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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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31/64

31.疑惑

 江林県への視察から戻って一月ほど。

 皇帝である玉祥は自身の宮である陽秀宮で軽く湯を浴び、全忠に新しい衣を着せてもらっていた。後宮へ渡る前、玉祥はいつも軽く湯を浴びてから向かう。妃嬪側は身を清めて待つものだが、別に皇帝がそうする必要はない。それでもなんとなくそうするのが習慣になっていた。


 はぁ。


 何度目かの溜息が出た。


「今宵は殊更に溜息が多いわりに、行きたくない、とごねないのですね」

「ごねるって、俺が駄々っ子みたいじゃないか」

「おや、違いましたか」


 クッと笑う全忠を睨みつける。

 そしてまた、溜息をついた。


 行きたくない。本当に行きたくない。たとえ口に出したとしても、行かなければならないことはわかっている。

 今日は、「行きたくない」と口にすることさえ億劫なほどに、行きたくなかった。


「御仕度が整いましたよ」

「整ってしまったか」

「えぇ、どんな時も抜かりなく支度を早急に整えております。この全忠は有能な側仕えですから」

「それ、自分で言うか?」

「陛下がおっしゃって下さるなら自分では言いません。さぁどうぞ」


 褒めろという眼差しを向けてきた全忠を、意図的に無視する。

 こういう軽口をわざと言っているのも分かっている。本当に有能な側仕えだ。ちょっと鬱陶しい。


「今宵はお前も来い」

「心得ておりますよ。参りましょう」



 それほど遅い時間ではないはずだが、外はすでに暗かった。日が短くなった。夜風が冷たい。冬が始まろうとしている。


「寒いな」

「上掛けをもう一枚お持ちしましょうか?」

「いや、いい」

「じゃあ、止まっていないで進んでください。宦官だろうと、寒いものは寒いんです」

「お前、側仕えってのは、『寒い』と言えば『そうですね』と言ってくれる存在じゃないのか?」

「違いますね。陛下が気付いていないことを諫言するのも、大切な役目でございます。名君なれば、お聞き入れくださるはず」

「お前、嫌い」

「私は陛下の事、好きですよ」


 玉祥はムスッとして進みだした。

 全忠の言う事はもっともである。寒いという仕草は見せないしたっぷり着込んでいるが、付き従っている数人の宦官だって寒いことだろう。


 歩いているうちに温かく……はならなかった。宮に到着しても、相変わらず手先が冷たい。むしろ、より冷えた気がする。



「陛下にご挨拶を。……中々いらしてくださらないのですもの。待ちくたびれてしまいましたわ。寒かったでしょう。中へどうぞ」


 淑妃の宮はいつもと同じ、甘くスッとした香りが漂っていた。皇帝がかつて「良い香りだ」と言ったときからこの香を焚くようになり、ずっと変わっていない。


 室内には質の良い調度品が飾られている。皇帝があまり華美すぎるのを好まないので、量はほどほどに、品よく揃えてある。

 李家の屋敷はこうではなかった。実家と同じような設えをする者が多い中でそうではないということは、皇帝に合わせて、皇帝が過ごしやすいように、このようにしているのだろう。


 中では男児が頭を下げていた。


「ちちうえにごあいさつを」

「息災であったか」

「はい」

「挨拶がずいぶんしっかりしてきたな」


 皇帝が男の子の頭に手を乗せると、彼は嬉しそうに微笑んだ。淑妃はもうじき二歳になる女児を抱いている。少し眠いのか、それにもかかわらず動きたいのか、あまり機嫌は良くない。


 男児が先日書いたという絵を見せたのを褒め、動きまわる女児がつまずいて泣いたのを抱いてあやす。皇帝が抱き上げると余計に泣き出してしまった。困ったように淑妃が受け取り、侍女へ渡す。


 傍から見れば、穏やかな一家団欒の姿。


 しばらくそうして子と過ごした後、淑妃は子供たちと侍女を下がらせた。


「お茶でよろしいですか? お酒になさいます?」

「茶をもらおう」


 母である淑妃から離されたのが不満なのか、女児の泣く声が遠くから聞こえてくる。


「淑妃は良い母親であるな。子が元気に育っている。なによりだ」

「陛下のおかげです」

「余は何もしていない」


 茶とつまみが出され、侍女たちが下がっていく。皇帝も人払いをした。


「陛下がお忙しいのは存じておりますけれど、たまには会いにきてください。子が寂しがりますわ」

「……」

「わたくしも寂しく思っておりますのよ」


 目元に色香を漂わせて、淑妃は微笑む。


 皇帝はそれに気付きながら、茶をすすった。皇帝が好きな茶だ。つまみも皇帝の好みをよく分かっている。皇后の宮に行った時に出される「何だそれは」というような物は出てこない。

 淑妃は、亡き正室、徳妃に次いで三番目に玉祥の妃になった。それだけ付き合いが長い。


「淑妃は余のことを思ってくれているんだな」

「今更どうされました?」


 フフッと淑妃は上品に笑う。

 綺麗な女だ。美しさも、気品も、皇帝の妃として申し分ない。

 それは淑妃が努力して手に入れたものだ。皇帝のために。


「わたくしはいつだって陛下を思っておりますのに」


 皇帝は淑妃の努力を知っていた。思いも知っていた。だから、苦しい。


「淑妃、あの時、何があったのかもう一度教えてほしい」


 あの時とは、江林県で皇后と淑妃が攫われた時のことだ。

 ピクッと淑妃の肩が揺れる。


「調査が来た時に、担当者にお話しましたよ」

「わかっている。でもまだ犯人が捕らえられていない」

「わたくしたちを攫った賊二人は自害したのでしょう?」

「その先がいるはずなのだ」

「わかりました。わたくしがわかることでしたら、何でもお話します」

「まず、淑妃が皇后を誘ったのだったな」


 普段は仲が良いとは言えない皇后と淑妃。街に出たいのであれば、淑妃だけで出ることも可能だった。


「皇后さまもお時間があるようでしたからお誘いしました。確かにわたくしと皇后さまは非常に仲が良いとはいえないかもしれませんけれど、後宮に暮らす女同士、仲間でもありますのよ。それに、わたくしが外出するには皇后さまの許可が必要でしょう? それならば共に行ってもいいかと思ったのです」

「行く場所は決まっていたのか?」

「こういう店に行きたいと李家の者に相談して、目星はつけてもらっていました」

「あの茶廊へは?」

「休憩は必要だと思いましたので、お茶ができるところをいくつか聞いていたのですよ」


 窓から侵入した賊。

 いくつもある部屋のうち、どうしてその場に二人がいると分かったのか。窓が開いていたこと。まるであらかじめそこを狙うように指示されていたかのようだった。

 通常ならば部屋の中にいるはずの護衛がいなかったこともおかしい。


「二人で話したいからと護衛を部屋の外に出したのは淑妃だと聞いた」

「そうです。陛下のお話をするのに、護衛に聞かれるのはどうかと思いましたの」

「それでも、護衛は近くに置くべきだったな」

「申し訳ございません。その件については反省しております。江林県は李家の管理する土地。わたくしに危害を加えようとはしないはずだと、そう思ってしまったのです」


 その後、連れ去られた郊外の宿から淑妃だけ逃げ出す。


「目が覚めたら誰もいませんでした。鍵も開いていたので逃げました」

「賊はいなかったのか?」

「誰もいませんでしたよ。賊どころか店の人もいなくて、とても静かでした」


 それから淑妃は宿を出て、近くの店に逃げ込んで助けを求めたという。


「そこで李家に連絡を入れてほしいと頼んでくれたのだったな。その店の者に聞いたところ、淑妃が逃げ込んできて、すぐに兵を出してほしい、まだ皇后がいる、という話を聞いて慌てて呼びに行ったと言っていた。間違いないか?」

「間違いございません」

「そうか。淑妃が兵を依頼してくれたから、何とか皇后が助かった。そうでなければどうなっていたか」

「無事でなによりでしたわ」


 話を聞き終えた皇帝はお茶を口に含んだ。

 少し冷めたが、それでも香り高く、わずかに甘味のある良いお茶だ。すっきりとして苦味などないはずなのに、ひどく苦く感じるのはどうしてだろう。


 皇帝は目を閉じ、ゆっくりと茶を味わってから、淑妃を見つめた。


「淑妃、どうしてこのようなことをした」

「このようなこと?」

「皇后を攫ったのは淑妃の手の者なのだろう?」

「え?」

「この一連の騒動を企てたのは淑妃だろう。違うか?」

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