30.帰路
珠蘭が目覚めたのは翌朝のこと。
目覚めた、というよりは起こされた、という方が正確だ。
「……娘娘!」
ぼんやりと意識が浮上した。悪夢を見た。ぐっしょりと汗をかいている。
寝起きの頭では、どこまでが現実でどこからが夢だったのかはっきりわからない。どちらにせよ最悪だ。
「娘娘、すごいうなされてたから……良がっだぁ!」
いつもツンとした明明らしからぬ言動。どうしたんだろう。
(そうか、攫われて、危ないところを助けられて、どうしたんだっけ)
頭がまだぼんやりしている。
目の前で珠蘭が攫われるのを見た明明は、どれだけ心配しただろう。それと同時に彼女が無事なことに安堵した。珠蘭が攫われてからのことは、何もまだ聞いていないから。
「明明、無事?」
「はい」
「雲英も?」
明明は頷きながらも言葉にしようとして失敗したように「あぐぅ」と呻って寝台に突っ伏し、泣き続ける。布団が水浸しになってしまいそうだ。
それにしても、頭がぼーっとする。いろんなことが起こったせいだろうか。このまま何もかも忘れて眠ってしまいたい。
そう思ったのが最後だった。
そして、本当にそのまま寝た。
次に目が覚めたのは、丸一日経ってからだった。
また明明に泣かれた。
目覚めたと思ったら泣いている間にまた意識を失い、目覚めたという知らせを聞いて皇帝が駆けつけても、医官が来ても目覚めず、熱はどんどん上がるし、不安で仕方がなかったという。
(明明、ごめん)
まだ怠いけれど熱は引いたようで、医官の見立てによれば、よく休めば身体は回復するだろうとのことだ。
その翌日、珠蘭は城へ戻る馬車に乗っていた。
珠蘭の体調を考慮して一日滞在を延ばしたけれど、皇帝の仕事を何日も休むわけにはいかない。珠蘭に関しても、いろいろあった地よりも後宮に早く戻した方がいいだろうと判断されたためだ。万全じゃないとはいえ、体調はだいぶ良くなっていたことであるし。
行きと同じように皇帝と皇后が同じ馬車に、淑妃は別の馬車に乗りこんで、李家の人々が首を垂れる中、馬車はゆっくりと出発した。
街を抜けて郊外まで出たところで、皇帝は上掛けを脱いで態度を崩した。
「皇后、体調は大丈夫か?」
「おかげ様でだいぶ良くなりました」
「もう少し療養したほうがいいのだろうが、無理を言ってすまないな。お前を一人で残すのは不安だった」
「いいえ、わたくしが出歩いてしまった結果です。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
李家の地がそんなに危険だとは思わなかった。
油断して街歩きに行ってしまった珠蘭の責任でもある。
「お前にとっては今こうして余と二人でいることも苦痛だろうが、我慢してくれ」
珠蘭を一人で馬車に乗せると、その馬車が襲われる危険があるという。皇帝と一緒であれば狙われる危険は減る。
「なんで我慢なんですか」
「お前が男を怖いと感じていることは知っている。それで、今回の件だ。余と話すのも辛いだろう」
「そんなことないですよ。陛下は助けてくれたではありませんか。そうだ、ちゃんとお礼を申し上げずに失礼しました。感謝いたします」
こっちがお礼を言っているというのに、皇帝は目を丸くしているだけだ。何か変な事を言ったのだろうか。
「大丈夫なのか? どうしても怖いようであれば、途中で侍女を乗せるとか、なんとか分からないように余が違う馬車に乗ることも考えたのだが」
「大丈夫です」
「本当か? 全忠は、男が駄目なら女装すればいいんじゃないか、と言ってきたぞ」
「陛下が女装? なんですかそれ。余計に怖いですよ」
ふふっと笑うと、皇帝は気が抜けたように息を吐いた。それから気遣わし気に珠蘭を見た。
「どうしても辛かったら言えよ」
「大丈夫ですって。陛下の事は信頼しておりますから」
皇帝は珠蘭に信頼されているということに喜びを感じた。同時に、男として見られていないと悲しむべきだろうかと少し悩む。
「むしろ陛下の方がわたくしと一緒で不快なのではないですか? あのようなところをお見せしてしまったわけですし、汚らわしいと思われるのでしたら降りますよ」
「そんなことない! そんなことないから、そんなこと言うな」
なんだか焦っている。
皇帝は優しい。未遂とはいえ、他の男が触れたのだ。気持ち悪いと思われても仕方がないというのに。
「淑妃は大丈夫でしょうか? もし危険を減らすためということでしたら、淑妃もこちらの馬車のほうがいいのではありませんか?」
「いや、ここは李家の地だ。淑妃は大丈夫だろう」
なぜか冷たい目をして外を向く皇帝に違和感を覚える。
「あの、何か分かったことがあれば教えてくださいませんか? わたくしはなぜ攫われたのでしょう?」
「お前……もう少し時間を置いて、落ち着いてからのほうがいいのではないか?」
「知らないでいるほうが落ち着かないのですよ」
「そうか。ならば、わかっている範囲で話そう」
まだ調査中ではっきりしたことはわかっていないと前置きした上で、皇帝はゆっくりと話し始めた。
珠蘭と淑妃がお茶を飲んでいるところに二人の賊が侵入。珠蘭と淑妃を抱えて窓から逃げ、街の外れにある宿に閉じ込めた。珠蘭たちについていた護衛はすぐさま捜索に出るが、賊を見失う。淑妃が自力で逃げて助けを求め、場所が判明したために李家の兵が向かい、知らせを受けた皇帝も現地へ向かった。
という流れらしい。
「その賊二人は何者だったのですか?」
「それが、捕らえた後に牢の中で自害しているのが見つかった」
「えっ?」
「結局何者なのかわかっていない」
拷問を恐れて自害したのだろう、ということにされたというが、皇帝は本当に自害であるか疑わしいと思っている。むしろ、そうでない可能性のほうが高いと考えている。
「思い出させるのは忍びないが、何か手がかりになるようなことは言っていなかったか?」
「えっと、まず、命は取らないと言われました。それから、見えるところ以外ならばどうしても良いと言われていると」
皇帝はぐっと眉間に皺を寄せる。非常に不快だ。だけど、先を聞かなければならない。
言われている、と言ったということは、指示した者がいるということだ。
「あと、物音がした時、おそらく兵が来てくれた時なのですけれど、予定より早い、と言っていました」
「予定より早い? 予定とはなんだ」
珠蘭に尋ねている風でもなく、皇帝は考え込む。珠蘭は邪魔しないように、外の景色を眺めた。行きと同じように、畑からこちらに首を垂れている人達がいる。はるか向こうの方に、駆け回る子供たちも見えた。
のどかに続いている風景。
ふと珠蘭を助けようとしてくれた延と呼ばれていた男を思い出した。
「あの、彼はどうなりましたか? まさか、一緒に自害ということは……」
「ない。こちらの手の者に都へ送らせている。奴とはどんなやりとりをした?」
たぶん彼は奴婢だ。昔の葉と同じような雰囲気だったから、そう思う。
皇帝に彼の行いを告げたところで助かるかはわからない。それでも助かってほしい。そうするためには、珠蘭が丁寧に事実を伝えることが大切だ。
震えそうになる手を抑えて、あの寝台であったことを話していく。
どうにか逃がそうとしてくれたこと、縛られていた縄を外してくれたこと、監視していた二人に気がつかれないように猿轡も外してくれたこと。
「お前と事前に面識があったはずはないよな?」
「ありません。彼はわたくしが皇后であることも知らなかったようでした」
「なんでお前を助けたんだ?」
「わたくしもそれは疑問に思いました。言われた通りにしたほうがよかったはず。でも彼は、どちらにしろ殺されると。だから最後に良い事をしたいと」
俯いた。彼はきっと、元々は善良な人なんだろう。身分が違えば普通の人生を送ったに違いない。
「陛下、彼はそうせざるを得なかっただけです。彼の意志ではないことは確かです。だから、どうか、寛大なお心で慈悲を」
珠蘭は頭を下げた。助けてくれた彼を死なせたくなかった。頭を上げろと言われて皇帝を見ると、見るからにムスッとしていた。
駄目なのだろうか。やっぱり罪は免れないだろうか。
懇願するように見上げると皇帝は目を逸らした。
「どんな事情があるにしろ、お前の肌に触れてお前に馬乗りになっていた奴を許せるほど、俺は心が広くない」
(俺?)
「それに、お前があいつを擁護するのも面白くない。あいつはお前に乗っていたんだぞ。不愉快極まりない。思い出しただけで気分が悪くなる」
言われてみれば、たしかに顔色がちょっと良くない気がする。
「もしかして、酔いました? 大丈夫ですか? 休憩しますか?」
「酔ってな……くはないかもしれないが、今はそういう話をしてるんじゃない」
「酔ってるんじゃないですか! せめて横になってください」
「まだ大丈夫だ」
「まだ」
「いいから聞け!」
声が少し大きくなって、珠蘭は口を噤む。皇帝はハッとして「すまん」と謝った。
「とにかく、あいつを擁護するような言葉を外で口には出すな。状況からして違うことはわかるし余がお前を疑うことはないが、話だけ聞いた者の中にはお前が奴と通じているのではないかと言い出す者が出てくるかもしれない。わかるな?」
よくわかった。実情がどうであろうと、悪く言おうと思えばできる。
この件に関して、珠蘭はどう考えても被害者だ。それでも、皇帝の留守をいいことに皇后が男を連れ込んだ、という噂を立てることも可能なのだ。珠蘭が延を庇えば庇うだけ、そんな噂に信憑性が増してしまう。
「本人からも話を聞く。状況を目にしたものが多数いる時点で無罪放免とはいかないだろうが、なるべく穏便にできるように取りはかりたいとは思っている」
「感謝します」
皇帝が窓の外に目を向けたので、珠蘭も同じように外を見る。のどかな風景を通り過ぎて、小さな街にさしかかっていた。大きな市ではないが、野菜や穀物らしき何かが売っているのが見える。
「街歩きは楽しかったか?」
ちょっと迷う。満面の笑みで楽しかったと答えていいものだろうか。だからといって、楽しくなったとは言えないし、街歩きだけを考えるならばたしかに楽しかった。それがあんなことに繋がってしまって、街歩きに行った珠蘭の責任でもあるし……。
「楽しくなかったのか?」
「いえ、楽しかったです」
「何をした?」
「お店に入って装飾品や玩具を買って、それからお饅頭を皆で食べました。蒸かしたてで美味しかったですよ。庶民が通うようなところにも行きました。そこで……」
だんだんと皇帝の眉間の皺が深くなって、珠蘭は口を閉じた。
「楽しそうだな」
「はい」
「次は余と行け」
「はい?」
「それなら安心だろ」
首を傾げる。てっきりもう行くなという方向に話が進むのかと思った。
「蒸かしたてのお饅頭、俺も食べたい」
ボソッとそういうので、珠蘭は思わず笑ってしまった。
「わたくしは串焼きがいいです」
「どっちも食べればいい」
「そうですね」
昔は見ているだけだった物たち。彼と一緒に食べたら、きっと美味しい。
そんな想像をして楽しい気分になっていたら、皇帝がコテリと横になった。
「食べ物を想像したら、気持ち悪くなった」
「えっ? 大丈夫ですか?」
「まだ何とか大丈夫、だと思う」
「ええっ?」
帰りの馬車もなかなかのスリルを味わったものの、皇帝はぎりぎり吐くことなく、無事に宮城にたどり着いた。
30話まできました。
読んでくださりありがとうございます!