2.出会い
奴婢人生を終えたらしい葉は魂となってその身体を離れ、ふわふわと浮かんでいた。
少し上ると、後宮の通路や宮が見えてきた。葉が住んでいた長屋、掃除した中庭。普段は立ち入ることの許されないお妃さまたちの宮も、上からならばよく見える。
主のいる宮は花が咲き綺麗に整えられているが、手のほとんど入っていない宮もある。
通りにはゆっくりと進む数人がいる。その中心にいる天井のない輿に乗った女性は、色鮮やかな服をまとっていて、結われた髪には飾りが揺れている。おそらくお妃さまだろう。同じ後宮の中にもかかわらず、葉とは違う世界に生きている人だ。
(へぇ、あんな感じになっているのか)
貴重な空中散歩を楽しみながら流れに身を任せていると、ある宮の上にほのかな光のようなものが揺れているのが見えた。
(おや、お仲間かな?)
引き寄せられるように、その光に向かって流されていった。一緒に天に上るのかもしれない。一人じゃないとは心強いと思いながらふわふわと進んでいくと、その魂らしき何かと目が合った。なぜか葉の魂を見て怯えた様子だ。自分ももはや人ではあるまいに。
「ど、どなた?」
「見ての通り、できたてほやほやの魂です」
「はい?」
「元々は葉って名前でした。あなたは?」
「……珠蘭」
消え入るような小声でそう名乗った相手は、少しだけ目を泳がせた。どこかで聞いたことのある名前のような気がして葉が首を傾げると、珠蘭は慌てたように言葉を繋いだ。
「あなたは天に上るところ?」
「そうみたいですね、たぶん? あたしにもよくわかりませんけど」
どうやら身分の高い方らしい。条件反射でちょっとだけ言葉遣いが改まる。もう死んでいるのだから身分もなにもなかろうという思いはあるけれど、長年の習慣はすぐには変えられない。
「わ、わたくしも連れて行ってちょうだい」
「どこに?」
「天に決まっているでしょう!」
「あ、ですよね」
魂の行き先なんて知らないけれど、ひとつしかないはずだった。
「じゃあ、行きましょうか」
「あの、それが、動けなくて」
よく見れば、珠蘭のほのかな光は宮の屋根をすり抜けて下に続いている。葉の場合は完全にするりと身体から離れたけれど、動けない、ということはまだ繋がっているのかもしれない。……ということは。
「もしかしたら、まだ死んでないんじゃないですか?」
「そうかもしれない」
「それなら一緒に行けないでしょう」
「でもわたくしはもう……。とにかく、わたくしも連れていきなさい」
いきなり命令口調になった珠蘭に、葉は目を丸くした。きっとどこかの妃嬪様で、何でも言う事を聞いてもらえる立場だったに違いない。
「生きているなら戻った方がいいですよ」
「嫌よ。絶対に嫌!」
「こっちだって嫌ですよ。だってあなた、まだ生きているんでしょう? あたしには人を殺す趣味なんてないんです」
即却下したら、そんなはずじゃなかったというかのように珠蘭は目を泳がせて、今度はちょっと弱気に懇願するような瞳を向けてきた。
「えっと、人助けの方向で考えられないかしら?」
「無理です」
「どうしても?」
「そりゃ、どうしても」
まるで駄々をこねる子供のように、今度は泣き始めた。葉が泣けなかったのと同じように、涙は出ていないが。
(めんどくさい魂に当たっちゃったね)
葉は仕方がないというように小さく息を吐いた。
「とりあえず、あたしでよければ話くらい聞きますよ。このままではどうやったら戻れるのかも連れていけるのかもわからないし」
「あなたは女官?」
「いえ、下女でした」
「そう。下女にはわたくしの気持ちはわからないでしょうね」
珠蘭は蔑むような視線を向けるでもなく、ただ残念そうに目を伏せた。葉のほうも別にそう言われて苛立つこともない。お互い、住む世界が違いすぎるのだ。
「あなたはわたくしが誰か、知っていて?」
「いいえ」
「そう。まぁいいわ」
なにが「まぁいい」のかよくわからないが、珠蘭はぽつぽつと悩みを語り始めた。
まとめるならば、妃嬪達の間での嫌がらせ、早く子を産めという圧力、身ごもらない苦悩。そんな感じだった。
ずっと下女だった葉には、それらの悩みはいまいちどころか全くピンとこない。
(高貴な方も大変ですねぇ)
せいぜいその程度に思った。ついでに悩みはさっぱり理解できなかったが、この人子供っぽいな、ということはわかった。
それから珠蘭は、ぽつりと呟いた。
「こんな身分でなければよかったのに」
葉はハッと目を上げて珠蘭を見た。少し驚いた。葉から見れば、妃嬪なんて方々は綺麗に着飾って、何の憂いもなく過ごしているように見えたからだ。
「高貴な方でもそう思うことはあるのですね」
「あなたもそう思うことがあって?」
「そりゃ、あたしは下女でしたから。もう少し高い身分だったらと思ったことは何度だってありますよ」
珠蘭はしばらく何も話さなかった。後宮を見渡すように遠くを眺め、それから葉をまっすぐに見た。
「わたくしはもう疲れたのよ。もし高い身分を望むなら、くれてやるわ」
「えっ?」
「そうよ、そうしましょう。あなたが皇后になって、わたくしがあなたの代わりに天に上るの」
「こ、皇后⁉」
その瞬間、珠蘭に掴まれた。そしてそのまますごい勢いで下へ引き寄せられていく。
(わわわ、屋根にぶつか……)
ることはなかった。そういえば魂だった。激突することなくそのまますり抜け、下へ、下へ。そして。
しゅるり。
豪華な寝台に横たわる女性が見えたと思ったら、そのまま一緒に吸い込まれた。
うららかな春の日、葉はどうやら人生を終えた。
人は死ぬと魂になって天に上り、生まれ変わるという。次はどんな人生だろうか。それはどのくらい未来で、どんな世の中で、どんな身分なんだろう。
ふわふわと漂いながら、たしかに、良い身分に生まれ変わりたいとは願った。
だけど、こうなると誰が思うだろう。まさか死んだその日に、同じ後宮の中でもう一度人生が始まるなんて。
腕を見れば、透き通るような白い肌。洗濯で荒れたごつごつした手ではなく、傷ひとつない美しい手。すらりと伸びた薬指と小指の爪は折れるほどに長い。その手を頬に持っていけば、柔らかくてもちもちとした肌に触れた。
(……うそでしょ)
葉は皇后として、この後宮で再び生きていくことになったのである。