1.下女が死んだ日
月のない夜だった。
一人の青年とそれに続く数人が門を抜けていき、重そうな扉がギギッと音を立てて閉まる。灯りはあるものの辺りは暗く、遠ざかる足音以外に響く音もない。
ピシッと姿勢を正していた門番は、足音が完全に聞こえなくなると、ひとつ大きなあくびをした。明るくなるまでにはまだかなりの時間があった。
やがて朝の光が届き始めると、景色はその色を取り戻す。敷き詰められた石畳、朱色の高い壁、様々な模様が彫り込まれた大きな門に重厚な扉。そして壁の上から覗く、大きな宮の屋根たち。
驚くべきことは、それがひとつなのではなく、いくつも連なっているということだ。城壁の中にもかかわらず庭園もあり、それはまるでひとつの街のようだ。
朱国、後宮。
絢爛豪華な宮が並び、花が咲き乱れる。
美女だけで三千人いた、なんていう時代もあったという噂だけれど、さすがにそれほど多くはない。それでも、先代皇帝の時代には美女に加えて宦官や下女を合わせれば、それくらいの人数がいた。
人数が変わろうとも後宮そのものの広さは変わらないし、本質もまたしかり。皇帝の寵愛を得るために妃たちは煌びやかに着飾り、欲望と嫉妬を隠して笑顔を貼り付ける。己の権勢、家の繁栄、さまざまな背景を背負った女たちが繰り広げる陰謀の数々。
あの宮には殺されたというある妃の亡霊が出るとか、どこぞの井戸からは身投げした侍妾の泣き声が聞こえるとか、そんな噂は後をたたない。
まぁ、それも事実なのだが。
後宮で暮らす人の中で、そんな環境にいるのは上層部を中心にごく一部だ。
もし全体を十とするなら、渦中にいるのは一にも満たないし、それに巻き込まれているのがせいぜい二といったところだろう。
残りの七割の人達は己の職務を全うしながら、とくに表舞台に上がることもなく、日々の生活をまぁまぁ平和に送っているのである。
これは、そんな残り七割の内の一人として無難に生涯を終えたはずだった、ある下女のお話。
※※※
晴れ渡った青空に小鳥が飛び、柔らかい風が心地よい。
後宮の片隅にある井戸の周りの石畳で、葉は棒で洗濯物を叩いていた。
「ほら、みんなもっと力強く。あ、ちょっとまちな、あんたはやりすぎ。あんたの憎しみ全てをぶつけたら棒がいくつあっても足りないよ。力加減は半分くらいにしておきな」
一番腕っぷしの強そうな下女に向けて言えば、アハハ、という笑い声が響く。
葉は推定四十五歳。ベテランであり、年若い下女たちの指導係だ。
もっとも、指導係と言っても下女は下女。立場は後宮最底辺であり、奴婢という身分から抜け出すことは一生ない。
後宮で暮らす女性たちには明確な序列がある。皇后をトップとして、妃嬪、侍妾、女官、宮女、下女の順だ。皇后は言わずもがな皇帝の正室、妃嬪は側室、侍妾は選秀女という試験を通った良家の子女もしくは皇帝の手がついた女性。女官は女官になるための試験に合格した者。宮女と下女は同じように雑用をこなす者であるが、良民と賎民という明らかな身分差がある。
「あー、そっちは強く叩いちゃ駄目。生地が傷んじゃう。高貴な方の服は下履きであっても叩かず、そっと揉み洗い。破いてしまったら食事が減るよ。いい?」
はーい、という声と共に、またトントンという音が聞こえてくる。午前中はおしゃべりしながら、わいわいと洗濯をする。しばらくそうして汚れを落としてから、井戸から水を流してすすぐ。最後にぎゅぎゅっと絞って、水気を切った桶の中にまとめた。
ようやく一段落、と思ったのもつかの間のこと。別の下女が気まずそうに追加分をもってきた。やっと終わったとこだったのに、なんて思っても文句は言わない。余裕があれば、笑顔で受け取る。運んできた下女だって仕事だからやっているのだ。
「追加きたよー」
「うげぇ」
先代皇帝崩御から三年。主が今代の皇帝に移るにあたり、後宮の人員は大幅に減った。半数どころか、三分の一にも満たないらしい。
先代の頃の洗濯物の量を知っている葉としては、少し追加がきたからといって多いとは思わない。まぁ、下女の人数も減っているのだから、一人当たりで考えれば仕事量に大した変わりはないのだけれど。
「はいはい、変な声出してないで、洗うよ。トン、トン、トンコトン、トン、トン、トンコトン……」
洗濯の歌だ。葉が歌い出すと、だんだんとみんなの声も合わさっていく。リズムを口ずさみながら、手を動かすのだ。
いろんな歌がある。掃除の歌にも何種類かあるし、雑草を抜く歌なんてのもある。みんな好き勝手歌うので正しい歌がどれかなんてわからないし、そもそも正しい歌なんてものがあるか微妙だ。たぶんない。
でもそうやって、下女たちは辛い仕事を少しでも楽しんでやろうとしている。
「じゃぶじゃぶ流そ~、汚い下着~」
「え、やだ、なにその歌」
「え、だって見てよこの下着。どうやったらこんなに土が付くんだろうね?」
「ホントにそれ土?」
「ぎゃー、まさかまさか? 匂い嗅いでみなよ」
汚れに鼻を近づけた下女が変顔をすれば、アハハ、と笑い声が響く。
仕事はきついながらも、下女たちの平和な朝の風景。
なお、非常にどうでもいい話だが、その汚れはただの土だった。その、あれではない。
下女の仕事は楽ではない。毎日ずっと働きっぱなし。おまけに休みなんてほぼない。
それでも後宮は、葉にとって良い職場だった。最低限であっても食事はちゃんともらえるし、着るものも寝る場所も与えられる。
誰かが間違いを犯せば全員食事抜き、なんてことはざらにあるけれど。
それに何より、男がいない。
後宮にくるまでの葉は、そこそこお偉いさんの私奴婢だった。どの程度の家柄なのかは知る由もない。生まれははっきりせず、父母もわからない。物心ついた時にはその家の奴婢仲間に育てられていた。
私奴婢とは、その主の所有物だ。主にもよるけれど、大抵の場合「人」という扱いなんてされない。家畜同様、もしくはモノだ。
葉は幼い頃から先輩奴婢について働いていた。仕事内容は洗濯炊事掃除に始まり、まぁ、いろいろだ。主には逆らえない。
後宮に送られてきた時は、心からホッとした。
後宮は基本的に男子禁制だ。入れる男性は皇帝陛下か、陛下の許可を得た皇族のみ。そんな高貴な方々が下女のいる区域にくるはずもない。ましてや陛下の目に偶然に止まり見初められる、なんていうことが起こる可能性は万に一つどころか百万に一つだってない。
男であるが大切なものを失っている宦官という人達はいるが、それでも男という存在に恐怖心をもっている葉にとって、奴婢という身分の中ではこれ以上ない職場だった。
「さてと。先に干しに行ってるよ」
他の下女より一足先に自分の分を洗い終えた葉は、よいしょ、と桶を持った。そのまま立ち上がろうとして、一瞬頭の中が暗くなってよろけた。
「おっと」
「葉? 大丈夫かい?」
「……ちょっとめまいがしただけだよ。あたしももう歳だね。今日にでもぽっくり逝くかもしれないよ」
「何言ってんだい。あたしのが先だよ」
「いやいや、そこは負けられないねぇ」
葉が笑って動き始めれば、おばちゃんの下女仲間はちょっとだけ心配そうに笑った。重労働なためだろうか、葉よりも年嵩の下女は多くない。
干場へ移動して布たちを棒に掛けていく。一通り干し終えると、葉は大きく伸びをした。
(うーん、今日はよく乾きそう)
気持ちよさそうに風になびいている布たちの上を、小鳥が飛び交っていた。なんとものどかな風景である。
(このまま横になってしまいたいねぇ)
あいにくだけれど、下女にそんな時間の余裕はない。他の下女たちが干しているのを手伝わないといけないし、それが終われば食堂の片付け。やることは山積みだ。
それにも関わらず、葉はそのままドサッという音を立てて横になってしまった。
(あらら?)
青い空が見える。それがだんだんと曇ってきたように見えて、そして完全に黒くなった。
「葉さん? えっ、葉さん!?」
「どうした?」
「葉さんが急に倒れちゃったんだよ」
「ええっ、ちょっと、葉。葉!?」
近くにいた同僚下女たちがわらわらと寄ってきて、そのうちの一人が葉の身体をゆすった。その振動に後押しされるように、するりと何かが身体から抜け出した。
(あららら?)
気がつけば、眼下に自分のものであったはずの身体がある。その周りでは同僚下女たちが大騒ぎしている。
「大変、息してないよ」
「うそぉ! ちょっと葉さん、起きてよ」
「葉さぁぁぁん!!」
どうやら、自分は息をしていないらしい。ということはどういうことか。
……そういうことだろう。
(あらららららら……)
一瞬呆然とはしたものの、葉は意外とすぐに受け入れた。生きていたとしても明日からもずっと、働き続けるだけだ。ちょっと考えてみたけれど、この世に思い残すことも特になさそうだった。
まじまじと自分であった顔を覗き込んでみる。
(あら、意外と美人さんじゃないかい)
鏡なんていう高級品を持っているはずもなかったので、最後に自分の顔を見たのはいつのことだったか。葉はフフッと笑った。その間にも、騒ぎを聞きつけて人が集まってくる。バタバタと動き回る同僚たちを、葉はまるで他人事のように眺めていた。
やがて呼ばれてきた医者代わりの女官が葉の身体を診て、首を横に振った。
「葉、ほんとに逝くのかい。ちょっと待ちなよ、あたしのが先だって言っただろう?……寂しいじゃないか」
涙を拭きながら葉の手を握りしめているのは、ついさっき話したばかりのおばちゃん下女仲間だ。きっと、ここでお別れなのだろう。
(もしあの世で会ったらまたおしゃべりしよう。ありがとうね)
長年を共に過ごした仲間たちの顔を見回して、ほろりと涙が、こぼれなかった。
どうやら魂には涙がないらしい。葉が薄情なわけでは決してないはずだ。
寂しさが胸に広がった瞬間、浮上するのを感じた。
(ちょっとまって、お別れする時間くらいちょうだいよ)
そんな願いも虚しく、葉の魂はふわふわと上っていく。どこにいくかなんてわからないけれど、きっと勝手に連れていってくれるのだろう。
毎日働き通しだった下女人生。楽しいことがなかったとは言わない。だけど、理不尽なことだらけだった。良民と呼ばれる平民たちが普通にしていることが、賎民である奴婢には許されなかった。ただ言われたことに従って働き続ける人生。
(どうか次は、もう少し良い身分に生まれ変わりますように)
ゆらゆらと漂いながら、葉は願った。
その願いは、ある意味すぐに叶えられることになる。
初投稿です。
よろしくお願いします。