26.宴
江林県の李家滞在二日目。
朝餉の前に身支度を整え、皇帝へ挨拶に行く。案内された部屋の前で取り次ぎを頼むと「入れ」と声が聞こえた。扉が開かれて中に足を入れる。
さすがに皇帝をもてなすだけあって、質のよい調度品で溢れ、絢爛豪華だ。思わずぐるりと一周見回してしまう。皇后らしからぬ振る舞いだが、扉が閉まってからなので、きっと許されるはずだ。
皇后の部屋も似たようなものだったけれど、珠蘭はあまり好きではない。下女であったころの名残か、これに傷を付けてしまったら首が飛ぶ、と考えて恐ろしくなってしまうからだ。
奥まで進むと、皇帝は召し替えの途中だった。だいたい着替え終わっているから、皇后ならば入っても問題ないと判断されたのだろう。
皇帝はさすが皇帝であって、この輝くような部屋にいても違和感がないところがすごい。
「おはようございます、陛下。よくお休みになれましたか?」
「まあまあ休めたと思う。皇后は聞くまでもなくよく寝たのであろう?」
「いつでもどこでもぐっすり寝られる図太い奴、みたいに言わないで下さいます?」
「なんだ、違うのか」
本気でそう思っていたととれるような真顔。
全忠が軽く肩を震わせながら、皇帝の帯を整えている。
「わりと図太いのは認めますが……部屋が豪華すぎて落ち着かなかったのです」
「皇后の台詞ではないな」
「そうですよね」
「そういえば後宮のお前の部屋は調度品が少ない」
「不注意で割りでもしたら、殺されそうな気がして」
「殺さないよ?」
皇帝は目を見張って声を上げた。
皇后が高価な物を割ったり傷を付けたりしても、何も起きないことくらいわかっている。
「調度品一つ割っただけで皇后を害するって、どれだけ残虐な皇帝だと思われているんだ」
「思っていませんよ。でも、もしそれが下女だったら、可能性があるということです。まぁとりあえず、落ち着かなかったとは言っても陛下よりはよく寝た気がしますので大丈夫です」
「余もそう思う」
皇帝はけっこう繊細だ。後宮を訪れても寝るときは必ず自分の宮に戻るくらいだから、違う場所は警戒してしまうのだろう。
「朝餉は召し上がれそうですか?」
「朝からたっぷりの揚げ物でなければ大丈夫だ」
「そうですか。ではわたくしはこれで」
「共に取らないのか?」
「淑妃と召しあがる方がよろしいでしょう」
まだ気分が良くないようだったら、昨日の夕餉のように代わりに食べたほうがいいかと思ったが、そうでないなら長居する必要もない。
珠蘭は挨拶を終えるとさっさと与えられた部屋に戻った。
旅の疲れとやらを配慮した日程なのか、午前中は特に予定がなく、午後からこの地の貴族や視察目的の治水工事関係者との顔合わせがある。一応仕事であるが、顔合わせという名の昼から行われる宴会だ。
皇后と淑妃も参加するため、皇后の格に合った衣装に着替え、装飾品を付けた。ここまで衣装を運ぶのも大変だっただろう。
皇帝と共に宴席に入ると、すでに大勢の人が集まっていた。
ほとんどが男だ。下女だった頃に所有されていた主と同じような、中年の男性。
その視線を浴びて、珠蘭は全身がぞわっと粟立つような感覚に見舞われた。
やはり、怖い。
「皇后」
どうやら席を前に立ち尽くしてしまったらしい。小さく声を掛けられてハッと顔を上げると、皇帝の気遣うような瞳があった。
大丈夫ですよと言うように微笑み、皇帝が座ったのを確認して隣の席につく。淑妃も横の席に着いた。
そこからは次々と挨拶にやってくる。
「お目に掛かれて光栄です」
「どうぞよしなに」
ひたすらに挨拶が続く。皇后の役割は微笑んでおくことだけだ。
顔をある程度覚えなければならない皇帝は大変だ。
つくづく自分は場違いだと感じる。この座にいるのが淑妃であれば、一応親戚なのだから、これは誰で、あれは誰で、と少しは説明できただろう。
微笑み続けたおかげで頬が痛くなってきたころ、ようやく列をなす挨拶が終わったらしい。食べ物とお酒が運ばれてきた。
楽器の演奏が始まり、舞いが披露されている。
少しだけお酒と食べ物に口をつけると、珠蘭は主催者に断りを入れた。
「少し疲れたようです。わたくしは先に下がらせていただきますね」
「お部屋まで送らせましょう」
宴の邪魔をしないようにそっと立ち上がり、皇帝に礼を取った後で宴席をあとにした。ここで退席することはあらかじめ決められていた。これから、淑妃が皇帝の隣へ移動するだろう。
賑やかで熱の籠った宴を抜け歩廊を進む。だんだんと宴の音が遠のき、草木の揺れる音を感じるようになると、珠蘭は長く息を吐いた。思った以上に気を張っていたらしい。外に目を向ければ、庭園が見えた。夕日が目に眩しい。
「少し庭を歩いてもいいかしら?」
身分は珠蘭が一番高いとはいえ、勝手に人の家を歩き回るわけにはいかない。案内係の家人に許可を取る。
「外は冷えますけれど、大丈夫ですか?」
「少しお酒をいただいたので、冷ましたいの」
「そうでしたか。ではこちらへどうぞ」
庭は丁寧に整えられていて、池には橋が掛かっている。後宮ほどの規模ではないが、家の中にこれだけの庭園を作れるのは、それだけ権威があるということだ。
池のほとりで景色を眺めていると、横から珠蘭たちと同じような数人が歩いているのが見えた。あちらも気がついたようで、歩いて来ると礼をとる。
「淑妃、一体どうしたのですか?」
皇帝と淑妃は仲が良いですよアピール作戦の一環だと思っていた珠蘭は、まさか当人が出てくるとは思っていなかった。なんで出てきた。
「殿方の宴ですから、わたくしがいては邪魔になりますので遠慮したのです」
「邪魔はわたくしの方だと思って早めに出たのですけれど、どういうことでしょう?」
「皇后さまは分かっていらっしゃらないのですね」
皇后を馬鹿にしたような態度でありながら、憂いを含んだ顔色でもあった。
「今ごろ陛下は女に囲まれているでしょうね。宴の接待係という名目ですけれど、あわよくばと送り込まれた令嬢も多いでしょう」
「あぁ、なるほど」
「陛下が気に入った者がいれば、後宮の女子が増えるかもしれません。もしそうなれば、喜ばしいことなのでしょうね」
喜ばしい、と口に出しつつ、夕日に照らされた淑妃の表情は切ない。
あくまで歴代皇帝と比較してではあるが、皇帝の妃嬪の数は少ない。皇帝の子を成す存在が増えるのは、たしかに喜ばしいことなのだろう。
「皇后さまは嬉しく感じますか?」
「どうでしょう。陛下のお心が安らかであるように、とは思います。陛下にとって安らげる者がいることは、わたくしにとっても嬉しいこと」
淑妃は自嘲するように鼻で笑った。
「さすが皇后さまですね。でもそれは、陛下を心からお慕いしていないということではありませんの?」
意味がわからなくて顔を上げると、淑妃は答えを求めていないかのように一歩下がった。
「先に下がらせて頂きますわ」
軽く膝を折って礼をとると、淑妃は戻っていった。
宴の音がかすかに聞こえる。そちらに目を向けると、人が動いている影が見えた。
あの中で皇帝はどうしているだろう。
池に目を戻すと、風に乗って葉が池に落ちた。
揺れる水面を珠蘭はしばらく眺めていた。




