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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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24.移動

(どうやら視察に行くらしい)


 呼び出された陽秀宮で、珠蘭は正式に皇帝から視察の話を聞いていた。

 行事や視察、政の一環として後宮が関わる場合、まずこの皇帝の宮で皇后が依頼を受け、了承し、妃嬪に伝える、という流れになっている。


 実際は皇后に伝えられるときにはもう決定していることだし、皇帝が「行くぞ」と言えば皇后に断ることなどできない。だけど、一応後宮は皇后の管轄ということになっているので、「依頼」「了承」という形を取っているらしい。


「江林県で行う大規模な治水工事を視察しに参る。皇后と淑妃は同行するように」

「かしこまりました」


 一段高いところに座る皇帝は凛々しく、威厳がある。昨夜思わず寝落ちしていた青年と同一人物とは思えない佇まいだ。

 きっと表ではこの顔で政を行っているのだろう。


 珠蘭も粛々と礼をとり、了承するという皇后の仕事をこなす。


 これで一通りの流れは済んだ。

 日程やら視察の内容の詳しいことは、あとから側近たちから知らされるはずだ。


 退室しようと立ち上がった珠蘭を皇帝が呼び止めた。

 少し態度を崩したところを見ると、堅苦しい儀礼は一応終わりという事でいいらしい。


「ときに、皇后」

「何でしょうか?」

「江林県の県吏は李家だというのは知っているな」


 珠蘭は頷く。

 李家といえば淑妃の出身一族だ。だから今回、淑妃が同行する。

 李家と一口に言っても一族は多数いるので直接淑妃の実家なわけではないが、親戚であることには変わりない。


「だから、その、余と淑妃が仲が良いと見せなければならない」

「あぁ、そうですよね」


 なぜか言いにくそうに、皇帝はちょっと目を逸らした。


「皇后を蔑ろにするつもりはないが、行幸中は淑妃と過ごす時間が増える。了承しておいてほしい」

「はい、わかりました」


 そりゃそうだ、と思ったので、珠蘭は即座に了承した。

 むしろ、なんでそんな律儀に断りを入れるんだろうか、と皇帝を見ると、なぜか衝撃を受けたような顔をしていた。


(さっきまでの威厳、どこいった?)


「いいのか?」

「いいもなにも、そういうものではございませんか」


 珠蘭は皇后だ。お飾りだったその座に見合った実力を付けようと努力はしている。だけど、皇后というのはあくまで役職の名前だ。

 政治のことは詳しくわからないけれど、李家との繋がりは大事なはず。どうぞ存分にいちゃいちゃして見せつけちゃってください、と言いたいくらいだ。


(ん? むしろ、わたし、いないほうがよくない?)


 皇帝、皇后、淑妃がいる宴会を思い浮かべてみた。皇帝は淑妃と仲が良いことを見せたい、淑妃も皇帝と過ごしたい、でも皇后がいる。


(完全に邪魔者)


「あの、むしろ、陛下と淑妃、お二人で行かれた方がよくないでしょうか?」

「よくないな」

「なにゆえ?」

「皇后がいるにも関わらず、妃だけを伴うなどありえぬ」


(なんで?)


「あっ、では、体調が悪いということにでもすれば……」

「皇后も行くのは決定事項だ」


 横目に雲英が頭を抱えているのが見えた。



 〇〇〇


 

 それから一月ほど。視察へ行く日がやってきた。

 留守を徳妃に任せ、淑妃と共に皇帝の待つ陽秀宮を訪れ、馬車に乗る。珠蘭は皇帝と同じ馬車に、淑妃はそれよりひとまわり小さい馬車に淑妃の侍女たちと共に乗った。皇帝と珠蘭の側近はまた別の馬車に乗る。


(淑妃と一緒の馬車に乗ればいいのに)


 皇帝と珠蘭は二人で馬車に乗っている。空いた席がもったいない。

 皇后がいなければ、きっと皇帝と淑妃で乗るのだろう。最初から邪魔者である。


 馬車はゆっくり出発した。


 皇帝と珠蘭の乗った馬車、その後ろに淑妃の乗った馬車が続く。

 皇帝ご一行ともなると軽々と移動できない。豪奢な馬車たちを護衛が取り囲み、物々しい雰囲気の行列が出来上がる。


 後宮に入ると、外に出る機会は滅多にない。

 奴婢であったころは当然宮城の外で生活していた。いい思い出ばかりではないけれど、それでも久しぶりの外の世界にわくわくした。


 窓からは街並みが見える。宮城のある街なのだから、それは活気に溢れているのだろう。皆馬車に向かって礼をとっているので普段の様子はわからないが、露店が並んでいるのが見えて楽しい気分になる。


「お前は外に慣れているのか?」

「慣れているという程ではありませんが、お使いで外に出ることはたまにありました。何を買えるわけでもないのですけれど、葉の楽しみの一つだったんですよ」


 外に出るときだけは、少しだけ良い服を着させてもらえた。たぶん主の面子のためなのだろうけれど、それでも嬉しかった。にぎやかな通りを歩くだけでも楽しい。日常を忘れられる瞬間でもあった。このまま逃げてしまおうか、と思ったこともあった。

 一人の時もあれば、そうでないときもあった。楽しかった、昔の記憶。


 懐かしい思いで外を眺める。


「余は普段の街を知らない。一度歩いてみたいものだ」

「行ったことがないのですか?」

「あるにはあるが、余の周りは護衛だらけで、民と直接話すこともできなかった。見た場所もあらかじめ決められ、準備していたところだけだ。できることならば普段の街を見てみたい」


 外に目を向けた皇帝の横顔は、少し切なく見えた。

 奴婢という立場は制約が多かったが、皇帝という立場もまた別の意味で制約が多い。


「いつか行きましょうよ」

「いつか?」

「こっそり城を抜け出すか、お忍びで」

「おい、それができる立場じゃないだろ」


(真面目だなぁ)


 と心に思って、


「真面目ですね」


 口にも出た。

 とても真面目だ。珠蘭が知る限りでも、本当に真面目だと思う。

 なにせ、街を見たい理由が「民の生活を知りたい」だ。珠蘭だったら、露店の饅頭を食べたいとか、菓子を買いたいとか、ただ珍しい商品を見たいとか、そんな理由なのに。


 もう少し単純に楽しめたらいいのに。


「奴婢だった葉が逃げ出して見つかれば死にますが、陛下ならばそれはないでしょう?」


 奴婢の逃亡は大罪。見つかったら処刑される。

 だけど皇帝がお忍びで見つかったところでどうにもならないだろう。

 ちなみに皇后だと、どうにかなるかもしれない。後宮を抜け出すことは大罪。場合により処刑される。


「余が処刑されることはないとしても、もし余に何かあれば、護衛や側近が責任を取らされて死ぬかもしれないぞ」

「おおぅ」

「だから、むやみに出歩けない。お前もだからな? 抜け出そうとか思うなよ?」


 ちょっと思ったことのある珠蘭はそっと目を泳がせた。



 馬車は街を抜けて郊外を走る。窓を開けると、のどかな風景が広がっていた。遠くに駆けまわっている子供たちが見える。


「余もあのように走ってみたかった。後宮では走れば怪我をすると叱られ、何かにつけて行儀よくしろと言われた。お前も後宮で育ったなら同じか」

「走って叱られたのは同じですけれど、わたくしはそれでも走っていましたね」


 皇帝は笑って「そうか」といい、また目を外に向けた。街と違って人の姿もまばらだ。

 皇帝は何かを考えているのか、外を見ながら黙り込んだ。横顔に憂いのようなものが見られる。


(陛下も、外に憧れがあるのかな)


 珠蘭もまた外を眺める。こうして外を見られる機会は貴重だ。


 しばらく静かにそうしてから、皇帝が急に珠蘭に向き直った。


「皇后、頼みがある」

「何でしょうか?」


 いつになく真剣な様子に、珠蘭は胸騒ぎを覚えた。

 心なしか、皇帝の顔色が悪いように見える。


「膝を貸してくれ」

「……はい?」


 何を言っているんだこの人は。膝をどうするのだ。もしかして、膝枕しろと?

 そういう甘え方をする人だとは思っていなかったのだけれど、そうなのだろうか?

 珠蘭に甘えたりするか? しないよな?

 それに、なんでそんなに怖い表情?


 意味が分からずに戸惑う珠蘭を、皇帝は真剣な眼差しで見つめ、一言。


「酔った」

「……えぇっ?」


 皇帝はゆらりと揺れると、馬車の壁にコテリと寄りかかった。


「大丈夫ですか? 馬車を止めて、少し休みましょう」

「いや、馬車を止めると予定に遅れが出る。もう少しで休憩場所につくはず。そこまでは大丈夫……」

「大丈夫じゃなさそうなんですけど!」


 馬を休ませる必要があるため、こまめに休憩を取るようになっている。しばらく走っているので、馬が疲れる頃合いではある。それに、たしかに今止まっても何もない。馬が水を飲むことすら難しいかもしれない。


「大丈夫だから、頼む」

「大丈夫だったら頼みませんよね?」


 仕方なく、向かい合って座っていた珠蘭は急ぎ皇帝の隣に移動する。

 すぐに皇帝は膝に頭を乗せてきた。


「すまない」

「吐きそうになったら言ってくださいね。っていうか、吐く前に無理そうだと思ったら言ってくださいよ」

「わかってる」


 ここで吐かれたら珠蘭にとっても大惨事だ。

 でもこの人はぎりぎりまで我慢しそうな気がして怖い。


「だから馬車は嫌なんだよ。うぅぅ気持ち悪い……」


 弱っているからか、皇帝は弱音をぽつぽつと呟く。

 珠蘭は皇帝の背をさすりながら、早く休憩場所についてくれと願った。

皇帝は乗り物に弱いです。

後宮で輿を使わないのも、体力付けるため、とかいいつつ、乗りたくないだけ。

馬車って揺れそうですよね。

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