40.人員大移動の春
春は一時的に後宮の人数が増える。そして、人数が増えるにも関わらず仕事は滞り、いろんなところで小さなトラブルが起こりまくり、しっちゃかめっちゃかになる。そんな、後宮人員大移動の季節がやってきた。
女官や宮女の任期は大抵の場合二年だ。この二年を終えて出ていく者の代わりに、新人が入ってくる。入ってきた新人がいきなり仕事ができるはずもないので、出ていく側は引き継ぎができ次第出ていくのだが、まぁ、すんなりいったりいかなかったりするのが常だ。
珠蘭も皇后としての仕事に忙殺されていた。
任期を終えて出ていく侍妾が十人もいるのだ。それぞれに対する手続きやら退職金のようなものの支払いや見送り、出ていった後の部屋や備品の管理。最後の一人が無事に出ていった日にはぐったりと長椅子に倒れ込んでしまった。
ちなみに、最後までお手付きになることを諦めずに出ていくのを渋っていた三人は、皇后主催の皇帝も招いたお茶会にこれでもかと着飾って参加し、得意の舞いやら楽器やらを披露していたが、結局誰も見初められることなく、仕方なく後宮を後にした。
珠蘭は気を利かせて中座したが、玉祥には「なんで途中でいなくなった」と怒られた。良かれと思ってお茶会を開いたのに怒られ、後悔はしていないがなんだか理不尽である。
しぶしぶ出ていった彼女たちだが、選秀女で合格した、ということで箔がつくはずなので、きっといい嫁ぎ先があるだろう。見初められる気配のない皇帝の後宮にいるよりもずっと良いはずだ。
それからもう一つ。後宮にとって大きな出来事が起きていた。
姫が二人、入内してきたのだ。李家の姫と余家の姫。どちらも皇帝には断り切れずに送り込まれた。
先だって後宮入りしてきたのが、李家の姫だ。
「皇后さまにご挨拶を」
「楽になさい」
庶子だとはいうが、李家本家の姫である彼女は、李家傍系の出身である李婕妤よりも元の身分が高い。むしろ李家本家のご令嬢ともなれば、この国の未婚女子の中では公主に次ぐ身分だろう。さらに李家と李皇太后のごり押しもあって、最初から四夫人、しかもその中でも一番上位である貴妃の位での入内である。
彼女が送られてきたのは、李婕妤の降格と、珠蘭が皇后としての力を着実につけていること、長男と三男を有する徳妃の存在に、李家が焦ったことが原因らしい。
「顔をお上げなさい」
入内後すぐに挨拶に訪れた貴妃に、珠蘭は皇后の威厳をもって接する。
はずだったが。
上げられた顔を見て、威厳を取り下げた。
えーっと、これは、どうしたらいいだろう。
どうもできないけれど。
珠蘭はどちらかというと童顔で小柄だが、それにも増して童顔で小さい、いや、むしろ、どうみてもまだ子供。
歳は十三だというが、年齢よりずいぶん幼く見える。
「お、お初にお目に掛かります。以後、どうぞよろしくお願い申し上げます」
声が震えている。ついでに、少し離れたところにいる珠蘭にも分かる程に体も震えている。それが一層彼女を小さく、弱々しく見せている。顔色まで悪く、とても演技には見えない。よほど緊張しているのだろう。
「皇后として、貴女を歓迎します。これから共に陛下を支えていきましょう」
通常であれば挨拶はここで終わりだが、一言付け加えておくことにした。
「貴妃、慣れないことも多くてしばらくは大変かもしれませんけれど、何かあれば、わたくしか徳妃を頼りなさい。力になりますよ」
「か、感謝、いたします」
「今日は疲れたでしょう。ゆっくりお休みなさい」
消え入りそうな声で再び感謝の言葉を述べ、下がっていった。
その翌日に入内してきたのは、余家の姫である。
李家から入内するならばこちらもとごり押されたらしい。
余家本家には年頃の娘がおらず、余家傍系の娘だという。傍系の中では地位の高い家の出身だということで、九嬪の上から三番目である昭媛の位になった。始めから九嬪というのはかなりの好待遇なのだが、彼女は不満らしい。一緒に入内した李家の姫が四夫人なのに、自分が九嬪であることは納得がいかない、と漏らしていたという。
「皇后さまにご挨拶を」
「楽になさい」
挨拶に訪れた昭媛は昨日入内した貴妃とは正反対の性格のようで、珠蘭が気後れしそうになるくらい自信に満ち溢れていた。
歳は十六だというが、すでに豊満で色気を感じさせる身体つきをしている。勝ち気な性格が顔全体に現れていて、初対面の時点で珠蘭は苦手だなと感じてしまった。
「これから共に陛下を支えていきましょう」
挨拶の時間を終え、下がりなさい、と言う前に、昭媛は前のめりに聞いてきた。
「皇后さま、陛下のお越しはいつになるのでしょうか?」
「それは陛下が決めることですから、わたくしにはわかりかねます」
貴妃は身分も考え、あらかじめ入内の五日後に初めてのお渡りがあると決められているが、それ以外は未定だ。むしろ初めから決められていることが例外なのだ。あとは、皇帝の気分次第だったり、皇帝が必要を感じたとき、ということになる。
「では、早めにいらして下さるよう、皇后さまからも陛下へお話ししてください」
思わず固まってしまった。たしかに皇后は妃嬪のところへ行くように皇帝に働きかけるのも仕事のひとつではあるが、いきなり初対面でそれを願うだろうか。
「皇后さまは陛下からの寵愛が厚いと伺っておりますが、妃嬪として入内したからには子を産むのがわたくしの役目。協力してくださいますよね?」
「貴女の気持ちはお伝えしましょう」
かろうじてそう答え、下がるように伝えると、まだ話したいことがあったのにというような顔をして堂々と出ていった。
なんだか波乱の予感がする。
その二日後の夜。
玉祥は珠蘭の宮へ来ていた。
苦々しい顔で上掛けを脱ぎ、珠蘭はそれを受け取る。
「二人も入ってくることになって慌ただしいだろう。すまないな」
すまないと言うが、玉祥が望んでの入内でないことはよくわかっている。むしろ玉祥が自ら女を望んだことは、珠蘭が知る限り一度もない。
「まだ顔は合わせていませんよね?」
「いやそれが、たった今、昭媛に会った。待ち伏せされたといったほうがいいか」
「まぁ……どうでした?」
「いきなり挨拶を始めて、早く自分の所へ来いと言ってきた。むしろ今から来いくらいな感じだった」
表情から察するに、喜ばしいことではなかったらしい。そうだろうと思ったが。
「俺、あいつ苦手だ」
「陛下がそんなにはっきり言うなんて珍しいですね。わたくしにも、陛下に早めにいらしていただけるように伝えてほしいと言ってきましたよ」
「なんていうか、生理的に嫌だ。行く気はない」
ずいぶんな言い様だ。でも、ちょっとわかると頷いてしまった。朝の会でも、まるで自分が一番上かのように振舞うのだ。怯える貴妃に意見したり、元からいた九嬪の二人より上の位であることを良いことに、あからさまに下に見たり。
許せないのが、徳妃を下に見ていることだ。徳妃は余家派閥の家柄だが、余家出身ではない。元の身分は自分の方が上だと言いたいらしい。
「本来ならば同じ派閥の徳妃が世話をするのでしょうが、完全に徳妃を見下しているので言う事を聞かないのです。わたくしも窘めますけれど、どこ吹く風といった感じで」
思わず愚痴を言ってしまい、ハッと口を押さえる。妃嬪の悪口を皇帝に告げ口するのはご法度だ。事実を述べただけであるが。
「申し訳ございません」
「良い。あの態度を見ていれば、そうだろうなと思う。お前がわざと妃嬪の評価を下げるようなことは言わないのは知っているから、これからも教えてくれ」
「信用してくださっているようで」
「そうだな」
素直に頷かれて、ちょっとこそばゆいような気持ちになる。
玉祥はしゃがんで麦ちゃんを撫でている。皇帝が膝を折っていいものではないが、この中でだけは珠蘭も皇后らしくと言われたくないし、玉祥だってそうだろう。
「貴妃には会いましたか?」
「いや、まだだ。どんな娘だ? お前が思った通りに、率直に言っていい」
「可愛らしい方ですよ。昭媛とは正反対のような、本当にお可愛らしい……」
「正反対ならよかった」
「それで、あの、本来でしたらわたくしが口出しすべきことではないのですけれど、明日の夜が貴妃にとっての初夜ということになるのですよね?」
「まぁ……行かねばなるまい」
ひどく歯切れ悪く、玉祥は呟いた。
「何か問題があるのか?」
「それが、まだ幼いのですよ。十三とのことですが、それよりずっと小さく見えます。話を聞けばすでに女にはなったとのことですが、それもつい最近の話のようです」
「なるほど」
「わたくしや徳妃にも緊張するようで、怯えてしまって可哀想なほどです。李家との政略的なものであることは理解していますが、もし可能ならば、その……」
「言いたいことはわかった。とりあえず明日貴妃の宮には行くが、心配するな」
お茶を一杯飲んで、二人で寝室へ入る。玉祥が心配するなと言うのだから、きっと貴妃も大丈夫だろう。無体なことをする人でないことは、たぶん珠蘭が一番良く知っている。だって、この二人きりの寝台で、律儀に約束を守ってくれるのだから。
「今日は肩もみはしてくれないのか?」
「嫌だったのかと思っていました」
「嫌じゃない」
「では。明明にもう一度教えてもらったんですよ。きっと今日は良い感じの力加減にできるはずです」
相変わらず固い肩をほぐしていく。ちょっとは上手くなった気がするけれど、どうだろうか。少し手が痛くなってきたころ、もういい、と声を掛けられた。
「よし、今度は俺が揉んでやろう」
「え?」
「いいから、場所を代われ」
皇帝に肩を揉ませるなんて駄目だろう、と思いつつも玉祥が良い顔をしていたので、まぁいいかと寝台に腰かけた。大きくて、温かい手が肩に触れる。鼓動が少し上がったのをごまかすように、口を開いた。
「陛下は誰かの肩もみをしたことがあるのですか?」
「小さいころに母上の肩をもんだことはある。ずっと昔のことだ。全忠に練習させろと言ったら、陛下に肩を揉ませるわけにはいきません、と慌てて全力で拒否された」
フフッと笑うと肩が揺れる。そこに玉祥の手があることが、どうにも落ち着かない。だけど、触れられているということに恐怖心はなかった。
「お前の肩は狭いな」
「そうですか?」
力を弱めてくれているのだろう、雲英みたいに強すぎずに気持ちがいい。ちょうど凝り固まっていたところを押され、小さく「うぅ~」と声が漏れた。その途端に手が止まってしまった。痛がっていると思われたらしい。
「すまない」
「いえ、全然! すごく気持ちよかったです」
「そうか。……辛いな」
「え?」
「なんでもない。そろそろ寝るぞ」
もしや親指が痛くなってしまったのだろうか。皇帝に肩をもませただなんて、やっぱりよくなかった。そう思っている間に蝋燭が吹き消され、玉祥はまた壁側を向いて寝てしまった。
翌日の夜、貴妃の宮へ行ったはずの皇帝は、早々に皇后の宮へやってきた。室内に入るとすぐにドカッと椅子に腰かけ、頭を抱えている。いつもの優雅さがなく、何かをぶつぶつと呟いている。
「あれは無理だ。無理だろう、どう考えても無理だろう」
どうやら貴妃の宮へは行ったらしい。この時間にこの様子だと、早々に出てきたようだ。
「真っ青な顔で礼を取るのもやっとという感じで、今にも倒れそうだったぞ。ずっと震えているし、俺がお茶に手を伸ばしただけで、こう、ビクッと」
その様子が目に浮かぶ。皇后相手ですら怯えていたのだ。皇帝相手に、しかも初夜です、なんて状況だったら、相当怖かったに違いない。珠蘭と徳妃が今朝、大丈夫だとなだめたけれど、あまり効果はなかったのかもしれない。
「俺、何もしてないのに相手死にそうだったんだけど、どうすればいいの? 幼女襲う趣味とかないよ? 何だか極悪非道人になった気分だったんだけど、俺、何もしてないよ?」
玉祥の中ではもはや幼女の部類らしい。
玉祥が極悪非道人って、あまりにかけ離れていて、思わずプッと吹き出してしまった。
「李家は何考えてるんだ? いや、考えてることはある程度分かるんだが、無理に決まってるだろう……」
玉祥は落ち込んでいる。何も悪い事などしていないはずなのに、むしろ手を引いてきたところだというのに、なんだか哀れだ。
珍しく後宮に付き添っている全忠は笑いを堪えている。あとできっと笑い事じゃないと睨まれることだろう。
「とにかく、俺は当分の間あの宮へは行かないから、皇后と徳妃でなだめてやってくれ」
「そうします」
ちなみに後日、宮へ行くつもりのない昭媛に待ち伏せされたらしく、こちらも「絶対無理」と愚痴っていた。皇帝は大変である。