37.雪の舞う日に
「娘娘、雪ですよ」
明明に声を掛けられて窓を見上げれば、はらはらと白いものが外を舞っていた。この国の王都は雪深くはないが、冬の間に数回は雪が降る。
「どうりで寒いと思ったわ」
「冷えますね。積もるでしょうか?」
こんな時に思い出すのは、下女小屋にいた時のこと。今日は水が冷たいだろう。誰か風邪を引いていないといいけれど。
珠蘭は芋掘り大会の後もいくつか催しものをして、炭、食料、綿の入った服などを下女たちに渡している。下女だけを贔屓すれば反感を買うので、宮女たちにも与えてみたり、女官の待遇も良くしてみたり、水面下でいろいろ動いて珠蘭はちょっとお疲れ気味だ。
だけど、きっと今年の冬は例年よりは少し暖かく過ごすことができるだろう。
「少し休まれてはいかがですか?」
「今宵は陛下がいらっしゃる予定だから、もう少しだけ進めるわ。……って、来るのかな? 雪なので無理なさらずって伝えてくれる?」
「いらっしゃると思いますけど、伝えますね」
クスクスと笑いながら明明が出ていくと、珠蘭は紙の上に視線を落とした。
冬になると外へ出る機会は減るが、皇后の仕事が減るわけではない。むしろ増える。春に後宮の人員が大きく動くからだ。
後宮に仕える女官、宮女の任期は二年。任期が明けると女官たちは後宮を出ることになる。継続する場合は申請して許可されれば残ることも可能だ。長く勤めて位が上がると、今度は任期がなくなる。雇用形態はいろいろあってややこしい。
妃嬪候補である侍妾も任期は同じで、後宮に入ってから二年の間に皇帝のお渡りがなければ基本的に外に出される。
九嬪以上の位には任期はない。
ちなみに下女にも任期はない。奴婢には始めから選択肢などなく、ここで働けと言われれば働く、移動しろと言われればそうするしかない。
ついでに宦官にも任期はない。
「ねぇ雲英、今年出ていく侍妾多くない?」
「選秀女が行われたのが二年前ですからね」
「あぁ、なるほど」
選秀女は三年に一度開催される皇帝の妃嬪候補選抜試験だ。良家のご令嬢が参加し、容姿やら素養を試験し、合格した者は二十七世婦か八十一御妻の位を賜る。皇帝に気に入られたり子を産めば、そこから位が上がっていく。
玉祥が皇帝として即位してもうすぐ四年。
即位直後で慌ただしかったこと、珠蘭が皇后として嫁いだことや有力貴族や部族が女性を献上したことで遅れ、選秀女が行われたのは今から約二年前。即位後初めての選秀女だったため、定員に余裕がたっぷりあった。通常は五人選ばれれば多い方という中で、十人も選ばれた。
なお、ここに玉祥の意思は関係ない。後宮の人事であるため本来ならば決定権は皇后にあるが、皇后になって日の浅かった珠蘭に代わり、李皇太后と余皇太后がほぼ全てを決定した。
女官や宮女はその上官が管理して、最終的に女官長と皇后が印を押して終了だが、侍妾に関しては皇后が直接管理し、皇后と皇帝の印が必要になる。逆に言えば、皇帝と皇后が印を押せば決定である。
途中で人事に口を出してくる人もいるが。李皇太后とか、李皇太后とか、李皇太后とか。
「陛下にご挨拶を」
形だけ礼を取って、さっさと中に入ってもらう。歩いてきた玉祥たちも寒いだろうが、外で待っていた珠蘭たちも寒い。夏であれば外で待機している宦官たちにも玄関まで入ってもらう。さすがにこの場にずっといたら凍ってしまう。
「本当に来たんですね」
「そう言ってあっただろ」
「そうですけど、無理はなさらずと伝えたはずです」
「なんでお前は来なければいいのにみたいな顔するんだ?」
「いえいえ、陛下の心配をしているだけですよ。雪の中歩いてくるなんて、危ないです」
「へぇ?」
昼から降り始めた雪は、ひどくはなっていないが薄っすらと積もっている。滑って転んだらどうするのだ。もしそうなったら、側にいた宦官は助けられなかったという名目で罰せられるのだぞ。
「何か温かいものをもらえるか?」
「豆を煮た甘い汁物がございますけれど、召し上がりますか?」
「もらう」
火鉢を炊いて暖房をつけているけれど、それでも日が落ちると室内でさえもひんやりと感じられる。温かい汁物がじんわりと染みる。
少し雑談をしたのち、珠蘭は書類を明明から受け取った。
「春に任期が終わる侍妾についてなのですけれど、今相談してもよろしいですか?」
「聞こう」
正式に印をもらうのは、昼に皇帝の宮という公の場で、ということになっているが、どういう状況かはあらかじめ相談しておいたほうがいい。珠蘭は書類を渡すと補足に説明を始めた。
「今回二年の任期が終わる侍妾は十二名。そのうち二人は後宮に残すように李皇太后から言われておりまして、侍妾本人からも承諾をもらっています」
玉祥は苦い顔で「なるほど」と呟いた。
侍妾となった者の任期終了時には、大きくわけて三つの道がある。実家へ戻る、後宮に留まる、下賜される、である。
先程の二人は李家に関連する家柄の娘である。二人が残留を熱望しなくとも、李皇太后に残るようにと言われてしまえば断れないのだろう。
「最終決定権は陛下にありますけれど……」
「母上にそう言われてしまえば仕方がない。本当なら外に出してやりたいのだが」
「わかりました。その方向で進めますね。それから四名は実家に戻るということで本人及びその実家と話がついています」
この四人です、と書類を指差す。
「それでいいですか?」
「良い」
「会わなくていいのですか?」
「あっちが望まないなら、別にいいだろ」
ずいぶんとあっさりしたものだ。一応皇帝の女なのだから、会ってみたら気に入って手をつけるということだって許される、というかむしろそうなるべきなのに。
残り六人のうちの三人は、臣下に下賜される方向で話が進んでいる。一人は実家に戻れない事情がある者。二人は国内の部族出身で、皇帝に歯向かう意志はないという意味を込めて贈られた部族長もしくはそれに準ずる者の娘だ。要するに人質。だから、部族に返すわけにもいかず、ある程度見張りのできる場所にいてもらう必要がある。
「なるべく良さそうな者を選んでもらったつもりだ」
「感謝します。あとの三人なのですが……」
まだ皇帝のお手付きになって子を産んで、という理想を捨てきれない女たちだ。こちらとしては出て行ってほしい。なぜなら、侍妾には階級に応じて俸禄が支払われている。ひどい言い方をしてしまえば、子を成さず、仕事もしないのにお金だけかかる女を置いておきたくない、ということだ。
まぁ、彼女たちだけの責任ではないし、子を産ませようとしない皇帝も悪いのだが。
「会う機会を設けてもよろしいでしょうか?」
「仕方あるまい」
「ではすぐに手配しますね」
皇后主催のお茶会に皇帝に参加してもらい、その侍妾を同席させる。そこで見初められなければ諦めてね、ということだ。
玉祥が見終わった書類を受け取りながら、珠蘭は小さく溜息をつく。
「陛下、せっかく選秀女で合格した侍妾たちの、誰のところにも行かなかったのですか?」
「そうだな」
「皆美人さんですよ。好みの娘がいなかったのですか?」
「そういうことじゃない。必要を感じなかっただけだ」
「陛下のお渡りを待っていたでしょうに、わたくしのところに来ないでそちらに行ったほうが歓迎されますよ」
「ほぅ、お前は俺を歓迎してない、と?」
「とんでもないことでございます」
目を逸らす。
「皇后は他の妃嬪侍妾の所に行くように、皇帝に勧めることも仕事ですので」
「お前には言われたくない」
一通り話が終わり、入れ直してもらった熱いお茶で手を温める。そういえば、そこそこの時間が経ってしまったと気がついた。
「明明、外の様子はどうかしら?」
「あの、結構降ってます」
「え」
慌てて窓を少し開けてみるとぴゅっと冷たい風が室内に吹き込み、はらはらと舞っていた雪はしんしんと降り積もる感じになっていた。
「陛下、早くお戻りにならないと、戻れなくなりそうです」
いつの間にか珠蘭の後ろにきた玉祥が、窓から外を覗き込んだ。
「ほら、こんなに降ってきてしまいました」
「そうだな、ずいぶん降ってきたな」
「だからお急ぎに……」
「こんな中で戻るのは危ないよな? 雪の中歩くのは危ないって、さっきお前が言ってたよな?」
「……え?」
意味が分からずに振り返ると、玉祥はニコッと笑った。
「今日は泊まっていくことにする」
「はい?」
「だって危ないだろ? 俺が転んだら宦官が罰せられてしまうかもしれない。可哀想だよな?」
(だったらなぜ来た)
「来なきゃよかったのにとか思ってないよな?」
準備を、と玉祥が言えば、雲英と明明はささっと出ていき、ささっと戻ってきて、珠蘭を寝室に押し込んだ。「おやすみなさいませ」とこれまたささっと戻っていく。なんだこの手際の良さ。
「へ、陛下、自分の寝台でないとよく休めないのではないですか?」
「そう思ってたんだが、ここならたぶん寝れる気がする。というか、今までも気がついたら寝てた」
たしかに一度ここで寝落ちしてからというもの、気を使わなくなったのか、いつの間にか寝ていたり、一定時間仮眠を取って戻るということも普通の光景になってきていた。
「あの、朝まで寝るつもりですか?」
「うん」
(わたしはどこで寝たらいいんだろうか?)
「お前もここで寝ればいいだろ?」
「心の中を読まないでいただけますか」
「だって、それしかないだろ」
「布団を持ってくれば……」
「床は冷えるから駄目だ」
トンと背中を押され、珠蘭は寝台に顔面からボスッとめり込んだ。そのまま足も寝台に乗せられて、靴を脱がされ、奥まで転がされる。
「わっ。あのっ。お約束はまだ有効ですよね?」
怖がっていた珠蘭にかつて玉祥がしてくれた「皇后がいいというまで伽はしない」という約束である。
「わかってるよ。なにもしない」
「本当ですか?」
「本当じゃなくてもいいか?」
「だだだ駄目です」
慌てる珠蘭が面白いのか、玉祥はクッと笑いながら蝋燭の火を消すと、寝台にのってきた。玉祥が自分で靴を脱ぐところを見て、靴を脱がせるのは珠蘭の仕事だったと思い出したが、すでに遅かった。勉強した「寝所での決まり」を思い出して、せめて位置を反転させなければと思う。皇帝は壁側。もし寝ているときに襲撃を受けたら、珠蘭が盾になって皇帝を守るためだ。
むくっと起き上がって、玉祥の腕を壁側に引っ張ってみるが、非力な珠蘭では動かない。ついでに服越しだが玉祥の肌の温度を感じてしまって、すごく気まずい。
「何をしている? 近付いてほしいのか?」
「違っ。陛下が壁側です」
「あぁ、気にするな」
「無理です。向こうにいかないなら寝ません」
じゃないと、いざというときに珠蘭が逃げられないから。
キッと睨むと、玉祥は笑って奥へ行った。そして布団に入る。
「何もしないから、お前も入れ。寒いだろ」
残念ながら、それしか選択肢がなさそうである。珠蘭はしぶしぶ布団に滑り込んだ。さっきまで玉祥がいたところだけ温かさが残っている。
それから少し、どうでもいいようなことをお互いにしゃべった。男が怖かったはずだけれど、この距離にいても怖いとは全く感じなかった。珠蘭は疲れていたこともあって、だんだんと体が温まって眠くなってきた。
「なぁ、いつかは……」
「なんですか?」
「なんでもない」
いいと言ってくれるか? そう聞きたいのを、玉祥はまだ今じゃないと抑えた。
気になるじゃないですか。そう言おうかと思ったけれど、珠蘭はもう眠くて口が動かなかった。
いつの間にか、寝室には二人の規則正しい寝息だけが静かに流れていた。