39.肩もみ
「陛下、徳妃からの報告を聞きましたか?」
寝室に入り、玉祥の上掛けを受け取りながら、珠蘭は機嫌良く聞いた。徳妃から懐妊の知らせを受けて数日。徳妃の宮へ行ったことは知っているので、もう聞いているはずだ。
おめでとうと言いたかったけれど、人の目を避けるために、二人きりになれるまで待っていた。
「あぁ、聞いた」
「お祝い申し上げます」
「お前、嬉しそうだな」
少し憂い顔の玉祥には気がつかず、珠蘭はニコニコと話す。
「はい、それはもう。だって陛下のお子ですよ。徳妃の子であることは充分に理解しているつもりですけれど、皇后という立場上で言えば、陛下のお子は皆わたくしの子でしょう? 楽しみです」
「聞いていると思うが、まだ内密にしておいてくれ」
「心得ています」
「妊婦によさそうなお茶を贈る、というのも駄目だぞ。そこから感づかれることもある」
ハッとした。危なかった、やろうと思っていた。
「やろうとしていた顔だな?」
「ご忠告に感謝します」
「うむ」
「ところで陛下、徳妃に次はわたくしの子を期待していると言われたのですけれど」
「お、なんだ、その気になったのか?」
「いえ、それは、えっと、その」
あわあわと口ごもると、玉祥はクッと笑って珠蘭の頭にポンと手を置き、それから寝台に腰かけた。
「それで、どうした?」
「徳妃にとってはわたくしに子がいないほうが都合がいいと思うのですよ。でも徳妃は以前からわたくしの子を期待してると言っていて、最初は社交辞令かと思っていたのですけれど、嘘のようにも思えなくて」
「あぁ、それは、徳妃の本心だと思うぞ」
「やっぱりそうですか?」
「徳妃は何が何でも自分の子を次の玉座に、とは思っていないからな。まぁ実家の派閥がある以上、大っぴらにそう宣言するわけにもいかないが、徳妃自身はあまり権力を欲してはいないな」
だとすると、徳妃がくれた助言は本当に珠蘭を思ってのことなのだろう。
玉祥は本を開いて頁をめくり始めた。今宵は泊まっていくと聞いている。少し読んでから寝るつもりなのだろう。
『少しずつ触れてみてはいかがですか?』
徳妃に言われた言葉を反芻する。今がチャンス。
珠蘭も上掛けを脱いで棚に掛けると、玉祥の前に立った。
「あ、あの、肩をお揉みしてもいいですか?」
玉祥は本から目を上げると、不思議そうに珠蘭を見た。
「どうした?」
「あの、わたくしが書類仕事に疲れていると、侍女たちがやってくれるんです。雲英は力が強くてちょっと痛いんですけど、明明は上手なんですよ。それで、やり方を教わったので、陛下もお疲れかな、と思いまして……」
だんだん声が小さくなる珠蘭に笑いながら、玉祥は「頼む」と言った。珠蘭は回り込んで玉祥の後ろにつき、おそるおそる肩に触れた。練習台になってもらった明明の肩よりも広く、そして固い。
ふにふにと触ってみると、小さな笑い声と共に肩がピクリと上がった。
「やめてくれ、こそばゆい」
「あ、すみません」
今度は力を入れて、習った通りに揉んでみる。やっぱり固い。書類仕事が多いのだろう。凝り固まっている。
確か固いところは親指でグリグリと、と明明が言っていた。
「どうですか?」
「うん、さっきよりは悪くないが、力が弱いな」
「えっ、けっこう力入れてるんですけど。凝ってますね」
「無理しなくていいぞ」
そこに固い岩盤があれば、柔らかくしてみたくなるものである。きっとそうだ。珠蘭はなんだか必死になってグリグリやった。親指が痛い。ついでに首の方にも手を伸ばした。こっちまで固い。どれだけ固まってるんだ。
「陛下はあまり肩を揉んでもらったりしないのですか?」
「全忠にやってもらうこともあるが、あいつのは力加減がおかしい。効くが痛いから嫌だ。他にもいるにはいるが、警戒することなく背後を任せられる人は多くないからな」
目の前には何にも守られていない玉祥の首。もし今珠蘭が刃物を隠し持っていて、皇帝を害するつもりがあったのなら、と考えて身震いした。皇帝は、いろんなところで不自由だ。
そんな最高位ながら大変な境遇に溜息を吐く。
「陛下も大変ですね」
(ん? それはわたしなら背後においても問題ないと思われてるってことだよね?)
少し喜んでいたら前から玉祥の手が伸びてきて、珠蘭の手を取った。
「もうやめろ、充分だ」
『手と手を触れ合わせるとか』
まさに今その状況だ。それで思い出した。少しずつ触れ合ってみる作戦中だったことを。
怖くなかった。全然大丈夫だった。むしろ凝り固まった肩に挑む気持ちになっていた。
「もういい。そろそろ寝るぞ」
玉祥は蝋燭を吹き消し、横になってしまった。どうやらお気に召さなかったらしい。けっこう頑張ったつもりだったのに、ショックだ。
もう一度明明にちゃんと教わろう。そうしよう。
そう思いながら、珠蘭はゆっくりと瞼を閉じた。
翌日、妃嬪たちの朝の会を終えて、徳妃と散歩に出た。新しい制度の話をしたいと言ったら、徳妃が話をしながら少し歩きませんかと誘ってくれたからだ。珠蘭としては妊婦を歩かせていいものか心配でならないが、「今日は体調が良くて歩きたい気分なのです」というので、そういうものなのだろうか。徳妃の速度に合わせて庭園を歩く。
「女官たちの制度についてですが、陛下にも了承いただきましたので、進めようと思います」
「わかりました。わたくしの方でも準備しましょう。春の入れ替えと同時になりますから、忙しくなりますね」
「えぇ。徳妃は無理しないでいいのですよ」
「皇后さまもお優しいこと。できるところだけやりますから、大丈夫ですわ」
少し離れたところにいる侍女と宦官に聞こえないように、小声で話す。
「ところで、昨日陛下がいらしたので提案して下さった肩もみをしてみたのですけれど」
パッと顔を輝かせる徳妃。いつもおっとりと顔色を読ませない表情をしているけれど、なんだか今はとても楽しそうに見える。妊婦になると表情が出やすくなるんだろうか。
「どうでした?」
「それが、陛下はお気に召さなかったようで。しばらく揉んでいたのですけれど、突然もうやめろ、と言われて。それからすぐに寝てしまわれたのです」
「寝たのですか?」
「えぇ。しかもわたくしに背を向けて」
徳妃は目を丸くして「まぁ……」と口を押さえた。
「やっぱり嫌だったのでしょうか?」
「いいえ、それは嫌だったわけではないと思いますわ」
「もし嫌ではないなら、やっぱりわたくしの肩もみ技術が足りないのでしょうか。力が弱いと言われたので、もっと強く押せるようにならないと駄目かしら」
自分の親指を見つめてみる。ここを鍛えるって、どうやるんだろう。
ゆっくり歩くうちに、池のほとりまで来ていた。橋を渡ると遠回りになる。妊婦を歩き回らせるのは気が引ける。戻ろうと提案するために徳妃を見ると、なんだか肩を震わせていた。
「大丈夫ですか? やっぱり体調が良くないのでは?」
「ハァ、いえ、大丈夫ですわ。皇后さまはやはり面白い方ですね。陛下も大変だと思っておりました」
ショックである。やはり珠蘭が皇后では皇帝は大変なのだろうか。
そうなのだろうなという自覚があるのがまた心苦しい。
「語弊のある言い方をしてしまいましたわ。皇后さまがあまりにもお可愛らしすぎて辛い、という意味ですわ」
「か、可愛い?」
「えぇ、とっても。それで、肝心の恐怖心はどうでしたの?」
「肩もみに集中してしまって、全然怖いとは思いませんでした。成功かしら? 徳妃のおかげですね」
池の近くは他の場所よりも風が強い。日差しが温かくなってきたけれど、まだ風は冷たい。「戻りましょう」と声を掛けて、来た道をまたゆっくり歩く。
「少しずつ花が咲いてきましたわね」
「そうですね」
もうすぐ、冬が明ける。
そのころ玉祥は、自室で執務を行いつつ、少しうとうとしていた。
「陛下どうされましたか。ゆっくり眠れなかったのですか?」
全忠は昨夜玉祥が皇后の所で休んだことを知っている。まずこの皇帝が、即位してからいままで一度だって後宮で朝を迎えたことのなかったこの皇帝が最近頻繁に朝帰りすることに驚いているのだが、それは今はおいておく。
ついでに朝帰りするくせに寝ているだけだというのだから、驚きを通り越して呆れ果てているのだが、それも今はおいておく。
眠そうな顔で戻ってきた玉祥を見て何か進展があったかとわくわくしたが、玉祥の表情からするとそうでもないらしい。
「寝たには寝たが、なかなか寝付けなかったのだ」
「何かあったのですか?」
「あいつに肩を揉んでもらった」
「それはよかったですね?」
それが寝れなかったことにどうつながるのか、全忠には全く分からない。玉祥がしごく真面目な顔をしているのもまた不思議だ。
「最初はこそばゆかったんだが、彼女なりに力を入れているらしくて、頬が緩みそうになるのを堪えるのに必死だった」
「あ、嬉しかったんですね」
「お前の力加減と足して二で割れればいいのに」
「なんだかすみません」
「次に、首も揉んでくれた。ちょっとぞくぞくした。鳥肌が立たないように、ぐっと力を入れてた」
はぁそうですか、としか言いようがない。
大した問題ではなさそうだと気がついた全忠は、横で書類の整理を始めた。一応話はちゃんと聞いている。できる側仕えであるから。
「そしたら! 息が! かかったんだ! 首に」
「はぁ、近付いていたなら、そうなるでしょうね」
「たまらず手を止めさせた。ここで襲わなかった俺を誰か褒めてほしい」
「わー、すごいですねー」
「ありがとう」
素直にお礼が返ってくるあたり、今日の玉祥は頭のネジが外れかかっている。全忠は書類の仕分けを始めた。絶対に今日終わらせなければいけない分、回っていない頭でもこなせそうな内容のもの、後日に回す分。
「それで、気が高ぶって眠れなかったんですか?」
「うん」
「陛下、一体今何歳ですか」
「二十三」
「真面目に答えなくていいです。知ってますから」
後宮にいっぱい自分の女を持っている人の言動とは思えない。どこでこうなってしまったのだろう。要因がいろいろありすぎて、どれだかわからない。
「陛下、そこまで思ったなら、襲ったらよかったのに」
「そういうこと言うなよ。揺らぐだろ」
「揺らぐんですね」
頭を抱えている玉祥に溜息をついて、全忠は今日でなくて良い分の仕事をそっと脇に避けた。
何だかんだ言って、また肩もみさせる。




