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19.夜の訪い

 後宮は皇后の管轄である。だから、後宮に所属する全ての人は皇后の管轄下であり、助けが必要ならば皇后が守るべきだ。たとえ奴婢である下女であっても。


 だから珠蘭は、名前だけのお飾りではなく、名実共に皇后になることに決めた。


 とすれば、どうしても避けられないこと。

 それが、とうとうやってきてしまったらしい。



「本日、陛下がお渡りになります」


 宦官が告げた言葉に、珠蘭は血の気が下がる思いがした。

 ついにきてしまった。


 皇帝のお渡りとなれば、それは、あれである。夜に後宮の妃嬪の元を訪れて皇帝がすることといえば、そりゃ、あれである。

 珠蘭はその、あれが怖かった。


 もっと言うならば、本当は男が怖い。かつて下女として後宮に入ったとき、男のいない環境にいられることに心底安心した。宦官と一緒に仕事することで少し慣れたとは思うし、話すことに抵抗はなくなった。でも、目の前に筋骨隆々の武人が現れたらどうだろうか。やっぱり今でも恐怖を覚えるだろうと思う。


 皇帝はとても柔らかい見た目だし、その人格もかつて怖かった男たちとは違う。それでも、あれ、となれば話は違う。


 他の宮であれば、喜んで支度をするのだろう。顔の筋肉を無理やり動かして、笑顔を作る。


「準備をしてお待ちください」

「かしこまりました」


 宦官が戻って行くと、珠蘭は椅子に倒れ込んだ。

 月のものでもないし、体調も悪くない。断る理由が何もない。


 后妃の一番の務めは、皇帝の子をなすこと。

 そんなことわかりきっている。でも、怖いものは怖いのだ。


 そんな珠蘭の様子を心配そうに見ながらも、宮の中は皇帝をもてなすための準備が進む。


 まだ明るいうちから湯殿に放り込まれた珠蘭は湯に浸かりながら、救えなかった下女を思い浮かべた。丹は下女として大変な仕事をしながらも、いつも朗らかに笑っている人だった。「大丈夫よぉ」とよく言っては、同じ下女たちを慰めていたものである。


「大丈夫よぉ、なんとかなるって」


 そんな丹の声が聞こえた気がした。


(大丈夫、名実ともに皇后になるんだから。よしっ)


 バサッと思い切りよく湯から立ち上がると、控えていた明明に思いっきりお湯がかかった。


「娘娘、ひどいです」

「わわ、ごめん!」


 湯から上がった珠蘭は明明に拭かれて、なんだかいろんなものを塗り込まれた。複雑な表情の明明は、湯を掛けられて怒っているというよりは、心配しているようだった。


「明明、あの本はどこにあったかしら?」

「あの本、ですか?」

「そう、あの本。あれよ、あの輿入れ前に一緒に習った、そういうことになる前に読むやつ」

「あぁ、あれですか。読むのですか?」

「そう、一応。一緒に見る?」


 なんだか「あの」とか「あれ」ばかりだが、それ以外の適切な表現が浮かばない。はっきりとした名称がなかったり、あっても口に出すのはなんとなく憚られるからだ。


 明明が一緒に見てくれたら少し心強いと思ったが、思いっきり首を横に振られてしまった。


 明明から本を受け取って私室に籠り、机に乗せた。嫁入り前の教養として勉強させられた、あれのお作法。いきなり失敗しないように、嫁入り前の高貴なお嬢様方が一応どういうことかを知っておくための本だ。


 大きく息を吐いてからゆっくりと本を開いた。高貴なお嬢様向けの本だ。恐ろしいことなど書かれていないはずなのに、だんだんと指先が冷えていく感覚がした。


(大丈夫、少し我慢していれば終わる)


「髪を整えてもいいですか?」


 思わず肩がビクリと跳ねた。

 びしょ濡れになってしまった服を替えに行った明明の代わりに雲英が入ってきていた。了解の意味で頷いて、また視線を本に戻す。開いている(ページ)には図解でその、あれが描かれている。雲英が呆れたように溜息を吐いた。


「そのような本はそんなに大っぴらに見るものではありませんよ。一人の時に、こっそりとご覧なさいませ」

「こっそり読むのもおかしくない?」

「まぁ……そうですけど」

「なるべく陛下に不快に思われないように、一応読んでおこうと思って」


 頁をめくる指先が少しかじかむ。


「娘娘、大丈夫ですか?」


 雲英は心配そうに声をかける。大丈夫だと心の中で言い聞かせているのに、大丈夫と声には出なかった。


「娘娘が、いえ、葉がどんな経験をしてきたのかはわかりませんが、陛下は無体なことをなさる方ではありませんよ」

「うん、わかってる」

「それでも難しそうであれば、私から陛下に話してみましょうか?」


 振り返りそうになって、雲英に「動かさないでください」と頭を固定された。


「どうしよう、雲英が優しくて戸惑う」

「いつも優しくないみたいな言い方なさらないで下さいます? 私はいつも優しいではありませんか。それとももっと厳しい方がいいですか?」

「とんでもございません」


 ちょっと髪をとかす力が強い。これ以上は言わないほうがよさそうだ。


「雲英、ありがとう。大丈夫よ。わたくしはちゃんと皇后になるって決めたの。だから、皇后の務めを果たさなきゃいけない」

「そんなに意気込むことではありませんよ。まったく、陛下のお渡りだなんて、待ち望んでいる侍妾がどれだけいるか。たいていの女性が泣いて喜ぶようなことですよ」

「雲英も泣いて喜ぶ?」

「……私はそのような年頃をもう過ぎておりますから」

「ずるいその言い方」

「とにかく、そんなに悪い事じゃないってことです」


 珠蘭がふふっと笑うと、雲英も笑った。

 少し気持ちが和らいだ気がする。


「ありがとう、雲英」

「いいえ。あまり無理なさいませんよう」




 日の落ちた頃、皇帝が数人の宦官を連れて長明宮に現れた。出迎えに外へ出ると、少しぬるい風が肌をかすめる。


「陛下、お待ちしておりました」

「あぁ。中へ」


 皇帝は長く艶のある髪を緩く後ろで一つにまとめ、装飾具もあまり付けていない。室内へ入って刺繍の入った上掛けを脱げば、幾重にも重なる重厚なものではなく、質は良いがすっきりとした衣を身にまとっている。


 昼とは違うその装いを見ただけで、珠蘭の身体はこわばった。それでも表情だけは変わらないように、意識をそこに集中する。


「お酒をお飲みになりますか?」

「いや、茶を一杯もらおう」


 出された茶を毒見に一口飲んでみせると、皇帝もゆっくりと茶に口を付けた。どちらも何も話さない。こういったときは気の利いた会話をすべきなのだろうが、珠蘭にそのような余裕はなかった。


 雲英に促されて席を外し、身だしなみを軽く整え直す。

 その間に移動したのだろう、珠蘭が寝室に入ると、すでに皇帝は寝台に腰かけていた。揺れる蝋燭(ろうそく)の灯りが薄暗い中でも皇帝の端正な顔をはっきりと映している。


 珠蘭は慌てて目線を下げ、礼の姿勢を取った。


「お待たせしてしまい、申し訳ございません」


 固い声色で詫びると、皇帝は苦笑した。


「そんなに待ってない。こちらへ」

「はい」


 皇帝の隣に、少しの間隔をあけて腰かける。皇帝が軽く向きを変えて珠蘭を見つめているのが分かった。それでも珠蘭は見つめ返すことはできず、ひたすら前方の床を見ていた。


「皇后、こっちを向け」


 そう言われて皇帝の方に向きを変えると、その手が伸びてきた。思わずビクッと身体が跳ねる。触れるはずのその手は、珠蘭に届く前に戻された。


(しまった)


「申し訳ござ……」

「余が怖いか?」


 静かに問われた。

 皇帝が怖いわけではない。この状況が、これからのことが怖いのだ。


「いいえ」

「震えながら言われても、説得力がまるでないぞ」


 おそるおそる見上げると、皇帝は苦笑していた。少し気落ちしているようにも感じられるが、怒ってはいないようで少しだけ胸をなで下ろす。


「陛下に嘘をつくのは大罪。嘘ではございません」

「そうか。ならば、怖いのは夜伽か?」


 答えられずに珠蘭は口をつぐんだ。皇帝はそっと珠蘭の手を取る。反射的に引っ込めそうになり、何とか思いとどまった。


「冷たいな」


 まるで温めるように両手で包みこまれ、珠蘭は戸惑った。どうしたらいいのだろう。それでも指先からじんわりと温かさが伝わってきて、強張っていた身体が少しだけ和らいでいくような気がした。


「あ、あの、わたくし、手汗が……」


 固く握りしめていた手は、ちょっと湿っている。これは申し訳なさすぎた。

 皇帝は一拍おいて、クッと笑った。


「今気にするところ、そこ?」

「陛下の手が汚れてしまいます」

「大丈夫、汚れない」


 珠蘭が手を引こうとしたら、手を離すどころかもっとぎゅっと握ってきた。そして遊ぶようにむにむにと手を揉む。


「夜伽が怖いのならば、そう言えばいい。別に、無理にそうせずともかまわん」

「えっ?」

「とりあえず今日は何もしないから、落ち着け」


 パッと手が放された。冷たかった指先に、血が通い始めている。


「夜伽をせずに、こうして話すだけならば大丈夫か?」


 戸惑いながらも、大きく頷いた。


「皇后の体面を考えるとここに来ないわけにはいかないが、それならば、皇后がいいというまで伽はしないと約束しよう。それならば怖くはないか?」

「あ、あの、いいのですか?」

「いいんじゃないか」


 良いと言われて、ちょっとだけ喜んでしまった。顔に出ていなかったよな、と表情を繕い直す。


「でも、わたくし、ちゃんと皇后になるって決めたのです。皇后としての務めをはたして、陛下のお役に立ち、後宮を守るって」

「皇后は黄国の公主だ。其方(そなた)が皇后の座にいるだけで、黄国との関係が悪化せずにすんでいる。それだけでも余の助けになっているから、皇后の務めをはたしていないわけじゃないぞ」

「あの、陛下の御子を……」

「確かに嫡出の子があるほうがお互いにとって良いのだろうが、急がなくてもよかろう。皇后が子を儲けたいというのであれば協力するが?」


 思わず首を横に振ってしまった。皇后としてあるまじき事にも関わらず、皇帝は気にする様子もなかった。


「皇后を蔑ろにしていると思われてはこちらとしても困るから、ここに来て、事をなしたように振舞って戻る。そのために通うことにはなるが、それは良いか?」


 言葉が出なかったため、返事の代わりに大きく頷いた。


 そうか、頑張らなくてもいいんだ。そう思ったら、急に気が抜けて姿勢を保っていられなくなり、寝台の皇帝と逆側にバタリと倒れ込んだ。


「どうした?」

「ちょっと、安心したら力が抜けました」


 あまりに無防備な姿を見て皇帝が一瞬動揺したことに、珠蘭は気が付いていない。それから皇帝は珠蘭に聞こえるように、わざと大きく溜息を吐いた。


「そのような姿を見せられると、襲いたくなるが?」


 シャキッとすぐに起き上がって姿勢を正した珠蘭に、皇帝は笑うのを堪えられなかった。


「お前、おもしろいな」

「えっ」

「まぁなんだ、そういうわけで、その、何もしないにしても事があったように見せる必要があるから、まだ少し時間がある。せっかくだから少し何か話すか」


(話すって、何を。話題、話題……)


「そういえば、贈った種は植えたか?」

「あ、はい。植えました。雲英も手伝ってくれたのですよ」

「雲英が? 畑に手を入れる雲英など、想像つかない」

「最初はおそるおそるといった感じでしたが、意外と楽しんでもらえた気がします。あ、でも、飛蝗(バッタ)が衣についた時は飛び上がっていました」


 それを思い出して、クスッと笑う。


「飛蝗が苦手なのか」

「雲英は飛んだり跳ねたりする昆虫系が、明明はにょろにょろ系が苦手らしいです。そうそう、早いものはもう芽が出たのですよ。とても丸々とした良い種でしたから、成長が楽しみです。明るいうちにいらっしゃる時があれば、是非見てください」

「あぁ、そうしよう」


 皇帝となど何を話したらいいのだろうかと思ったが、一度話し始めたら、意外と止まらなかった。安心したせいもあるかもしれない。「そろそろ戻ろう」と皇帝が立ち上がった時、もうそんな時間かと思ったほどだった。


「また来る」

「はい、お待ちしております」


 すんなりとその言葉が出てきた。

 挨拶の決まり文句としてではなく、本心だった。

とりあえず珠蘭は夜伽回避。

皇帝は約束しちゃったから、後に苦労することになります。

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