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15.疑惑

 皇后の住まいである長明宮から出ると、皇帝は少しだけ立ち止まった。全忠は左右を素早く確認し、危険がなさそうだと判断すると、皇帝に声をかけた。


輿(こし)を用意しますか?」

「いや、いい。少し光が眩しかっただけだ」


 たしかに昼の太陽は、目が痛くなるほどに眩しかった。それでいて涼しい風が吹いているためか、暑さは感じない良い日和だ。


「では日傘を」

「それもいらぬ」


 何事もなかったように、皇帝は歩き始めた。

 後宮内では、皇帝は輿を使わないことが多い。普段から座り仕事が多いので、少しくらいは歩くことにしているのだ。乗ったところで結局早さは変わらないことであるし。


 輿を使うのは儀式の時や格式を気にするような場面だけだ。あとは、たまに雨の日。妃嬪の元へ行く予定になっており相手もそのつもりで準備していたのに、「雨だから行かない」などと子供っぽいことを言い出した皇帝を無理やり輿に乗せ、運んだことがある。


 皇帝の後ろについて歩きながら、そんなこともあったと思い出してにやけそうになる頬を隠していると、「全忠」と皇帝から声がかかった。少し早足で皇帝の近くに寄ると、他の者には聞こえない程度の音量で皇帝が口を開いた。


「今ごろ皇后は雲英に怒られているだろか?」

「まぁ、そうでしょうね。雲英の顔が引きつっていましたから、長くなるかと」

「だよな」


 全忠は苦笑したが、皇帝は表情をあまり変えない。外では状況に応じて必要な表情の仮面を貼り付けている。今だって、あちこちから女官の視線を浴びているのだから。


「謹慎期間中に皇后の元を訪うのはよくないよな?」

「おや、お渡りになりたいのですか?」


 珍しいこともあるものだと皇帝を見上げると、チラッと横目で睨まれた。突っ込まれたくはないらしい。


「お急ぎの用件でなければ謹慎期間を終えてからの方がいいとは思います」

「だよな」


 声色が少し残念そうなのは気のせいだろうか。


「全忠、野菜の種を用意して皇后に渡せ」

「種でございますか?」

「苗でもいいし、芋でもいい」

「よろしいのですか?」

「あぁ。あれは、なかなかおもしろい」


 ほんのわずかに皇帝の口角が上がった。それは、皇后に畑を許すということだ。むしろ、もっとやれと言っているようにも受け取れる。


「お前なら、余の好きなものをよく知っているはずだな?」

「えぇ、それはもちろん。かしこまりました、手配しておきましょう。ん?」

「どうした?」

「それならば陛下の嫌いなものの種を渡す方がいいかもしれません」

「何を言っている」

「皇后さまが手づから作られたものを食べないわけにはいかないでしょう?」


 ニコリと微笑みかければ、目線だけで睨まれた。残念ながら、その程度でめげる全忠ではない。


「余に嫌いなものなどない」

「えぇ、えぇ、存じておりますよ。食べられなくはないけれどできる限り口にしたくないものならばたくさんございますけれど、決して嫌いなわけではないのですよね」

「……」

「この全忠、陛下にはいろいろなものを召し上がっていただきたいと常々頭を悩ませておりました。陛下思いの良い部下だと思いませんか?」

「お前、いい性格してるな」

「お褒めにあずかり光栄です」

「褒めてない」


 小声でそんなやり取りをしながら、後宮から表へ繋がる門へ向かう。どこで聞きつけてきたのか、皇帝の歩く周囲には侍妾やら女官らが絶えない。遠くから眺める者、なるべく近づいて礼を取る者、中にはわざと皇帝の方角に倒れ込んできたりする者もいる。少しでも皇帝の目に留まろうと必死なのだろうが、皇帝は華麗に避けるだけだ。毎度のことですっかり慣れてしまった。


 女たちの熱い視線を涼しくさらりと流して後宮の門を出ると、今度は別の意味で熱い男たちが待っている。


「陛下、この案件に目を通していただきたく……」


 人気者はつらい。



 〇〇〇



 一方そのころ、珠蘭は予想通り雲英に叱られていた。今日は明明も逃げきれずに一緒だ。ついでに春慶も一緒だ。こちらは完全にとばっちりである。


「自分のお立場を忘れましたか! 何ですかその服は。陛下がお怒りにならなかったのは幸いですが、もし他の者に見られたらどうなることか。わたくしはそのお姿を見たときに一体何事がおこったのかと目を疑いましたよ、えぇ、これは夢なのではないかと、その希望は叶いませんでしたが。明明と春慶もなぜ止めないのです。一緒にやるとは何事ですか。皇后としての威厳が……」


 うんたらかんたら。


 皇帝が説教は「ほどほどに」と言ってくれたが、これははたしてほどほどなのだろうか。そんなことを思いつつも、それを口に出せば「ほどほどにしてこのくらいですっ」と火に油を注ぎそうなのでやめておく。大人しく聞いておく姿勢を保つに限る。


 ようやく鎮火しかけたところで、そろりと珠蘭は雲英を伺うように質問する。


「あの、雲英、教えてほしいのだけれど」

「威厳」

「ハイ」


 一言で指摘され、珠蘭は背筋を伸ばして深呼吸する。

 腕を組んで仁王立ちしている雲英、あなたのほうがよっぽど威厳があるよ、と思いながらも、雲英に習った通りに「上に立つ者の空気」というのを出せるように佇まいを直した。


「雲英、皇太后さまの体調不良の件、詳しく報告なさい」


 見極めるように珠蘭を見つめた雲英は、よろしいというように頷いて恭順の姿勢を取った。合格点はもらえたらしい。


 ちなみにこの段階で解放された春慶は、まるで仙術でも使えるんじゃないかというくらい瞬く間に消えていった。


(そもそも最後までいたっけ?)


 いた。可哀想である。


「厨房の下女が皇太后さまにお出しする月餅に遅効性の毒を混入させたところまでは聞きましたね?」

「はい。その下女は、なぜ毒を入れたりしたのかしら?」

「取り調べで、皇太后さまに恨みがあったと供述したそうですよ」

「恨み? どんな?」

「それについては明らかになっていません。下女も話さなかったとか」


 そんなの嘘だ。直観的にそう思った。自分が罰せられる状況で恨みを話せば情状酌量の余地が認められるかもしれないのに、言わないなんてあるだろうか。それに、取り調べと簡単に言うけれど、言葉のやり取りだけでなかったことくらいは想像に難くない。きっと無理やり言わされた。なのに恨みは言わない? どう考えてもおかしい。


「本当にその下女がやったの? 一人で?」

「本人がそう言ったそうですよ」

「雲英もそれを信じる?」


 雲英は答えなかった。答えない、ということが答えだった。雲英も信じてはいないのだ。どこかおかしい、そう思っていても、口には出さない。


「その下女の名前はわかる?」

「たしか、(たん)、と」

「丹! 丹さんなの?」


 それは、厨房にいた奴婢で、かつての葉の同僚だった。朗らかで、自分が辛くてもいつでも若い奴婢たちを気遣っている、そんな優しいおばちゃんだった。


「丹さんなはずがない。彼女であるはずがないわ! 厨房にはたしかにいたけれど、毒を入れるような人じゃない。そもそも皇太后さまと関わることなんてなかったはずよ」

「娘娘?」

「絶対に違う。言わされただけよ。自分がやったと言えって、もしくは言っていないのかもしれない。言おうが言うまいが関係ない。下女の言う事なんて誰も信じないし、好き勝手捻じ曲げられる」


 何かを上の身分の者から言われるとき、それは、もう決まっている時だ。あれが盗まれた、これが壊された。そう言われたら、やっていてもやっていなくても罰を受けた。「やっていません」と主張したところで「嘘をつくな!」と罰が増えるだけ。下女時代にはよくあったことだ。


「娘娘、落ち着いてください」


 いつになく取り乱している珠蘭に、雲英と明明は慌てた。

 珠蘭は落ち着いてなどいられなかった。かつての下女仲間が罪に問われているのだ。彼女は奴婢だ。処分を受ける、というのがどういうことか、珠蘭にわからないはずがない。


「丹さんは今どこに?」

「牢に入っています」

「会いに行きます」

「娘娘、それは無理ですよ。謹慎命令が出ているのをお忘れですか?」

「それでも行くわ」

「娘娘!」


 立ち上がった珠蘭を、雲英と明明は二人掛かりで止めた。二人で必死にならないと止まらないくらい、珠蘭は本気だった。


「娘娘、落ち着いてください。今飛び出していったところでどうなります? 娘娘が連れ戻されて終わるだけです。そうなればもう口を出すことさえ叶わなくなりますよ」

「でも、だからって!」

「わたくしが再調査を依頼してきましょう。受け入れられるかはわかりませんが、ここで娘娘が行くよりはまだ良いはずです。落ち着いて待っていてくださいますか?」


 荒くなった息を整えた。

 珠蘭には頷くことしかできなかった。



 それから珠蘭の意見を元に雲英が書類にしたため、再調査依頼を出しに行った。

 しばらくして、再調査が却下されたという報告とともに雲英が戻ってきた。


「どうして」

「本人の自供が得られている以上、証拠もなく調査できないとのことです」

「わたくしの、皇后の依頼であっても?」

「皇太后さまが調査を主導して終了している以上、難しいかと」


 珠蘭は落胆とともに、静かに怒りを溜めていた。先程取り乱した時とは違い、どうすべきか冷静に判断する。


「雲英、皇后と皇太后、どちらの身分が上なのかしら?」

「皇后さまが上です。ただし、あくまで名目上は」


 雲英は肩をすくめて小さく息を吐いた。そして、あえて言いますね、と前置きした。


「皇后さまは後宮、いえそれに留まらず、この国の女性の中で、一番身分の高いお方です。ですが、後ろ盾も派閥もなく、子もない。皇后としての実績も少なく、動かせる人員も多くない。それに比べて皇太后さまはどうでしょうか?」


 実子が皇帝であり、大きな派閥を動かせるほどの権力をもつ存在。長年後宮に君臨しているだけあって、人脈も財力もある。なにもかも、珠蘭には敵わない。


「そんな皇太后さまと皇后さまが違う命令を同時に出したとき、どちらに従うでしょうか」

「皇太后さまね」


 それは、皇太后だけじゃない。後宮で一番高い身分だと言ったところで、淑妃にも徳妃にも敵わないのだ。お飾りの椅子に座っているだけだと、珠蘭は今、痛感していた。


「わたくし、何もできない」


 珠蘭は悲嘆にくれた。




 ……だけで終わるはずがなかった。

 なにせ下女仲間の命がかかっているのだ。その命が今にも奪われようとしているのに、じっとなどしていられるだろうか。


 辺りが暗くなった頃、珠蘭は宮女服に着替え、こっそり長明宮を抜け出した。

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