17.決意
時刻は珠蘭が長明宮を抜け出す少し前のこと、雲英は皇帝の元を訪れていた。
通された皇帝の私室の隣部屋で待つと、しばらくして皇帝が全忠を伴って戻ってきた。執務を終えてそのまま来たのだろう、髪を結い上げたままで昼と同じ衣を身に着けている。
「雲英からこちらに来るのは珍しいな。どうした。皇后に何かあったか?」
「何かあったといいますか、何かありそうといいますか」
「何だか物騒だな」
鍬を振り上げた皇后を思い出して、皇帝玉祥は苦笑した。最近の皇后は何をしだすかわからない。
茶器を用意した宦官を下がらせると、全忠が玉祥の頭に付けている小さな冠を解いていく。
「お忙しいところ申し訳ございません」
「良い。なんだ?」
「皇太后さまの体調不良の件についてです」
玉祥は羽織っていた衣を脱ぐと全忠に渡し、ドカッと腰かけた。以前ならば窘めていた動作だが、今は何も言わない。ここに自分と全忠しかいないことがわかっているからこその動作だと知っているからだ。
「陛下はあれが本当に下女一人の犯行だと思われますか?」
「正直に答えるなら、思ってはいない。だが、そうでないと言い切れる証拠を持っているわけではない。あくまで、違うだろう、という感情があるだけだ」
そもそも下女一人で毒を調達し、どれが皇太后の席に行く料理であるかを調べ、こっそり入れて運ばせる、ということが可能だとは思えない。誰かが糸を引いて、すべての罪をその下女一人に背負わせた、と考える方が自然だ。
玉祥も雲英も、それは分かっていた。
「だが、被害者であるはずの母上本人がそれで終わりだとしたのだ。他に被害がないのだから、こちらとしては、これ以上手の出しようがない」
玉祥が大きく息を吐いた。納得はしていないが、もう手を出す気はない、とはっきり示したのだ。
「何か問題があったのか?」
「実は、その下女が皇后さまの、いえ、葉という人物の知り合いだったようなのです。絶対に彼女ではないと取り乱していまして」
「そうだったか。それは気の毒ではあるが、皇后は宮で謹慎中だし、何もできまい」
「取り急ぎ再調査を依頼してはみたのですが、すぐに却下されてしまいました」
「そうだろうな」
「それで、相談なのですが、その下女を密かに保護することはできませんか?」
奴婢一人の命だ。このまま何もしなければ、どうなるかなど分かり切っている。珠蘭ほど下女に思い入れがあるわけではないが、雲英としても、罪のない者を罰するのはどうかという思いはあった。
「何よりこのままですと、皇后さまがどう動くか、予想が……何となく予想はできるのですが、えぇ、良くない方向に」
玉祥は机に肘を付き、額を押さえた。
「わかった。全忠」
「かしこまりました」
全忠が宦官に指示を出してしばらく。持ち帰った情報は、すでに下女が処分されていた、ということだった。
「早いな」
玉祥はチッと舌打ちした。犯人たちは思いのほか早く決着をつけたらしい。
「皇后は気落ちするだろうな。雲英、皇后についてやってくれ」
「はい」
下女が処分されてしまっている以上、ここで雲英にできることはない。雲英はどう皇后に伝えたらいいものかと思案しながら、辞去の挨拶をしようと立ち上がりかけた。
その時、外から入室を願う声が届いた。雲英に緊急の連絡があるという。
「入れ」
許されて入ってきた宦官が皇帝に礼を取り、雲英に耳打ちしてすぐに出ていった。わずかに目を見張った雲英に玉祥が問う。
「何と?」
雲英は一瞬だけ話すべきか迷った。そして話すべきか迷った自分に驚いた。
「雲英?」
「皇后さまが、長明宮を抜け出したようだと」
「なに? 謹慎中であるはずだろう。一体なぜ」
「おそらく、証拠を探しに行ったのでしょう」
皇帝の命令を破ったことになる。それがどういう意味かわからない玉祥でも雲英でもない。
「陛下、取り急ぎ、御前を失礼させてください」
「俺も行く」
立ち上がりかけた玉祥を止めたのは全忠だった。
「何言ってるんですか。陛下が動かれれば目立ちますし、何より騒ぎが大きくなります。ここはお控えに」
「宦官の服を着れば大丈夫じゃないか?」
「駄目に決まっているでしょう。それとも皇后さまを断罪しに行くおつもりですか?」
「違う。逆だ」
「ならば落ち着いてください。雲英、こちらはいいので早く行ってください」
雲英と全忠が目を合わせて頷き合っている。なんだこのしょうがない子供みたいな扱いは。
玉祥は背筋を伸ばして、コホンと咳払いをした。
「雲英、皇后を探し出して、無事に宮へ戻せ」
「はい、必ず。沙汰は追ってお知らせください」
「俺は……余は何も聞いていない。いいな?」
雲英は玉祥を見上げた。そして立ち上がると礼を取った。
「感謝いたします」
そして急いで退出して向かった後宮の厨房で、雲英は宮女服の皇后をすぐに見つけた。
〇〇〇
丹という名の下女はもう死んだ。
告げた言葉に答えるかのように、月が雲に隠れ、柔らかな光さえも閉ざされた。小さな風が辺りの草や木の葉を揺らし、遠くに微かに虫の音が聞こえる。
「……嘘」
すがるように見上げられた雲英は、珠蘭のその瞳に耐えられずに目を閉じた。ここで「嘘ですとも」と言ってあげられたらどんなにいいだろう。でも、事実は変わらない。さらに、珠蘭にとっては残酷であろうこともいずれ伝えなければならないのだ。
「嘘でしょ、雲英?」
雲英はただ小さく首を横に振った。
珠蘭がその場に崩れる。泣くこともせず「丹さん」と呟き項垂れる珠蘭の様子に、雲英の方が苦しくなった。
それを抑えて静かに話しかける。
「娘娘、今危険を冒しても、得られるものは何もありません。宮へ戻りましょう」
僅かに頷いた珠蘭を支えて立ち上がらせると、珠蘭は虚ろな目をしながら静かに歩き始めた。無意識なのだろうが、宮の方へ向かっていた。雲英でさえも知らない道だった。
無事に宮に戻った珠蘭は、そのまま寝込んだ。翌日も起き上がらず、食事もほとんど手をつけなかった。
「雲英、わたくし駄目ね。皇后なのに、下女一人助けられないなんて」
「娘娘にできることはしたではありませんか」
「結局なにもできていないじゃない。丹さんは何もしていないのに、死んでいったのよ。辛かったでしょうね」
その翌日も、珠蘭は起き上がれなかった。ただ毛玉ちゃんと呼ばれている子犬を抱いて寝台に丸まっていた。昼食もあまり手をつけず、明明が無理やり少し食べさせた程度だ。
「娘娘、もうすぐ全忠がこちらに来るそうです。お召替えだけはして下さい」
言葉もなくとぼとぼと出てきた珠蘭を着替えさせ、座らせる。
やがて全忠がやってきて、雲英が出迎えた。皇后自ら出迎える場面ではないが、そもそも珠蘭は外に出る気力もなさそうだった。
「全忠、突然いらっしゃるとは珍しい。どうしたのですか?」
「陛下が、自分は行けないから私に様子を見てこいとおっしゃいまして」
「陛下が?」
「そう、陛下が」
雲英が目をパチクリとさせていた。全忠は、そうなのです、というように大きく頷く。
「謹慎期間もあと二日なのだから、それが明けたらご自身でお伺いすればいいでしょうと言ったんですけどね」
「普通はそうでしょうね」
「どうにも気になるようですよ。もしかしたら陛下にもついに春が来たんですかねぇ」
「春? もうすぐ夏ですよ」
「わかってないですね」
「何を?」
「いえ、いいんです」
「何が?」
「なんでもないですよ」
雲英の笑顔も全忠はさらりと受け流す。さすが皇帝首席大監である。
室内に入り、全忠は皇后に挨拶をした。珠蘭は座ったまま、ただ力なく頷いただけだった。
「これは想像以上ですね」
「しばらくこんな様子なんです」
全忠が共に来た宦官を下がらせると、雲英もそれとなく明明以外を下がらせ、人払いをした。
「陛下はこちらにおいでになれませんので、代わりにご機嫌伺いに参りました。調子がよろしくないようですね。何か薬湯でも手配しましょうか?」
「いえ、結構です」
「それでは何か陛下にお伝えすることはありますか?」
「では」
昨日からほとんど口を開くことがなかった珠蘭が思いのほかはっきりとした声を出したことに、雲英も明明も驚いた。
「皇太后さまが体調不良になられた件で、一人の下女が処分されました。そのことを陛下はご存じかしら?」
「はい、存じていらっしゃいます」
「その下女に罪はなかったと、それだけ伝えてほしいの。わたくしは彼女を救えませんでした。確たる証拠も手にしていません。ただ、絶対に彼女ではない」
様子は弱々しいのに口調は強く、全忠はゴクリと唾を飲んだ。
「死んだ者は戻りません。だけど、彼女の名誉のために、どうか陛下に知っていてほしいの。卑しい身分の奴婢だけど、彼女は国のために忠実に働いて、そして死んでいったと。罪人ではないと、そう伝えてください」
まっすぐに全忠を見て珠蘭はそう言った。
「かしこまりました。必ず伝えましょう」
瞳に光が戻りつつあるのを見た雲英は、全忠が退出した後で珠蘭に向き合った。
「娘娘には辛い話になると思いますが、聞いてくださいますか」
「聞きましょう」
「二つございます」
まず一点目として、丹が思ったよりも早く処分されたのは、珠蘭が再調査依頼を出したために、早く口を封じたかったのだろうということ。
二点目は、そもそも皇太后の体調不良は皇后の体面を潰すためだった可能性が高いこと。
「わたくしの体面?」
「そうです。皇后主催でしたから、何か問題が起これば娘娘が責任を問われます。この程度で娘娘を排除することはできませんから、ちょっと貶めようと、言い方が悪いのを承知で言えば、軽い嫌がらせのつもりだったかと」
珠蘭は目の前の机を拳で思いっきり叩いた。明明が驚いて肩を揺らす。
「ちょっとした嫌がらせのために丹さんは死んだっていうの!」
「娘娘」
「わたくしのせいで、わたくしが不甲斐ないせいで!」
強く握りめた拳から薄っすらと血が滲んだ。
「丹さんは年若い下女を庇って死んだの。身代わりになる時に言ったそうよ。皇太后さまに『恨みがあった』って。『だから、殺してやろうと思った』って」
雲英は息をのんだ。それは、丹が関与していないことを示していた。
皇太后が口にした毒は、人を殺すような強いものではなかったからだ。
だが、それを今更言ったところで何も変わらない。奴婢の言葉など黙殺されるだけだ。
「わたくしのせいで丹さんは死んだ」
「娘娘のせいじゃありませんよ」
「わたくしがもう少しちゃんとしていれば良かったのよ。もっと力があれば。もっと、もっと……」
丹が死んでから、珠蘭は初めて涙を見せた。そして、声を上げて泣き崩れた。しばらく泣いて、それから毛玉ちゃんだけを連れて寝台に籠った珠蘭は、朝まで部屋に誰も寄せ付けなかった。
「娘娘、大丈夫でしょうか?」
「葛藤していらっしゃるんだと思う。大切な方だったのでしょう。でも、きっと娘娘なら大丈夫。信じて待ちましょう」
「はい」
翌朝、起きてきた珠蘭に、もう迷いの色はなかった。
「昨日まで、迷惑をかけましたね」
「いいえ、とんでもないです」
「わたくし決めました。皇后になります」
「娘娘はもう皇后さまですよ。一体どうされましたか?」
明明の返事はちょっとズレている。せっかく珠蘭が決意を語ったというのにと雲英は苦笑した。でも明明が本心から珠蘭に何かあったんじゃないかと心配しているのが分かるから、突っ込むに突っ込めない。
「まさか、また記憶におかしなところが?」
「ないから! 今まではお飾りっていうか、なんとなく皇后の座にいたけど、そうじゃなくて名実ともに皇后になるって決めたってこと。せっかく宣言したのに、台無しじゃない」
「あっ、そうだったんですか。申し訳ございません。でも私は娘娘が皇后じゃないと思ったことなどありませんよ?」
「いや、あるよね? 葉が珠蘭になってまだ混乱してたとき、いろいろ思ってたよね?」
ジトッと見つめる珠蘭と、目を逸らす明明。
また調子が戻ってきたと、雲英はホッと息を吐いた。
「娘娘、いい心がけです」
「雲英、これからもよろしく頼みます」
「お任せください。まずは、姿勢を正しましょうか」
覚悟を決めた珠蘭は、良い顔をしていると雲英は思った。
だから、泣きはらしたのだろう瞼が真っ赤に腫れあがっていて瞳も半分くらいの大きさでひどい顔になっていたことも、涙のついた袖がカピカピになっていたことも、決意したそばから見た目においては全くもって格好がついていなかったことも、言わずに心に留めることにした。
シリアス回でした。
次回からは軽快にいきたいと思います。
なんとなく皇后だった珠蘭がちゃんと皇后になろうと決意しました。
春慶はこっそり叱られています。可哀想。




