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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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29.誘拐2

少しですが、暴力的な表現があります。

 がたいの良い男に押されて珠蘭にのしかかった細身の男は、体勢を立て直して寝台横の男を睨んだ。


「潰れるだろ」

「そいつはすまねぇ。でも見えるところ以外ならどうしたって構わないって言われてるぜ」

「おい、余計な事しゃべるな」


 卓子横に座ったもう一人の男から鋭い声が響き、珠蘭はビクリと身体を揺らす。


 細身の男が珠蘭を上から下まで眺め、眉間に皺を寄せた。寝台横にいる男をチラリと見ると、縄で結ばれている珠蘭の足の方向に目を落とした。


「なぁ、足は外してもいいだろ? これじゃやりづらい」

「ハハッ、そりゃそうだ」


 足の縄が解かれた感触がする。何のために足の縄を取ったのか、考えたくもない。だからといってこの状況で何をされるのか、本気でわからないわけじゃない。自由になった足をばたつかせるが、男の力にはかなわなず、すぐに押さえつけられてしまった。


「ご夫人、あんまり動かないほうがいいぜ? 自分に傷がつくだけだ」

「ずっと見てるつもりか?」

「あ? それが仕事だからなぁ。お前にも恥じらいってのがあんのか?」


 ニタニタといやらしい笑みを浮かべる男に、細身の男はフンッと鼻で笑った。


「あんたが欲情して横取りするんじゃないかって思っただけさ」

「おっと、お前の楽しみを奪うわけにはいかねぇよなぁ」

「お前は本当にそうなりそうだ。こっちきてろ。(えん)、さっさと終わらせろよ」


 延というのは細身の男の名前だろうか。

 座っている男がニタニタ男を呼ぶ。さっさと終わらせたらつまらんだろうに、とぶつぶつ呟きながら卓子へ向かい、ドカッと腰かける音が聞こえた。


 珠蘭に向き直った延と呼ばれる男が、震える珠蘭に乗りかかってきた。


「んー!」


(やめて!)


 猿轡(さるぐつわ)のせいで言葉が出ない。

 男の手が衣の上から腰に触れた。顔が近付く。

 全身が粟立った。


 できる限りの抵抗を試みると、強い力で頭を押さえつけられた。耳元に口が近付き、息が掛かる。

 口には猿轡があって噛みつくこともできない。手は固定されていて動かない。華奢な珠蘭の上に男がのしかかれば、動きは簡単に封じられてしまう。


 もう無理か。

 最後の抵抗に思いっきり身体を捻って呻る。


「んーっ」

「あんたを逃がしてやる」


(えっ?)


 気のせいかと思うくらいに小さく、でも確実にそう聞こえた。

 

(逃がしてやる?)


「俺に合わせろ。おかしな動きをすればあいつらが来る。いいな?」


 延と呼ばれた男はあの二人の仲間じゃないのだろうか。

 意味がわからない。だけど、彼に従う他に道もない。

 状況がわからないまま、小さく頷く。


「俺はあいつらの言う通り、命を取れとは言われていない。どうなるかわからんが、事が済めば、もしかしたら元の場所に戻されるのかもしれない」


(事が済めば?)


 拒絶を表すために、珠蘭は思いっきり首を横に動かそうとする。抑えられた頭はほとんど動かない。

 延はもがく珠蘭を押さえつけるかのように振舞う。

 体が密着して、息ができない。


「このままあいつらに従うほうが安全かもしれない」


 安全?

 この状況で何が安全だというのだろう。

 もしここで何も示さなければ、この男は……。


 わざとだろうか、頭を押さえる彼の力が弱まった。

 彼には分るように、横に首を振る。


「逃げるか? そっちのが命は危険になるかもしれないぞ」


 コクコクと小さく頷く。「わかった」と声が聞こえ、一度身体が離れた。グッと横向きに体勢を変えられ、思わず呻く。


 珠蘭の指に彼の手が触れた。しばらく掛かって、腕を固定していた縄が外れた感触がした。


(本当に逃がそうとしてくれてる?)


「そのまま俺に抵抗しているふりをしながら聞け。男二人を俺一人で抑えるのは無理だ。どちらかが外に出たら、俺がもう一人を抑える」

「ん、んー!」

「扉の先にはあいつらの仲間がいるかもしれない。あそこに窓がある。ここは二階だが、露台がある。隣伝いに走れ。いいか、機会を逃すなよ」


 延がチラッと卓子の方を見る。男二人が動く気配はない。


「口元のを取ってやる。声は出すなよ。あいつらに気付かれれば終わりだ」


 少し身体が離れ、延の顔が見えた。まだ若い。珠蘭と同じくらいだろうか。

 彼は男たちの様子に気を配りながら自分の服に手をかけてはだけさせ、珠蘭の衣をわざと緩めた。


 その続きをしているように見せながら、珠蘭の口を覆っている猿轡を外していく。


 身なりは貧しそうだけれど、その目は澄んでいた。

 言動からしても、この状況が彼の意志でないことはよくわかる。


 ふいに、昔が思い出された。

 似たような状況、切ない彼の瞳。


(どうして助けようと?)


 珠蘭を助けたところで、彼に恩恵はないはずだ。むしろそのまま従う方がいいに違いない。ハッと彼を見た。珠蘭を逃がした後、彼はどうなってしまうのだろう。残り二人の仲間ではないように見える。となれば、無事ではすまないに違いない。


(彼を犠牲にして、自分だけ逃げるの?)


 口には出せないのに、その思いが伝わったらしい。また耳に口を寄せられた。


「俺はどちらにしろ、このあと殺される。どうせそうなるんだから、ちょっと良い事をしておけば、次はお偉いさんに生まれるかもしれないだろ? 何が良い事なのかもうわからんが、あんたの顔見てりゃ、これが間違いだってことはわかる。だから、気にすんな」


 目を見開いた珠蘭に、彼は少し笑ったように見えた。


 次の瞬間、外から騒がしい音が聞こえてきた。椅子に座っていた二人が立ち上がる。


「なんだ? 予定にはまだ早すぎるだろう」

「様子を見てこよう」


 バタンと扉の音がして、一人が出ていったのが分かった。

 もう一人がこちらに向かってくる。


「おい、さっさとしろよ。まだ終わんないのか?」


 男の足音が近くなると、延が緊張したのがわかった。


「いいか、機会を逃すな。行けと言ったらすぐに動くんだ。絶対に無事に逃げろよ」


(でも)


 口元だけでそう呟く。彼には見えていない。


 彼はスッと身体を離すと、今度は間違いなく珠蘭に向かって笑った。もう、覚悟は決まっているというように、小さく頷く。

 そして男がやってくる背後に集中しながら拳に力を込めた。


 あと三歩、あと二歩……。



 バンッ!!



 勢いよく扉が開いた。ニタニタ男が歩みを止めて振り返るのと同時に、人がなだれ込んできた。カチャカチャという鎧がこすれるような音がする。


「捕らえよ!」


 あっという間だった。男一人に対して兵は数人。抵抗する時間もなく、すぐに男は捕らえられた。

 残りの兵が数人やってきて、この状況を目にしてハッと息をのむ。


 珠蘭にまたがって上半身を起こしている彼。

 はだけている衣。

 誤解だとしても、どういう状況か誰の目にも明らかだろう。


 延は両手を横に出して抵抗する気はないことを示し、動かない。


 兵のうち何人かは目を逸らした。皇后のこのような姿を見れば、もしかしたらそれだけで罰せられるかもしれない。


「皇后! いるか?」

「陛下、まだ入ってはなりません。危険です」

「皇后!」


 聞きなれたはずの皇帝の、でも聞きなれない怒声が響いた。


 延は珠蘭を見て目を見開き、「まさか」と呟いた。珠蘭が何者か、知らされていなかったに違いない。


 兵が止めるのを振り切って皇帝は入ってきた。

 珠蘭の瞳に皇帝が映る。この状況を目にした皇帝は一瞬言葉を失い、次の瞬間、延を殴り飛ばした。


 ドスッという鈍い音が響く。

 皇帝は延の胸倉をつかんでもう一発食らわせた。

 延は一切抵抗することなく、そのまま受け止める。そして皇帝はまた胸倉をつかんだ。


 温和な姿しか見たことがなかった皇帝の姿に珠蘭は衝撃を受けた。皇帝の目には明らかな怒りが浮かび、珠蘭の知らない顔をしている。


「陛下」


 全忠の呼びかけに、皇帝は荒い息を吐きながら、何かに堪えるように、まるで延を投げるかのように手を離した。


「何をしている。捕らえよ」


 低く威厳のある声が響き、兵の一人が延の両手を後ろに回した。

 延は自分が捕まったというのに、どこかホッとしたように珠蘭をチラリと見て微笑んだ。

 兵が延の手に縄を掛ける。


(駄目、待って)


 言いたいはずなのに、身体が震えて言葉が出ない。


「皇后、無事か?」


 言葉が出ずに、大きく頷いた。

 皇帝は自分が羽織っていたものを珠蘭に掛け抱き寄せると、兵に命じた。


「連れていけ」

「はっ」


(駄目!)


 連れていかれたら、たぶん彼は極刑となるだろう。皇后に手出ししたとみられているのだ。彼の身分を考えるならば、猶予も与えられないかもしれない。

 珠蘭は震えの止まらない手を何とか動かし、皇帝の袖を引いた。


「へい、か、まって」

「どうした?」


 震えの為か、猿轡を噛ませられていた影響か、言葉が上手く出ない。

 でも今止めなければ、延は。


(待って)


 そうしている間にも、延は連れられて部屋を出ていってしまう。


「皇后、今は何も話さなくてよい。もう大丈夫だ」


 いつもの優しい声に少しだけ力が抜けた。

 小さく、首を横に振る。


「彼、は……わたくし、助けて、くれました」

「何を言っている?」

「彼を、助けて」

「皇后? あやつは皇后を襲ったのだろう。なぜ温情を掛けようとする」

「違う、彼は、恩人。殺しては、駄目」


 とぎれとぎれの珠蘭の言葉を皇帝は遮ることなく聞き、悩む様子を見せた。

 そして後ろに控えた側近を呼ぶ。


「全忠」

「はい」


 静かに全忠は部屋を出ていった。

 珠蘭は大きく息を吐く。


「陛下、淑妃は……?」

「無事だ。心配ない」


 ホッと胸をなで下ろす。

 心配そうな皇帝の手に触れる。皇帝は緩く珠蘭を抱き寄せた。

 不思議と怖いとは感じなかった。むしろ、安心して力が抜けていく。


「陛下、来てくれて、感謝しま……」


 珠蘭はそこで意識を失った。

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