11.皇太后の生誕祝い3
祖母が孫を膝の上に乗せ、微笑みながら話をしている。それだけを聞くととてものどかで温かい雰囲気だが、悲しいかな後宮という場所はそれを温かいだけでは済ませてくれない。
「またいつでも遊びにいらっしゃい」
皇太后の膝からぴょんと飛び降りた孫、淑妃の四歳の息子は、振り返ると皇太后にむかって笑って手を振った。淑妃がその子を連れて上座から下りると、皇帝のところにいた二人の男児を母である徳妃が連れていく。
皇太后が「遊びにいらっしゃい」と言ったのは、淑妃の子だけ。それが何を意味するのか、わからない者はいない。
一方で皇帝は徳妃の子を側に寄せた。それは皇太后があからさまに淑妃の子だけを呼んだからではあるが。
子供たちが会場を出ていくと、珠蘭はホッと胸をなで下ろした。それは会場にいる他の者たちにとってもそうであったようで、一瞬静まったのちにようやく女性たちの話し声が聞こえてくるようになった。
そこからは挨拶の時間である。侍妾たちが代わる代わるやってきては皇太后に生誕の祝いを述べ、ついでに皇帝にも挨拶していく、という流れになっている。
(どちらがついでなんだか)
と思ったことは決して声に出してはいけない。もちろん皇太后に礼を欠くような真似をする者はいない。皇太后に気に入られようとする者もいる。
でもどちらかというと、少しでも皇帝の目に留まろうとしているのは見え見えだ。必死に話をする女もいるし、さりげなく美しさをアピールしたりしている。そんな侍妾たちの努力も虚しく、皇帝は常に同じ対応だ。
そして、ついでのさらについでに皇后のところにも挨拶にくる。皇太后と皇帝への挨拶で生気を使い果たした、とでもいうような目つきの者もいるし、皇帝に見えないように鋭い視線を送ってくる者もいる。どちらにしても、皇后に取り入ろうとしてくる者はいない。
淑妃派でも徳妃派でもない。子もない。異国から嫁いだ故に国内に後ろ盾となる家もない。皇后として遇されているものの、皇帝から特別に気に掛けられているわけでもない。発言力もない。後宮で一番の身分を持っているとはいえ、そんな、ないないずくしの皇后に取り入ったところで、うま味などありはしないからだ。
(わかりやすいなぁ)
珠蘭は思わず笑ってしまいそうになるのを必死に堪えていた。
むしろ自分はここにいるべきじゃないんだろうとも思う。なんといっても、女たちの視線がそう告げている。役職上仕方がないが。
一通りの挨拶を終えれば、歓談の時間を経て宴はおしまいだ。まずは主役である皇太后の輿が用意されたが、皇太后はそれをやんわりと断った。
「陛下、今日は良い日和ですね」
「天も母上をお祝いしているのでしょう」
「まぁ、お上手になったこと。せっかくのお天気ですから、わたくしはこれから散策して宮へ戻ります。この母への祝いと思って、少し付き合って下さるかしら?」
「もちろんですよ」
母と子であれど、皇太后と皇帝という間柄だ。共に過ごせる時間は多くない。珠蘭は二人を見送ろうと軽く膝を折った。見送りの言葉を掛けようと口を開きかけたそのとき、皇帝がこちらを振り返った。
「皇后もくるといい」
えっ? という言葉が口から出なかったことは、褒められてもいいと思う。どう考えたって皇太后は息子との散歩を楽しみたいのだ。珠蘭は邪魔でしかない。なぜ誘う。
「どうした、行くぞ」
「は、はい」
会場にいた皆から見送りの挨拶を受けて、歩き始めた皇帝の二歩くらい後ろを静々とついていく。皇太后に睨まれるのはもっともであると思うけれど、皇帝に行くぞと言われて断れるだろうか。否。無理である。
宴のざわめきから少し離れ、皇太后は皇后をいないものとして扱うことにしたらしい。珠蘭もそうしてもらえるとありがたい。
「陛下、この花は見事ですわね」
「そうですね。こちらの花は母上に似合いそうです」
皇帝が一本の花を折ろうとすると、皇太后はそっと押しとどめた。
「そういうことは妃嬪になさい。こうして共に散歩をすることもないのではなくて?」
「痛いところを突かれてしまいました」
「陛下がいらしてくださらない、子が可哀想だと淑妃が漏らしていましたよ」
「仕事が忙しいのですよ。なかなかこちらに来る時間がなくて」
「後宮におとなうのも皇帝の仕事のひとつですよ」
皇帝は花から手を放し、苦笑してみせる。
「それから、同じ妃嬪たちの元ばかりに通うのも考えものです。ご覧なさい、ここにはたくさんの花が咲いているでしょう。見た目が良い花もあれば、香りが良い花もある。皆、陛下を待っていますよ」
「余には過分です」
「なにをおっしゃるの。わたくしに寂しい老後を送らせるつもりかしら」
皇帝の二歩後ろの距離を保ちながら、余計な仕草をせずにそっとついていく。居心地が悪すぎる。
(空気になりたい)
「母上、今日はせっかくのお祝いの日なのですから、余のことではなく母上の話をしてください。先日おっしゃっていた新しい布地はいかがでしたか?」
「あぁ、あれは柄が少し地味だったのよ……」
ようやくなごやかな話になったのに安堵しながら進むと、池に出た。橋の中ほどまで進み下を覗けば、鯉が寄ってきて口をパクパクさせている。模様のついた鯉もいれば、色のない魚もいる。
「あの鯉は綺麗な色だこと」
「あちらは大きいですね」
(あの丸々太っているのは食べごろね。取ったら駄目かな)
駄目に決まっています、という雲英の声が聞こえてきた気がした。この場に彼女、いないが。
「餌を投げ入れてみましょうか」
皇帝がそう言うと、控えていた宦官がスッと饅頭を差し出した。用意のいいことである。
皇帝はそれを割ると、まずは皇太后に、それから小さめの塊を珠蘭に差し出した。
(そのまま食べたいな)
一瞬葛藤しつつも小さくちぎって池に投げ入れると、鯉はおもしろいほどにバシャバシャと音を立てて喰いついた。
「よく食べること」
「本当に。元気がよい。……あれは?」
手を止めた皇帝の目線の先を追うと、少し先に何か動いているものが見える。小さな水しぶきと水波が立ち、その中心にあるのは薄い茶色っぽいなにか。
(大変!)
即座に珠蘭は上の羽織を脱いで控えていた明明に押し付け、走り出した。
「皇后?」
「皇后さま!」
返事をしている時間はなかった。橋を下りて回り込むと、そのまま池に飛び込んだ。遠くから「皇后さまっ」と声が聞こえた気がするけれど、構っていられない。
池の深さは珠蘭の腰ほどだった。衣が水を吸って動きにくい。泥に足を取られながらもそのまま水を掻きわけて進み、薄茶色の物体を持ち上げた。
「ちゃんとつかまってるのよ」
そのまま何とか岸へ上がると、それを叩いた。口から水が出て、ゼェゼェと呼吸音が聞こえるようになる。
「よかった、間に合った」
猫か狸か、と思っていたが、顔を覗き込んでみればどうやら子犬のようだ。
「もう大丈夫よ。一体どこから来たの?」
話しかけてみても返事は当然ない。軽くパニックになったのか一度バタバタと暴れ、それでも弱っていたようで、だんだんとくったりと身体を預けてきた。よしよしとなだめていると、皇太后と皇帝が橋を下りて近くに来ていた。
「皇后、一体なんということを!」
信じられないというように皇太后が頭を抱えたことで、どうやら良くない状況らしいということがわかった。自分の姿を見れば、水浸し、および、ドロドロだ。見れたものではない。
でも後悔はしていなかった。衣ならば洗えばいいことだ。
(あー、この生地は洗いにくいよなぁ)
思ったのはその程度のことだった。良い生地なのでガシガシと叩くことはできず、丁寧に洗わなければならない。泥の色素が落ちないかもしれない。
「それは何だ?」
皇太后よりはいくぶんか落ち着いているらしい皇帝が尋ねた。
「子犬のようです」
「生きているのか?」
「大丈夫そうです」
めまいを起こしたのではないかという状態だった皇太后が復活して、珠蘭を睨んだ。
「皇后は朱の衣をまとう意味をわかっていないのかしら?」
「申し訳ございません。溺れているようでしたので」
「子犬一匹など捨て置けばよろしいでしょう! 皇后たる地位の者が人前で服を脱ぐなどもってのほか。なおかつ、あなたは朱を汚したのですよ」
一応駄目だという理性が働いたからこそ上着は脱いだのだけれど、そんなことを言っても意味がないだろう。今着ていて泥がついている部分にも、朱色は含まれているのだから。
「皇后にとっては朱など汚してもよいものだと言う事なのね」
「とんでもないことでございます」
「だからわたくしは反対したのですよ。黄国の者を皇后にするだなんて」
まぁまぁ、となだめてくれたのは皇帝だった。
「母上、後で余が言っておきますので、今日のところは皇后を戻らせてください。この姿をなるべく他の者に見られない方がいいでしょう」
皇太后は再び頭を抱え直して、もう見たくないとばかりに手を振った。
皇帝が珠蘭に向き直る。怒られる、と思って珠蘭はビクッと肩を震わせた。
「皇后、血が出ている」
「あ」
見ると腕から血が垂れていた。子犬が暴れた時に引っ掻かれたのだろう。
「宮に戻ってから手当てしてもらえ。医官を遣わそう」
「それほどの傷ではございません」
「悪化しては困るだろう」
「……感謝いたします」
珠蘭は池の水を滴らせながら、子犬を抱いてその場を後にした。