16.夜中の調査
夜の後宮は、場所によっては明るい。大きな通りや主のいる宮の門付近には灯りがあり、少ないながらも人通りもあるし、門の前には護衛が立っている。
珠蘭は宮を抜け出すと、その灯りをあえて避けて人通りのない裏道を進んだ。緩い月明かりだけが二人を照らし、薄い影を落としている。
「皇后さま、戻りましょうよ、やっぱり駄目ですって」
「じゃ、春慶だけ戻って」
「そんなことできるわけないじゃないですか」
雲英がいない時間を狙ってこっそり抜け出す計画を立てたはいいが、扉の前に控えている春慶を撒くことはできなかったので、いっそのこと一緒に来てもらったのだ。
「春慶、皇后って呼んじゃ駄目。今のわたくしは宮女。そうね、呼ぶ必要があれば蘭と。様は付けないこと」
「呼べるわけないじゃないですか。戻りましょうよ。ここはどこですか? 僕、この道初めてきましたよ。なんでこんな道知ってるんですか。っていうか、どこ行くんですか。戻りましょうよ」
「戻りたければ戻ればって言ったじゃない。証拠を探しに行くのよ。何を言われても、わたくしは……あたしは行く」
言葉遣いも戻してみる。意外と皇后の口調に馴染んできていたんだな、と雲英にちょっぴり感謝した。
キョロキョロと目を動かしながら、口を開けば戻ろうと言ってくる春慶にちょっとうんざりしながらも、珠蘭は慣れた道をずんずん進む。
この道は下女が使う道。なるべく高貴な身分の人達の目に触れないようにするため、後宮にはこのような道とも呼べないような通路が張り巡らされている。
当然、後宮の下女として二十年近く過ごしてきた記憶のある今の珠蘭にとっては馴染みのある道で、迷いようもない。
「あっ、何か聞こえます」
「しっ。聞いちゃ駄目」
珠蘭が口元に人差し指を立てると、春慶も何かを察したらしい。足早に通り過ぎる。人目のない夜の後宮には、いろんな愛の形が潜んでいる。助けを求めているような場合じゃない限り、気付かぬふりをするのが下女の中では暗黙の了解だ。
「春慶、もし見つかりそうになったら、あたしたちもああやって乗り切るよ」
「はい? え? いやいやいやいや、無理に決まっているでしょう。そんなことが見つかったら、僕、首と胴が別々になっちゃうんですけど!」
「見つからないようにするために、そうするんじゃない」
しばらく細い道を歩くと、懐かしい小屋が見えてきた。かつて寝起きしていた下女の小屋。小屋とは呼んでいたが、長屋のような粗末な建物だ。
「ここですか?」
「そう。春慶はここで待って。もし誰かが来たら知らせて」
「わかりました。でも、危ないことはしないでくださいよ」
「わかってる」
「僕まだ死にたくないですからね」
「わかってるって」
下女たちはもう寝ている時間だ。珠蘭は口元を布で隠すと、起こさないようにそっと中へ入った。ふっと懐かしい香りが鼻に届く。埃とカビが混じったようなそれは決していい香りじゃないけれど、緊張していた心が少し和んだ。
数人が横になっている中で、一人の下女を探す。灯りなどあるはずのない室内は暗く、わずかに開いた窓から差し込んでくる月明りだけが頼りだ。
(いつもは右端に寝ていたはず)
「誰だい?」
近くに行くと、警戒心を含んだ懐かしい声が聞こえた。かつての葉の同僚で、おしゃべり仲間。名前は静というけれど、全然静かじゃないおばちゃん下女。
「起きてたの」
「ここの部屋の者じゃないね。何の用だい?」
あたしだよ、葉だよ!
そう言いたかった。でもそれをグッと堪えて、冷静に話す。
「丹さんのことで、聞きたいことがあって来たんだ」
暗闇の中でも、静が驚いているのが分かる。警戒心を解いていないことも分かる。
「高い身分の方が、事件をもう一度調べようとしている。だから、こんな時間に申し訳ないんだけど、当時の状況を教えてほしい」
「聞いてどうするんだい。あたしら下女の言うことなど、誰も信じないよ」
「知っている。だけど、あたしは信じるよ。その方だって少しは信じる気持ちがあるからここへあたしをやったんだ」
迷っているのが分かる。言ったところで何も変わりはしないと思っていることも。
その内に、奥にいた一人が起き上がった。
「お願い、丹さんを助けて。何でも話すから」
まだ年若そうな下女だった。どうやら彼女も起きていたらしい。パタパタと近くまでやってくると、静を一度見て、話し始めた。
「最初はあたしだったの。あの日あたしは厨房の仕事をやってて、そしたらいきなり入ってきた宦官に手を掴まれて、皇太后さまのお食事に毒を入れたのはお前だなって」
「入れたの?」
「入れてない! 毒なんて、何のことかわかんないよ。でも、いくら知らないと答えても聞いてもらえなくて、そのまま外に引っ張り出されたの。それでやったと言えって棒で打たれて、それでも言わなかったら連れていかれそうになって。そしたら丹さんが……」
『やったのはあたしだよ。だから、その子を放してやっておくれ』
『お前が?』
『恨みがあったんだ。だから、殺してやろうと思ったのさ。これでいいだろう? その子を放してあたしを連れていきな』
「そう言って丹さんはあたしと宦官を引き離したの。それであたしの目を見ていつもみたいに笑ったんだ」
『いいかい、あんたは何も気にしなくていい。あたしはもう充分に生きたから、もういいんだよ』
「それで、そのまま連れられて行っちゃった。丹さんがやったはずない。そんなことをする人じゃないもの。でもあたしを庇って、あたしの代わりに」
そこから少女は泣き始めてしまい、話ができなかった。気がつけば部屋にいた六人が、皆起きていた。
「お願いだよ、丹さんを助けておくれ。丹さんが毒を入れるはずないんだ」
「そうだよ、そんなことをする人じゃない」
「そもそも、あたしらがどうして皇太后さまのお食事に毒をいれるんだい。お顔を拝見することだってないのに、何を恨むっていうんだい」
「犯人に仕立てるには、下女なら誰でもよかったのさ」
一度警戒心が薄れると、下女たちの話は止まらなかった。少女は泣き続けるし、丹と仲の良かった静も泣くし、他はしゃべる。一緒に泣きたかった。でも泣いたって丹を救えない。
「みんな、一回落ち着いて。状況は分かった。あたしは皆の言う事を信じてる。だけど、下女がそう言っていました、と伝えたところで誰も聞いてくれないでしょ。だから、丹さんじゃないっていう証拠がほしい」
「証拠……厨房になら何か手がかりがあるかね?」
「厨房は駄目だよ。あの日から夜も見張りがいる」
「裏口からならどうだい?」
「入れたとしても、見つかったら大変だよ。やめたほうがいい」
口々に話すのをまた止める。皆が興奮してきて、声が大きくなってきた。外まで聞こえるんじゃないかと心配になる。
「みんなはここから出ないで、もう寝て。あたしが行ってみる」
「危ないって」
「危なそうだったら近寄らないから。話が聞けて良かった」
「そうかい、気を付けるんだよ」
少し名残惜しい気持ちになりながら、下女小屋を出て厨房へ向かう。
(こんな話じゃなくて、楽しい話ができたらよかったな)
また薄暗い裏道を通って厨房へ出た。門のところに二人、眠そうな宦官が見張っていた。
(正面からは無理か)
諦めて裏口に回るが、鍵がかかっていた。夜なので仕方がない。それならばと別の場所に向かった。下女としてここで働いていた時期もあるので、どこに通れる場所があるかくらい熟知している。
(こっちも駄目か)
もうひとつ、ゴミを出すための小さな出入口へ行こうと回り込むと、いきなり後ろから誰かに口を塞がれた。同時に門のほうから宦官と思われる声がする。
「誰かいるのか?」
「どうした?」
「足音がした気がしたんだ」
「そうか? 聞こえなかったが」
鼓動が飛び跳ね、血の気が一気に下がる。
(誰? どうしよう、見つかった?)
押さえられた口を無理やり動かそうとしたその時、聞き覚えのある声がした。
「しーっ、雲英です。見つかったら困るので、どうかそのままお静かに」
おそるおそる振り返ると、雲英が小さく頷いて手を離した。春慶もおどおどしながら無事でいる。とりあえず、見張りに見つかったわけではなさそうで少しだけ安堵した。
「娘娘がしようとしていることはわかっています。でもここで見つかったら大変なことになります。今は大人しくついてきてください」
見張りが動いているのだろう足音が聞こえる。珠蘭は頷いて雲英のあとについて行こうとして、逆に雲英の裾を引っ張った。
「雲英、そっちじゃない。こっち」
灯りのある方へ行っても見つかるだけだ。下女の使う裏道へ入ると、見つからない場所まで進んだ。雲英も通ったことがないようで戸惑っていたが、迷いなく進む珠蘭のあとに続いた。
「雲英、どうしてわかったの?」
「娘娘ならそうするんじゃないかと思いましたよ。そして、行くならばおそらく厨房だと」
「それなら、どうして厨房に行ったかもわかるわね。わたくしはしばらくしたら厨房へ戻ります」
「なりません」
「それでも、行きます。わたくしにとっては、取るに足らない下女の命ではないの。何とかして証拠を見つけなければ。だから、行くわ」
いつになく強い意志を感じる瞳が月明りに照らされ、光ったように雲英には見えた。きっと、こうなった皇后を止めることはできない、そう思わせるような美しい瞳だった。
「それでも、行ってはなりません」
「行くと言ったでしょう」
「もう、危険を冒してまで行く必要がないのです。どうか、落ち着いて聞いてください」
雲英は大きく息を吐いた。珠蘭の瞳を陰らせたくはなかった。それでも伝えなければならない。
「丹という下女は、すでに処分されました。もう、死んでいます」




