

「別の物があるなら、最初からそれを出しなさいよ」


 パシッと配膳係の頬を叩いた音が響く。手を上げた昭媛を徳妃がなだめているが、初めから徳妃を見下している昭媛は聞く気がない。


「おやめなさい、昭媛。彼女は配膳しただけだわ」

「こんなもの、怖くて口にできませんわ。もし毒でも入っていたらどうされますの?」


 その発言に、皆がざわざわとし始めた。目に見えないものだけに、毒は皆が恐れている。ましてや昨年の毒騒ぎを知っている者も多い。

 珠蘭は横にいる皇帝に軽く頭を下げた。


「陛下、席を離れることをお許しください」

「許す」


 許可を得て壇上から降りる。皆の視線が昭媛から皇后へ移ったのを感じ、優雅に、それでいて威厳をもって進む。昭媛の席の前までくると、配膳された料理が彩りよく並ぶ卓子から器を持ち上げた。


「これが問題の飲み物かしら?」


 一応聞いたけれど、さっきこの器を持って騒いだところを見ている。昭媛が声を発する前に、珠蘭は口元に器を持っていった。特に変な匂いはしない。そのままそれをくいっとあおり、全て飲み干した。味もおかしくはない。


 厳重に警戒しているのだ。会場に毒を持ち込むことはできないし、混入させるのは至難の業。それに、後宮に入ったばかりの昭媛をこのように目立つ場で害する利が、どこにもない。


 隣で徳妃が息をのみ、口を押さえている。周りがどよめいているのを感じながら、珠蘭はゆっくりと器を卓子に戻した。


「美味しいお茶でしたよ」


 挑発的に微笑むと、昭媛はグッと顔を歪ませた。

 珠蘭は皆に聞こえるように、声を少し大きくして話しかける。


「本日は皇太后さまのお祝いですから、こちらは皇太后さまにお喜びいただける品をと皆で考えた料理や飲み物です。昭媛の好みではなかったかもしれませんね。でも、好みでないからといって騒ぐのは、上位の妃嬪らしくありませんよ」


 毒、と昭媛が口に出したことにより、皆の食欲が一気に落ちてしまった。せっかく食材集めからここに出されるまで、料理人を始め下女も宮女も宦官も頑張ったというのに、ほとんど手つかずで下げられたらどうしてくれる。


 今回は頑張ってくれた下女のために、ささやかな楽しみ用にも食材を購入してしまった。皆が満腹になれるように食材を集めたのに、ここでたっぷり余ったら廃棄するしかなくなってしまう。なんともったいないことか。絶対阻止しなければ。


「本日供されている料理や飲み物は、食材、食器に至るまで全て検査した上で、調理からここに並ぶまで監視がついています。その上でさらに毒見も通しています。最高の料理人たちが丹精込めて作り上げたものですよ。安心して召し上がりなさい」


 珠蘭の思惑を感じ取ってくれたのか、皇帝が箸を動かし始めた。口にした料理を皇太后にも勧めている。

 それを見て、少しずつ置いていた皆が箸を手に取った。ホッと息ついた珠蘭は皆が料理に注目を戻したのを確認し、昭媛の後ろの配膳係の宮女に話しかけた。


「顔を上げて、頬を見せてちょうだい」

「お、恐れ多いことでございます」

「いいから」


 昭媛に手を上げられた宮女の左頬は赤くなっていた。爪が当たったのだろう、薄っすらと血が滲んでいる。珠蘭は手巾を出して、頬にそっと当てた。


「痛かったでしょう。今日はもう下がっていいから、手当してもらいなさい」

「ももも申し訳ございません」

「謝る必要はないわ。むしろ謝るべきはこちらよ。壇上から貴女の仕事を見ていたわ。給仕の仕事をしっかりこなしていたでしょう。落ち度はないわ」


 頬に当てた手巾をそのまま宮女に握らせた。一枚の布だけれど、宮女にとっては高級品だ。頬と心の痛みが物一つで消えるとは思っていないが、少しでも慰めになればいいと思う。

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