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22.淑妃

 一番暑い夏の盛りは過ぎたけれど、それでもまだ暑い。

 珠蘭は宮の自室で胸元を引っ張り、団扇で上から風を入れていた。ぬるい風が少しだけ珠蘭を冷まし、手元の本の紙を揺らす。


「暑ーい。これ脱いじゃ駄目?」

「駄目に決まっているでしょう。それから、そのようにはしたない真似はおやめください」

「いいじゃないの。誰も見ていないのだから」


 雲英は一応苦言を呈するものの、強く止めてはこない。

 最近珠蘭は皇帝と雲英の教育の成果を発揮し、外では皇后としての振舞いがちゃんとできるようになってきた。合格点はほど遠いらしいが。

 切り替えがしっかりできるのであれば、少しは目こぼししてくれるらしい。


 皇后たるもの、宮の中でさえもそこそこの服装をしていなければならない。なんでこんな暑い時に、何枚もの布を重ねなければならないのか。

 絹の衣の肌触りは比較にならないほど良いが、こういうときばかりは、つぎはぎだらけの下女服で過ごしたい。


 それが駄目なことは分かる。口に出したら怒られることも分かる。にもかかわらず、暑さで珠蘭の口は緩みがちだ。「下女服がいい」と実際に口にして雲英にお小言をもらっていると、入ってきた明明が不安そうな顔をしながら手元のお茶を凝視して、それからしぶしぶ差し出した。


「ありがとう」

「娘娘、いいんですか?」

「ん? あぁ、いいんじゃない。毒なわけでもあるまいし」

「いや、ある意味毒だと思いますけどね。淑妃さまの怨念が籠っているという意味で」

「物に罪はないし、美味しいよ」


 ズズッと口に入れたお茶は淑妃からの贈り物だ。


「実家の伝手で特別に手に入れましたの。慣れない風味ですけれどとても香りが良くて、わたくしも気に入っているのです。まずは皇后さまにと思いましてお持ちしましたの。お口に合えば良いのですけれど」


 と、押し付けるように渡されたそれは、お茶と言いながらも豆を煎じたものから抽出して飲むらしい。わざわざ長明宮までやってきて、入れ方まで見せてくれ、毒ではないことを示すために飲んでみせた。


 淑妃が戻ってから念のために毒物でないことを検査させたが、問題はなかった。ただ、皇后教育中の積まれた本の中にあった「お茶の種類と入れ方、効能について」という分厚い本によれば、基本的には身体に良い効果をもたらすものの、妊娠中に飲むと堕胎することがある、とあった。


 皇后教育にお茶の本なんて必要? と顔を歪めつつも皇帝の「次回までに覚えろ試験するぞ」に逆らえずに覚えた珠蘭だったが、まさかこんなに早く役に立つことになるとは思わなかった。淑妃も、まさか珠蘭に気付かれるとは思わなかったのだろう。


 美味しい物なので皇后にも楽しんでほしい、というだけの、完全に善意だった可能性もある。そんな希望をほんの少し、ほんのわずかだけ持ち続けている珠蘭である。


 余談だが、贈り物をいただいたのに手ぶらで帰すわけにはいかない、と無駄に気を回した珠蘭は、咄嗟に宮の畑に案内してその場で収穫した野菜を持たせた。

 あまりに淑妃が目を丸くしているので、毒見が必要だったかとその場で瓜をかじって見せたら、卒倒しそうな顔色になってしまった。


「あの、ご覧のとおり毒はございませんけれど、採れたてですのでトゲがあるかもしれません。触れる時は注意なさって」


 淑妃はちょっとよろめきながらも美しい礼を取って戻って行った。

 その後、雲英にこっぴどく叱られて、お詫びとお礼を贈り直したのは、余談の余談である。



 〇〇〇



 だいたいそのころ、淑妃は荒れていた。


 最近、あからさまに皇帝は皇后の宮へ通っている。

 実情がどうであれ、宮に通うということは皇帝に寵愛されているということ。後宮では「皇帝の寵愛」というものが非常に強い影響力を持っている。


 すでに侍妾たちの一部が皇后に擦り寄るようになってきた。今まで淑妃に取り入ろうと必死だった彼女たちが、皇后が優勢と見るやあっさり手のひらを返してきたのだ。


 皇后も皇后で、彼女たちをお茶会に招いたりして、取り込む姿勢を見せている。

 さらに気になるのは、皇后が急に皇后らしい振舞いを見せていることである。


 焦りを感じた淑妃は李皇太后と相談の上、皇后に子ができては大変だという意見で一致し、取り急ぎお茶を贈ることにした。


 それで訪れた長明宮で、あろうことか畑に案内された。

 おかげで淑妃の機嫌は最低値を記録している。


「何よ、あの女! このわたくしを畑に連れ出したのよ? おみやげに野菜だなんて、侮辱もいいところだわ」


 瓜が飛ぶ。

 投げられた瓜は割れて、中身が飛び出した。放っておけば鳥が食べる……だろうか? 瓜は食べないような気がする。あとで片付けることになりそうだ、と淑妃の侍女である依依(イーイー)はそっと息を吐いた。


「あの畑は皇后さま自らが作られた畑だとか。皇后さまは侮辱なさる気持ちはなかったと思いますよ?」

「お黙り! お前はどっちの味方なの?」

「申し訳ございません」


 自分は堕胎効果のある茶を贈ったくせに、と内心思いながらも淑妃をなだめる。淑妃の機嫌が悪いのは困ったものだが、ここしばらくは機嫌が良い日のほうが稀なので、少し慣れた。


 仕方がない、そろそろあれを用意しておくか。

 淑妃の気持ちがなんとか落ち着くと、依依は瓜を片付けて、厨房へ向かった。やっぱり鳥は瓜を食べてくれなかった。


 ちなみに、もらった野菜は厨房にあげることにした。夕食に出したら淑妃がまた噴火しそうだから、他で食べてもらおう。



 少し、過去の話になる。


 淑妃はこの国屈指の名門である李家に生まれた。名を万姫(まんき)という。その身分ゆえ、生まれた時点でいずれ皇族の誰かに嫁ぐことが決まっていたようなものだった。小さい時からそれを前提に、しっかりと躾けられて育った。


 現皇帝である玉祥がまだ皇子の一人であったころ、同じ一族である万姫のいとこが正室として彼に嫁いだ。そのままであれば、万姫は別の皇族に嫁いでいたかもしれない。しかし玉祥が皇太子になったことで、万姫の運命も変わった。皇太子に嫁ぐことになったのである。


 おそらく子が望めない身体の弱い正室に変わって、次期皇帝となる皇太子の子を産むため。そして、もし正室に万が一のことがあれば、その座につくように期待されて。


 側室として嫁ぐことに少し思うところはあったけれど、元より皇族に嫁ぐことは決まっていたようなもの。万姫は受け入れ、一族の期待通りに子も成した。良家に生まれた万姫にとって、それは義務。そこに感情は伴わないはずだった。


 玉祥はいつも万姫に優しかった。

 子が生まれた時、玉祥は喜び、労ってくれた。

 万姫は次第に玉祥を慕うようになっていった。


 そして、正室だったいとこが亡くなった。


「ねぇ、依依。いとこのお姉さまが天に召されたというのに、わたくし、これで殿下の隣に立てるのだと、少し喜んでしまったの。最低よね」


 懺悔するように心の葛藤をぽつりと語ったその時の事を、依依は忘れないだろう。苦悶に満ちた表情だった。


 いとことは特別に仲が良かったわけではないが、逆に特別に悪くもなかった。それでも、同じ一族出身なのに、いとこは玉祥の隣に立ち、自分は立てない。子を産んだのは自分なのに。

 その気持ちは嫉妬だったのだと、あとから知った。


 罪悪感と、喜びと、期待。

 複雑な心境で知らせを待っていたあの時。



 皇后の座についたのは、隣国の公主(ひめ)だった。顔はそこそこ整っているものの万姫のような華やかさもなく、小柄な体型は身長のある皇帝とは釣り合わない。何より腹立たしかったのは、皇后らしさの欠片もないことだった。所作もなっていなければ、知識もない。


 どこをとっても万姫のほうが上だという自信があった。

 皇帝を思う気持ちだって、絶対に負けていなかったのに。


 徳妃が皇后になったのならば、まだ許せたのかもしれない。彼女に負ける気はしないが、徳妃のほうが淑妃よりも先に嫁いでいたし、子もいた。


 優しい皇帝は、そんな皇后のところへも通った。

 隣国との関係を考慮した上でそうしていることは分かっていた。

 それでも、悔しかった。


 だから、皇后に毒ではないが子ができにくくなる素材をこっそり入れたお茶や菓子をたびたび贈った。知識のない彼女は、淑妃が毒見をしてみせれば疑うことなく口に運んでいた。そんなことにも気がつかないなんて、本当に馬鹿ね。心の中で笑った。

 今まで皇后が身ごもらなかったのはそのおかげだと、淑妃は思っている。



 そんな経緯があって、今。


 皇后から「畑にお誘いしたのは良かれと思って……決して悪気はなかったのです」というような詫び状と共に、贈ったお茶で作ったという菓子が届けられた。


 それを見た淑妃は爆発した。



「あのお茶で作ったお菓子ですって?」


 パリン!


 淑妃の宮の庭で、依依が次の割れものを差し出す。厨房で物色してきたものだ。

 それを受け取って、淑妃が少し離れた的に投げつける。


「もう子を成すなとでもいうのかしら!」


 完全に言いがかりだ。その効果を知らないだろうと目論んで贈ったのは淑妃なのに。


 パリン!


「あの小娘!」


 お皿も茶器もいくらでも替えのある身分ではあるが、さすがにもったいないので、ひびの入ったものやもう使えないものを依依が厨房から仕入れてきている。


 的への命中率はけっこういい。淑妃は後宮へ入る前、弓を得意としていた。父がやっているのを真似したら、思いのほか上手だったのである。さすがに後宮へそんな物騒なものを持ち込めないので、しばらくやっていないが。


 パリン!


「次で最後ですよ。重いので気を付けてください」


 大物の花瓶が渡された。

 淑妃は思いっきり両手で投げつけた。


 バリィィン! ガシャン!


 荒い息を吐く淑妃の汗を軽く拭う。


「少し気が晴れましたか?」

「晴れるわけがないでしょう!」


 ぬるくなったお茶を差し出すと、淑妃は一気に飲み干した。その器を投げそうな気配がして、依依はさりげなく受け取る。これは高価なやつだから、割らないでほしい。


「皇后さまにお贈りしたお茶、気に入って頂けているそうですよ」

「それはよかったわ。でも、それだけじゃ安心できない」


 皆に平等に優しかった皇帝が、皇后に傾き始めている。

 自分ではなく。


「このままじゃおかないんだから。絶対に引きずり降ろしてやるわ」

淑妃は淑女だけど感情爆発型。

いきなりやってきて皇后の座を奪い、のほほんとしている(ように見えた)珠蘭に怒り心頭です。

そんな珠蘭の元に通う皇帝。不穏だけど、切ない。

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