35.ご機嫌伺い
「行きたくない」
そう言う主に「はいそうですねー」と適当な相槌を打ちながら、全忠は皇帝の帯を締めた。
「お前、返事が雑」
「ではどのようなお返答をご希望ですか?」
返事はなかった。雑な返事よりも、返事なしのほうがひどいはずだ。
「陛下、だいたい後宮に行くときは、行きたくない、とおっしゃるじゃないですか。『そんなこと言わずに』『行きたくないですよね』『わかりますー』どれを返したところでムスッとされるだけですし、どうせお前にはわからんみたいな顔をなさる」
「してない」
「えぇ、宦官である私にはわかりませんけどね、こう見えてこの全忠、傷ついてるんですよ。知ってます?」
わざとらしく、よよよと泣きまねをする全忠に、玉祥は片方の口端だけ上げてハッと短く笑った。
「それくらいで傷つく奴じゃないってことは知ってる」
なお、そんな茶番をしつつも手が止まらないあたり、全忠は有能な側仕えであると自負している。
ついでに、玉祥は行きたくない行きたくないとは言うが、実際にはちゃんと行くので、その辺りの心配はしていない。むしろ真面目すぎて、そこは心配だ。
「だいたい普通の殿方でしたら、自分の後宮なんてものがあれば嬉々として通うんじゃないのでしょうかね?」
「俺が普通じゃないって言いたいのか?」
「それは、むしろ普通であっては困るでしょう。皇帝陛下なのですから」
「……」
「お支度、できましたよ」
「できてしまったか」
はぁ、と短く息をはいて、玉祥は背筋を伸ばして宮を出た。
昼の太陽が目に眩しい。
後宮へは夜に訪れることが多いが、今日の訪問先は母である皇太后のところだ。お渡りをするわけではないので、たいてい昼に伺う。
明るいうちに後宮を訪れると、どこから情報を得たのか侍妾やら女官がわざとらしく視界に入ってくる。気にならないわけではないがいちいち気にしていれば進めないので、何も見えていないふりをして通り過ぎる。
そこへ見えていないふりができないものが飛び込んできた。
犬である。
「麦ちゃーん!」
と声も聞こえるが、犬は止まることなく皇帝を目掛けてすごい勢いで走ってくる。皇帝を守らねばと宦官の兵が前に出るが、完全に腰が引けている。まだ子犬だが、そこそこ大きい。可哀想になって、「よい」と兵をどかせると、それを待っていたかのように素早い動きで兵は避け、犬が皇帝に飛びついた。
「陛下、ご無事ですか?」
と口では言いつつ、兵たちはあわあわしているだけだ。
よしよしと撫でる皇帝に、犬は尻尾をはち切れんばかりに振り回している。
皇后が走ってきた。皇后らしい格好をしているので大層走りにくそうだ。はぁはぁと荒い息をしながら礼を取った。
「陛下に、ごあいさっ」
「良い。どうした?」
一度深呼吸して息を整える。
「申し訳ございません。本日は天気が良いので散歩をしていたところ、いきなり紐を振り切って走って行ってしまって。陛下に会いに来ていたのですね」
「そうか、余に会いたかったか」
そのとおりと言うように、麦ちゃんはもっと撫でろと玉祥に擦り寄る。キラキラした邪心のない瞳とふわふわの毛並みに癒される。
何よりも、この「会いたかった」と全身で喜びを表現する子犬が可愛い。
そう思いながら珠蘭を見ると、玉祥に会ったところで大して嬉しそうでもなく、かといって嫌そうなわけでもないが通常運転である。ちょっとムッとした。
「皇后もこのくらい余に会いたいと思ってくれてもいいぞ?」
外野から「きゃぁ」という声にならない音が聞こえてきた。女官たちは顔を赤らめたり胸を押さえたりしている。
そんな中で、珠蘭はきょとんと皇帝を見上げ、なぜか閃いたような顔をした。
「わたくしは毎日夢でお会いしておりますわ」
「は?」
「あれ、不正解?」
「正解不正解の話はしていない。何だそれは? 余が夢に出てくるのか?」
「会いたいけれど会えない境遇の二人が夢の中で会う、というような内容の詩を読んだところでしたもので」
「あぁ、そうか」
珠蘭が違ったらしいと残念そうな顔をするのと同時に、皇帝もまた残念そうな顔をしており、麦ちゃんだけが可愛らしく首を傾けていた。
「麦ちゃん、おいで」
麦ちゃんを引き離そうと珠蘭が手を伸ばす。それでも麦ちゃんは「きこえません」と言わんばかりに皇帝から離れない。
「陛下、もしお時間があれば少し一緒に歩きませんか? 麦ちゃんが離れがたい様子ですので」
「行きたいところだが、母上へ挨拶に伺うところなのだ。待たせるわけにはいかないからな。すまないが、また後日」
「そうでしたか。引き止めてしまって申し訳ありません。ほら、麦ちゃん、おいで」
「ごめんな、麦。今度散歩行こうな」
嫌がっていた子犬だが、雲英が抱きかかえると静かになった。犬でも雲英は怖いらしい。
玉祥は本当にこのまま散歩して戻りたかった。皇太后の所へ行ったところで、また文句を言われるに違いない。残念ながらそうもいかないので、珠蘭たちから離れてまた歩きだす。全忠がにやけながら話し掛けてきた。
「陛下は犬にも好かれるのですねぇ」
「そんなことはないだろ。そもそも犬にも、という前に人に好かれてない」
「あの女官たちの熱い眼差しに気付いていらっしゃらない?」
「あれは皇帝という立場に対するものだろう」
「まあ間違っていないかもしれませんけれど。ところで、後宮に最近犬が増えてるらしいですよ。ほら、あそこにも犬」
少し離れたところから、警戒するように見ている犬がいる。手を出そうものなら噛まれそうだ。
麦ちゃんとの様子を見た侍妾たちがそれで皇帝を呼び込もうとでもしているのだろうか、結果は惨敗が続いているらしい。
「陛下は犬好きだという噂です」
「まぁ、嫌いじゃないが……」
話しているうちに皇太后の宮へついた。
「輿をお使いになればよろしいのに、また歩いてきたのですか」
「今日はいい天気ですから、執務でなまった身体を少しは動かしませんと」
玉祥の母である皇太后の宮は、かつて玉祥が育った宮ではない。皇太后になるにあたって移動したからだ。それでも、室内の設えや調度品など、どこか懐かしい気分になる。
出されるお茶も茶菓子も、どこか懐かしい。子供のころから好きだった味が、今もそのままだ。
「母上は体調に変わりはございませんか?」
「あるに決まっているでしょう! まったく、なぜ淑妃……李婕妤を降格したりしたのですか。実際に李婕妤が何か企んだとしても、何か方法はあったでしょう。李家を崩せば、陛下もその座から追われますよ?」
「そうだとしても、罪をなかったことにはできないでしょう」
「なかったことにはならなくとも、なかったことにすることはできたはずですよ。陛下は甘いのです」
皇太后は優雅な仕草でお茶を口に含み、これ見よがしに大きなため息をついた。玉祥は苦笑するしかない。
それからも、皇太后の不満は続く。
皇太后が玉祥のやり方に不満を持っていることは充分にわかっているし、文句を言われることも分かっている。だから正直なところ、この宮を訪れたくはない。それでも母なのである。ご機嫌伺いと称して、定期的にここへ通うしかない。
それは母の様子を気に掛けるためでもあり、情報を得るためでもあった。
「皇后のところばかりへ通っているようだけれど、対策はしっかりとっているのでしょうね?」
「……」
「陛下が隣国との関係を重視した結果の判断だったことはよく分かっていますからこちらも皇后を迎え入れましたけれど、その先は駄目です。まさか絆されたのではありませんよね?」
皇太后は控えていた侍女から包みを受け取り、机の上、玉祥の前に差し出した。
「まぁ、陛下が皇后に絆されたとしても、皇帝としての役目をきちんと果たしているのならばいいでしょう。好きな女子の一人や二人、皇帝なのですから問題ありません。でも、わかるわね」
包みの中は、おそらく子をできなくするための薬だろう。
玉祥は明言を避けながら受け取り、全忠に渡した。
「まさか徳妃の子を皇太子にと考えているわけではないでしょうね?」
「まだ決めておりません」
「ならいいけれど。李家があってこそのわたくしたちなのですよ。李家によって貴方は皇帝の座についたのです。李家の支えなくして、今のわたくしたちはありませんし、これからもありません。そのことを忘れてはなりませんよ」
「わかっています」
「わかっているならば、態度で示してちょうだい。李家から入内させる娘の候補が来ています。李婕妤の地位を戻すつもりがないのなら、大人しく娶りなさい」
皇太后が息子である玉祥を皇帝の地位につけるため、かなりの無茶をしたことを玉祥は知っている。それを後押ししたのが李家であることも、当然理解はしている。そのおかげで現在朝廷を牛耳っているのは李派だ。
その李派が、ずっと玉祥の味方でいるとも限らない。
少なくとも、李婕妤の件で皇帝自ら李派を一つ、遠ざけてしまったのだから。
外に出ると、眩しい太陽は変わらずにそこにあった。
無性に麦ちゃんを撫でまわしたい気分になったが、多忙な皇帝にその時間はなかった。




