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20.子犬の名前

 皇帝の寝室の検査を終えて、全忠はわずかな休憩を取っていた。


 はたして陛下はどうしただろうか。


 喜ばれるはずの皇帝の伽を二度にわたって拒絶され、何と言う事はないという態度を装いつつ全忠にはわかる程度にうじうじと気にしていた玉祥が皇后の宮へ行ってから一刻(にじかん)と少し。そろそろ戻ってくる頃合いだ。


 足音が聞こえ、部屋の扉を開けて待つ。


 ここを出てすぐに戻ってきた前回と違い、だいたい予定通りの時刻だ。

 戻ってきた玉祥は気落ちしている様子もなく、どことなく機嫌が良さそうだ。どうやら今宵は大丈夫だったらしい。

 全忠は少し安心しながら玉祥の上掛けを受け取り、わずかな違和感に気がついた。


 たしかに皇后の宮の香りはついているが、何というか、いつも後宮から戻ったときにまとっている、ほのかな色気や気怠さが感じられない。


「湯浴みなさいますか?」

「いや、いい。酒を一杯だけ飲みたい」

「珍しいですね。すぐにお持ちします」


 所望された酒を出すと、玉祥は優雅な手付きで口へ運んだ。ここには全忠しかいないから態度は崩しているが、刻み込まれた所作は抜けないらしい。


 後宮へ渡って戻った後、玉祥はだいたいまず湯浴みをする。それを望まなかったということは、何もなかったのだろうか。それにしては楽し気に酒を飲む様子が気になる。


 全忠は、気になったことは知りたい性格だった。だけどさすがに、やれました? 拒まれました? とあけすけに聞くわけにもいかない。


「皇后さまのご様子はいかがでしたか?」

「うん、今日も震えていた」

「はい?」


 震えていた? そのわりに、玉祥の機嫌がいいのはなぜだ。無理やり……いや、そんな下衆な楽しみ方をされるお方ではないはずだ。


「おい、何か変なことを考えていないか?」

「いえ、めっそうもない。皇后さまは大丈夫だろうかと心配していただけです」

「ほぉ……まぁいい。明らかに怯えている様子だったから、余が怖いか聞いた。そしたら、いいえ、と」

「陛下、それを信じたんですか? 震えながら怖くないって、それ絶対怖がられてるじゃないですか」

「俺だってわかってるよ。お前、俺の傷に塩まぶすようなこと言うよな」

「まだぬりこんでないから大丈夫ですね」


 手で塩をパラパラと落とすような動作をする全忠を、玉祥は半目になって睨んだ。


「怖いのは俺じゃなくて伽だというから、それならば皇后がいいと言うまで伽はしないと約束した」

「えーっ?」


 二人で会話しているときの倍くらいの声が出て、玉祥は目を丸くした。

 全忠は塩をつまんだ動作のまま目を見開いている。


「言っちゃったんですか? それ、約束しちゃったんですか?」

「うん、したが?」

「なんで約束しちゃったんですか? いいんですか?」

「俺、震える女を無理やり抱くようなことはしないぞ」


 玉祥はちょっと考えてから「必要がなければ」と小声で付け加えた。それは仕方のないことで、玉祥が望んだ結果ではない。全忠だってわかっている。


「そういうことじゃなくてですね。陛下、最近皇后さまのことを気にいっていらっしゃるじゃないですか」

「別に気に入ってなどいない」

「そうですか? わかってないんですか? これから苦労しますよ」

「なにがだよ。なんでだよ」


 ああぁ……とわざとらしく天を仰いだ全忠を無視して、玉祥は杯に残っていた酒を煽った。



 〇〇〇



 心配事が一つ減った珠蘭は、これまでに増してやる気を出した。まずすべきことは、皇后教育を一から学び直すことである。


「雲英、書物を用意してくれるかしら」


 たしかにそう頼んだのは珠蘭だ。


(こんなにあるの……)


 目の前にはどーん、と積み上げられた書物に巻物。その高さたるや、積んだ雲英の顔が隠れるほどだ。


 出したはずのやる気がみるみるしぼんでいく。それに反比例して、雲英のやる気はうなぎ上りだったらしい。良い笑顔だ。これはしばらく解放されまい。


「娘娘はまず、この国の地理や歴史から勉強なさるのがいいかと思います。黄国のことは幼少期から学んでいても、この朱国のことはあまりご存じないでしょう。私が教えても逃げていらっしゃいましたからね」

「その節は申し訳ございません」

「皇后として自国を知ることは大切でございます。むしろ知らずに皇后を名乗るなど、もってのほかと思ってください」


(はい、もっともでございます)


「さぁ始めましょう」


 書物を開いてみて、あまりに学がないことに愕然とした。黄国の公主であった珠蘭は、たしかに朱国についてはあまり勉強していない。かといって黄国についてもちゃんと勉強した記憶があまりないのだが、それは置いておく。


 どんな領があって、どんな地形でどんな川があって、そこでの産物はなにか、勉強し直してみれば、知らない事ばかりだった。


(これは侮られるわけだ)


 勉強から逃げていた珠蘭の自業自得ではあるが、そりゃ、自国に対して無知すぎる皇后がきたところで「お客様」扱いなのは納得できてしまう。


 ちなみに葉は奴婢だったので、勉強とはほど遠いところにいたし、ごく狭い世界で生きた。だから知識は偏りすぎている。洗濯物のしみの落とし方、とかならば詳しいのだけれど。



 そんな勉強漬けの日々を過ごすこと数日。皇帝のお渡りがあった。約束があるから、もう怯えたりはしない。そのはずだ。


 門の中で出迎えると、毛玉ちゃんが元気よく駆けてきた。池に溺れていて珠蘭が助けた子犬はすっかり元気を取り戻し、すくすくと成長している。

 毛玉ちゃんは鼻をひくひくさせながら、まるで危険なものではないかを検査するように皇帝の周りを一周した。


「毛玉ちゃん、駄目よ」


 声をかければ珠蘭のところへ戻り、尻尾を振った。抱き上げて一緒に室内へ入る。


「先日の子犬か?」

「そうです。あの後周辺を探しましたが、親犬がいる気配も探している人も見当たらなくて。陛下、この子をこのままここに置いてもいいでしょうか?」

「いいんじゃないか。ここは皇后の宮なのだから、好きにするといい」

「よかったー。ではそうしますね」


 毛玉ちゃんを撫でると、嬉しそうに目を閉じた。


「毛玉ちゃんとはずいぶん珍妙な名だな」

「いえ、名前がないのでそう呼んでいるだけです。見た目が毛玉っぽいので。そうだ、陛下、この子に名前をつけてあげて下さいませんか?」


 その申し出に雲英はぎょっとした。皇帝が名をつけるのは自身の子くらいだ。その他には功績を上げた臣下に名を与えることならばある。

 珠蘭は無意識だろうが、名をくれ、というのはけっこうなことなのだ。


「そうだな、薄い茶色だから、麦でどうだ。麦っぽい色だろう?」

「可愛いですね! あなたは今から麦ちゃんですよー。素敵な名前を付けてもらえてよかったわね」


 気にする素振りもなく、あっさり名を付けた皇帝にも驚いた。


「あら、陛下が撫でても平気なのですね。宦官が触れようとすると怒るのですけれど。麦ちゃんは陛下が好きなのかな」


 雲英はまた頭を抱える。陛下と宦官を比べるんじゃない。


「そうか。もふもふしていて手触りがいいな」


 なぜか嬉しそうな皇帝。

 皇帝の穏やかな顔を久しぶりに見た気がする。

 もう、いいか、これでも。と一瞬思った。

 いや、よくない。あとで教育をやり直さなければ。


「ところで、なんだあの書物の山は」

「あぁ、わたくし、ちゃんと皇后になるために勉強し直しているのです。雲英が教えてくれています」

「皇后さまはそれは教えがいのある良い生徒ですよ」


 雲英が良い笑顔で大きく頷いたのと珠蘭が目を泳がせたのを見て、皇帝はクッと笑った。


「それはさぞかし大変だろうな」



 二人で寝室へ入ると、珠蘭は少し緊張した。約束を違える人ではないと思っているけれど、男の人と二人だけというのはやっぱり少し怖い。この場で何かあっても、非力な珠蘭にはどうしようもないからだ。


「おい」


 ビクッと肩を揺らした珠蘭に、皇帝はしまったという顔をした。


「すまない、余計に怖がらせてしまった」

「いいえ、わたくしが悪いのです。申し訳ございません」

「余は約束を破りはしない。それでも怖いなら、外へ出ていようか?」


 珠蘭は大きく深呼吸して、それからクスッと笑った。


「陛下が来て下さったのに外に出しなどすれば、明日妃嬪の朝の会で何と言われるでしょう。信じられないと驚かれるか、陛下のお渡りは終わりだと喜ばれるか」

「いったいどんな話をしてるんだ?」

「陛下はお優しいです。今まで出会った男の人とは全く違います。だから、ここにいてください」


 そこまで言って、ハッとした。

 珠蘭は自分から下女であったことを皇帝に伝えたことはない。雲英から誰にも言わないようにと強く言われていたからだ。


 黄国の後宮で育ち、朱国の後宮へ入った珠蘭がどれだけ男の人と接する機会があっただろう。


(失言だったな)


 皇帝を見ると、少し悩んでいるような素振りを見せた後、珠蘭に向き直った。


「聞いても良いか? 皇后が下女だった時のことを」

珠蘭は必死に勉強中。

子犬は皇后の宮で飼うことになりました。

チャウチャウみたいなモフモフの犬をイメージしています。

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