3.お見舞い
「陛下がお見舞いにいらしてくださるそうです」
葉が皇后である珠蘭として目覚めてから数日。
ようやく葉改め珠蘭は現状を受け入れ、られるはずもないが、そういうものだと割り切って生活し始めた頃。
「え、嫌です」
にこやかにその知らせを持ってきたこの宮の侍女頭の雲英に、思わず珠蘭は間髪入れずに拒否の言葉を発してしまった。みるみる雲英の笑みが深くなる。
(あ、これはやばい)
つー、と目線を逸らしてみるが、当然見逃してなどもらえない。
「娘娘」
皇后を始めとした女性の高貴な身分の主に対する尊称で呼ばれ、珠蘭は覚悟を決めて「ハイ」と返事をした。これから始まるであろうお説教を止めてくれる人など、今のこの宮にはいない。普段なら唯一助けてくれる侍女の明明は、今はそうしてくれない。
「—―ということで、娘娘には皇后としての自覚をもって頂き……」
うんたらかんたら。つらつらと続くお説教を反省している様子を見せつつ相槌を打ちながら、半分聞き流す。
「娘娘、きいていますか?」
「ハイ、もちろん」
バレてた。
この宮の主は当然皇后だが、実質的な権力者はこの年嵩の侍女、雲英である。皇帝から直接付けられた侍女であり、優秀で、年若い珠蘭の教育係でもあるため、皇后でさえも頭が上がらない。
だからといって下げると怒られるが。
葉という下女が皇后の身体に入り込んだというおかしな状況を伝えたのは、この雲英と明明の二人である。明明は歳が近く、輿入れ前から仕えている珠蘭が最も信頼している侍女だ。珠蘭として目覚めてすぐに様子がおかしいと見抜いたのも明明だった。
「さて娘娘、事情をお聞きしましょうか?」
どうやってごまかそう、なんていう考えを一瞬たりとも持たせない速度で圧力のこもった笑顔を向けてきた雲英に、葉は速攻で折れた。そもそも皇后の筆頭侍女相手に下女が敵うわけもないのだ。上の者には逆らうべからず。幼少期より叩き込まれた教訓は、今もきっちり生きている。
最初から話すつもりだったけれど、やっぱりひたすらに話した。すべからく、思い当たるところを全て。
葉という名の下女として生涯を終えたこと。珠蘭の魂に会ったこと。皇后の身体に引き込まれたこと。珠蘭の記憶もあること。
「信じられることではありませんね」
「ですよね!」
勢いよく肯定する程度には、葉にだって信じられる話じゃないという認識はあった。でも結局、雲英はちゃんと葉の言葉に齟齬がないことを調べてくれた。
そして、
「信じられないけれど信じざるを得ないので信じます」
という非常に信じたくないという意志を感じさせる言葉でもって、葉の主張は受け入れられたのである。
「下女だったなどと知られれば、皇后の立場が揺らぎます。それは珠蘭様だけでなく、その後ろに背負うもの全てが揺らぐということです。どういうことか、わかりますね? 他の者にこの話をしたり、疑われるようなことがあってはなりませんよ」
雲英の顔が恐ろしすぎて、コクコクとただ頷いた。
なお、明明には、
「皇后のお体から出ていけぇ!」
と、箒でまるでネズミを追い払うかのようにバシバシと叩かれたり(雲英によって皇后の身体に傷ができるからやめなさいと止められた)、
「悪霊退散、悪霊退散……」
と、紙のお札を額に貼られて呪詛めいたものを唱えられたりした。
良かったのか残念なのかわからないが、それで葉の魂が追い出されることはなかった。
話が逸れたが、陛下がお見舞いに来るのである。
宮の中は華やいだ雰囲気に変わり、皆せっせと準備に取り掛かる。「嫌です」という拒否の言葉はなかったことにされ、あれよあれよという間に着飾らされ、頭に簪を挿された。
(どうしよう)
皇帝が皇后の見舞いに訪れる。何もおかしなことはないどころか、後宮において皇帝がわざわざ来てくれるということはかなりの名誉だ。だけど、男に恐怖心を抱いている葉にとってはありがた迷惑でしかなかった。陛下は後宮に入ることのできる唯一の男性である。下女だった頃には出会うことなどないはずだった。
(どうしよう)
もう一度思ってみても、状況が変わるはずもなく。どうしようもないということくらいはわかる。なるべく粗相せずに、疑われずに、早々にお戻りいただくしかない。
「まもなく陛下がいらっしゃいます」
先触れの宦官がそう告げると、表に出るように促された。皇后の後ろには雲英と明明が並ぶ。
ほどなくして外がざわざわと騒がしくなった。宦官を数人引き連れて、皇帝陛下、その人がやってきたのだ。執務の合間に来たのだろう、きちっと整った衣装を身にまとい、髪は結い上げて小さな冠をつけている。
珠蘭は教わった通りに膝を軽く折り頭を下げた。
「陛下にご挨拶を」
「楽にせよ」
震えないように、おかしくないようにおそるおそる顔を上げると、皇帝と目があった。美しい人だった。凛々しさはあるけれど、どちらかというと女性的な柔らかさを感じる顔付き。だからだろうか、思ったほどには恐怖心を感じずにすんだ。
後ろから小声で「娘娘」と聞こえてハッとして、手順通りに宮の中に入るように進める。
部屋の中にはすでにお茶の用意がされていた。午後の早い時間ということもあって、軽くつまめるものが用意され、お酒はない。毒見はすでにされているが、それを示すためにこちらから茶に口をつけるのが作法だ。
手が震えることがないように、グッと一度握りしめてからお茶に手を伸ばす。一口含んでそっと戻すと、少しだけカシャリと音がした。チラッと皇帝を見ると、気にしたようすもなく一口お茶を含み、それからゆっくりと口を開いた。
「皇后、具合はどうだ」
「だいぶ良くなりました」
「そうか、ならよい」
「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
「いや、体調を崩すことは誰にでもある。仕方がなかろう」
聞かれたことだけ答えればいい。粗相をしないように。それだけに気を配りながら、俯いた。顔を見たら震えてしまうかもしれない。
「どうした? なんだかいつもと様子が違う気がするが」
ぎょっとして目を上げると、皇帝の目と合ってしまった。黒くて深い瞳に何もかもを見透かされそうな気がして、慌てて目を逸らす。
「そ、そんなことございません」
「まだ本調子ではないのかもしれぬ。しばらく勤めは果たさずともよい。ゆっくり休むといい」
「感謝します」
茶を一杯だけ飲み終えると、皇帝はすぐに席を立った。それに続いて珠蘭も立ち上がり、皇帝の一歩後ろについて外に出た。
門の外にはなぜか女たちが集まっていた。堂々とこちらを見る者、陰に隠れてこっそり窺っている者などさまざまだ。
「お見送りを」
門の外まで付き従い、珠蘭が見送りの言葉を述べると、皇帝はおもむろに振り返り、珠蘭に今日一番の優しい笑みを向けた。その瞬間、珠蘭はゾクッと冷たいものが身体をつたう気がしたが、逆に女たちは黄色い声を漏らした。
「皇后、ここまででよい。よく身体をいとえ」
皇帝はもう一度微笑みを向けると、踵を返して去っていった。その後には、へなへなと座り込む女たちがいた。
皇帝が見えなくなると珠蘭は宮の中に戻り、バタッと椅子に倒れ込んだ。たぶんすごく短い時間だったし、たったこれだけのやり取りにも関わらず、ものすごく疲れた。
はぁ~、と長く息を吐くと、同じように雲英も溜息を吐いていた。
「あの、あたし、何かやっちゃいましたか?」
「いいえ、まぁ、大丈夫でしょう」
非常に含みのありそうな、言いたいことを我慢しているような感じだったけれど、それを聞く気にはなれなかった。
(なんとか大丈夫だったかな)
緊張はしたけれど、怖くて震えるということはなかった。皇帝の前でお茶を思いっきりぶちまける心配をしていたので、とりあえずホッとした。
(また来るよなぁ……)
その日の事は、ひとまず考えないことにした。




