第六章 生きてさえいてくれれば ①
「やっと、みつけた……」
ぜぇ、ぜぇ、と息を切らし、だくだくと滴る大量の汗を流しながら、大きく息を吐く。目の中に入りそうな額の汗を乱暴に拭うと、ここからは表情が見えない累の近くまでふらふらと歩み寄っていく。
累の伸ばされた手は、いまだに彩女の首を把持し、凍りついたように体を固まらせている。だが、腕の力は抜けているようだった。
彩女の目がこちらを見る。そして、静かに微笑んだ。
「どうした? 紅月……なんだ? わたしに殺される前に、殺しに来たのか? だったら杞憂だ。わたしはもうすでに殺されそうだ」
彩女の吊り上がった目尻が弱々しく下がる。しかし、口の端だけは意地を張るようにしてわずかに上げた。
「べつに、お前を殺しに来たわけじゃない。こいつが心配で、ただ来ただけだ」
魁斗は累を指差して彩女の言葉に返す。
いまだに累はこちらに振り返ってはくれない。
彩女が鼻を鳴らすような笑い声を立てて、言葉を続けてくる。
「そいつに関わるとろくなことにならないぞ。そいつは呪われてる。人間に化けてる悪狐だ。お前を必ず不幸にするぞ」
「あいにく、おれはこいつと会ってから幸せだと感じることはあっても不幸だなんて感じたことはひとつもない」
間髪いれずに、彩女の言葉に返した。
だが、彩女は嘲笑うかのように口角を上げたまま、挑発するようにその口を開く。
「ほんとにそうか? お前、母親が殺されたんだろう? もしかしたら母親が死んだのはそいつの災いのせいかもしれんぞ」
魁斗は堪えきれず、ズンズンと大きく地面を踏み鳴らしていき、首に手をかけている累の指を無理やりに引き離すと、代わりに魁斗が胸倉を掴む。顔と顔がぶつかりそうなほど引き寄せ、眉根を寄せて、その漆黒の色のない色彩の目を睨む。
「それ以上、こいつを傷つけるようなことを言ったら、おれがお前を殺すぞ……」
低く唸るように呟き、凄む。
そして、投げ飛ばすように胸倉を離した。彩女は尻もちを着くようにして地面に倒れる。
累のほうに振り向く。
ようやく顔の輪郭が見えた。しかし、金色に染まっている髪の毛で表情を隠すように、累は顔を伏せていた。
「累……帰ろう」
累に手を差し伸べる。
差し伸べられた手を見て、累はゆっくりと顔を上げる。
見えた表情は、背一杯、泣かないようにと唇を噛み締めていた。だけど、その目は夜の闇を黒々と映しているように陰っている。それでも、なぜか笑おうと口の端をひくひくさせながら、ぐちゃぐちゃに――ぐちゃぐちゃに表情が歪んでいた。
コクッと一度喉が鳴る。
目と目が合う。
目が合った瞬間に累は勢いよく自分の顔を隠すように顔を伏せて、両手で顔面を覆った。
「なんなの……なんなの……なんなの……!?」
動揺を隠しきれないように口から言葉が漏れ出る。
「なんで……なんで、いるのよ……魁斗……」
引きつったように声を震わせている。
目の前にいる人物がなぜここにいるのか、まったく理解できず、それに対して混乱状態を起こしているようだった。
さらに累は両手で覆った顔を地面へと伏せていく。
「見ないで……お願い、見ないで」
自分の今の姿を見ないように懇願してくる。
その言葉で、魁斗はようやくまともに累の姿を直視してしまう。
なんだよ、その姿……狐の耳に、九つの尻尾……それに金髪……。
魁斗は地元の里神楽の演目である『悪狐伝』を頭の中で思い浮かばせた。
中国やインドで悪行を重ねた金毛九尾の狐が日本に渡り来て、美女に姿を変え、人を化かし、この世を乱したという。
まさか、本当に存在するのか……?
魁斗が見ていることが気配でわかるのか、累は決して顔を見せないように必死になって顔面を覆う。
「こっちに来ないで。見ないで、見ないでよ……わたしを、見ないで……」
必死にお願いするように言葉を続ける。
そして、その言葉とは裏腹に魁斗はそっと累のもとへ近づき、顔を覗き込むようにしてから、囁くように口を開いた。
「なんでだよ、綺麗じゃんか」
「……」
「…………」
「………………は?」
累が思わずといった感じで顔を上げる。
魁斗の目線はそんな累の頭の上。狐の耳だった。
「それって、ほんとに生えてんのか? ちょっと触りたいんだけど……」
「……なに言ってんの?」
「いや、だから触りたいんだけど……」
「触り……驚かないの?」
「ん? そりゃあ驚いてるさ。だって髪が金髪になってるし、頭から耳が生えてるし、けつから尻尾だって生えてるし」
魁斗は視線を上下に移動させ、まじまじと見つめる。
なんだ、この反応は? と、累は口をぽかんと開けて固める。
魁斗の反応はいつも予想の斜め上を行く、と目を瞬かせた。
「それ、だけ……?」
「えっ? うん。や、だってさ……左喩さんだって鬼みたいな姿になるし、おれだって目が真っ赤になるんだろ? それと同じようなものなんじゃないの?」
同じ、なのか……? いや、もっとよくないモノだろう……これは。
呆気に取られて累は言葉を返せない。
そうしていると、魁斗は本当に耳を触ろうと手を伸ばしてきた。
「ごめん、ちょっと触るよ……って、あれ?」
触れられなかった。
魁斗はしかしもう一度、耳に触れようと手をふりふりと動かすも、朧げな霞のように手がその狐の耳をすり抜けていく。その柔らかそうな耳にも、ふさふさでもふもふそうな尻尾にも触れられなかった。
魁斗は眉間に小さな皺が寄り、自分の手を見つめて呟いた。
「触られないんだけど……」
「……触れられないのよ、たぶん。ほんとに生えてるわけじゃないんだから……」
「えーっ!」
なんだぁ……と、がっくしと肩を落とす。しょぼくれた顔を浮かべ、恨めしそうに累の生えたように見える狐の耳をじっと見る。
どうやら実体がないらしい。霊的な何かなのか? と、魁斗は首を傾げさせる。
累の目の前で心底悔しそうに、触りたかったのにな……とぶつぶつと文句を垂れる。
「……あんた、なにしにきたの?」
「えっ、お前が心配で来たって言っただろ?」
「は?」
「は? じゃなくて……とにかく心配で……お前をひとりにさせたくなかったんだよ。最近、お前おかしかったし」
「……」
累は一度目を伏せる。
「わたしは最初からおかしいよ……」
少し曇ってしまった累の表情に、魁斗はぽりぽりと頬を掻く。
「たしかにお前は最初から、おかしな子だったよ……全然、笑わなかったし……。でもさ、いつからか笑うようになったじゃないか。だけど、それが最近めっきり笑わなくなった……だから、心配で心配で……お兄さんは走りまわってお前が無事かどうか確認しに来たんだぞ」
「バカなの?」
「お前が言うな」
「……」
真剣な目で見つめ合い、ひととき会話が途切れる。
浜風が木々の葉っぱを揺らしていく。
「なぁ、累。帰ろう……」
もう一度、その言葉を投げかけると、しゃがんで手を差し伸べた。
累はその伸ばされた手を黙って見つめる。見つめた後に、少し瞳を悲しげに揺らしてから、力強く顔を上げた。
「……ごめんだけど、もう止める気ないから」
累は手を取らず、ひとりで立ち上がった。
魁斗は立ち上がった累を見上げると、声を強く発した。
「おれ、もう知ってるからっ!」
累が動きを止める。すこしピクついた唇を開く。
「知ってるって……なにを?」
累が魁斗を見下ろす。
魁斗は累について知ったことを口に出す。
「お前が、隠里の出身だってことも……。そこで、呪われた家族として迫害を受けていたことも……。逃げ出そうとして……その、……お前の家族が殺されたこと……」
累の目の端がぴくっと上がる。それでも、魁斗は言葉を継いだ。
「お前が……おれと母さんを守ろうとして、裏で手を汚していたことも……。母さんが殺されて……おれを守るために、皆継家に掛け合ってくれていたことも」
累の目が大きく開かれていく。
「もう知ってるんだ。だから、累。もういい、もういいから……これ以上は自分を殺さないでくれ」
これ以上やってしまったら累の心が壊れてしまう。だから、もうやめてほしい。
「……なんで、知ってんのよ……」
累は奥歯を噛み締めながら、呪詛のように小さく唸る。
「なんで……あんたが知ってんの」
累の両目が、凄まじい勢いで魁斗を見据えた。
一瞬、ぐっとたじろぎ、息を詰めて唇を引き結ぶも、いや、どうせすぐバレる、と、腹を据えて告げる。
「……おれが、無理やり聞いたんだ」
名前は伏せた。
でも、累はわかったように「……ちっ」と舌打ちする。
「あの女……」
恨むように喉の奥から微かに声を漏らした。
だったら、と累は続けて言葉を伝えてくる。
「知っているのなら……わかるでしょ? わたしの気持ち」
累の目がはっきりと魁斗の目を捉える。その瞳は、悲しみの色で染まっている。
わかってしまう。
自分の肉親を殺された、その相手の行方を知っている者が目の前にいる。そして、その者は迫害を受けたあの里の出身で恨みの対象でもある。条件を交わしたが、長らく利用もされて、自分の身も心も削ってきた。気が狂ってしまってもおかしくない。
魁斗は殺された母さんのことを思い出して、どうしようもなく復讐に対して、気持ちがわかってしまう。だけど、
「でも、……ダメだ」
絞り出した魁斗の答えは否だった。
聞いた瞬間、累は怒りに眼差しを強くする。
「なんでっ……なんでよっ!? あんただっておばさんっ……自分の母親が殺されたんだから、わたしの気持ちがわかるでしょっ!?」
そう言い放ち累の目からは涙がこぼれ落ちる。
「同じよ! あんたとわたし、同じ気持ち!!!!」
必死の形相で訴えてくる累に思わず胸が苦しくなり、涙が出そうになる。だが、自分が流してはダメだと堪え、深く唇を噛む。
「わかる、よ……。おれだって殺したいほど、犯人が憎い。だけど……それでもダメだ」
信じられないとばかり、目を見開く累の瞳が自分を映す。裏切られたと心を抉られたように、苦しそうに胸を押さえながら、震える唇から小さく唸るように、
「なんでよ……」
弱々しく言葉がこぼれる。
魁斗はここにたどり着く前に事態を整理させていた。
累が、もしここで隠里に復讐を遂げてしまったら、再び里の者に命を狙われることは間違いない。それどころか反逆者として深海派全てから殺しにかかられるかもしれない。左喩に頼み込んでも累が本当に復讐をやり遂げてしまったら、守ることは恐らく難しいだろう。
だから、累の言葉に「はい」と頷くわけにはいかなかった。
なにより大事なのは累の命だ。
おれは――おれの選択は、累の行動を止めに来た。
こいつの命を守りたいから。
魁斗は意思を固めて、言葉を紡ぐ。
「おれは今、生きてる累の方が大事だからだ」
伝われ、どうか伝われと願う。
累は一瞬言葉を詰まらせるように、息をのんだ。
だけど、
「わたしは……わたしは、死んだっていいの! そんなの……理由にならないっ!」
首を左右に振りながら、返ってきた言葉は拒否だった。
累は魁斗との目線を切ると、踵を返して、彩女の目の前に立つ。そして、背中越しに累は言葉を繋ぐ。
「今から……こいつが口を割るまで痛ぶり続ける。最悪、殺すかもしれない。だからもうあんたは帰って」
平坦な口調で伝えられる。魁斗は屈ませていた体を立ち上がらせた。
「……やめとけよ……頼むから」
すると累が振り返った。悲しい表情を浮かべながら、その目は自分を見る。
「あんたを巻き込みたくないの……」
お願いするように、その言葉を紡ぐ。
しかし、首を振った。
このまま累の前から都合よく消えるわけにはいかない。
自分でも整理しきれない気持ちが胸の中で騒いでいる。
ただひとつ、たしかな感情が胸の中心にはあった。
だから、今度は強く言い切った。
「やめてくれ、累」
累の表情に怒りが宿っていく。その怒りに満ちた両目が魁斗を捉える。
「なに……邪魔するの……?」
狂気に満ち溢れたような、そんな陰った目で、睨みつけられる。
だけど、魁斗の意見も変わらない。
「邪魔に、なるんだろうな……でも……」
魁斗は累の肩に手を伸ばして、そっと触れようとした。
――パシンッ
その瞬間に、乾いた音が鳴る。
累に振り払われるように、思いっきり手を叩かれていた。
あまりに一瞬の動きであったため、魁斗は宙を彷徨った手を呆然と眺める。
「触らないで」
前髪の隙間から、見たこともないぐらい傷ついた目でこちらを睨みつけているのに気がついた。
累の目が自分を敵だと認識している。だけど……。
「累……おれは……」
もう一度、手を伸ばす。だが、
――パシンッ
その手は届かない。
累は魁斗の続く言葉を遮るように喋る。
「止めるなら止めてみなさいよ。わたしは坂井優弥のように甘くはないわ。あんたを叩きのめしてでも自分の復讐をやり遂げてみせる」
わたしは絶対に止まらない。
そんな燃え上がる復讐の炎を灯した顔がこちらに向けられる。
一瞬の間が生まれる。
だけど、その間に魁斗も顔を引き締めていく。
拳を握りしめて、力強く一歩踏みだす。
真っすぐに累の目を見た。
微妙すぎる不穏な空気を漂わせる魁斗と累は、お互いの顔を見合って、まなじりを強めていく。
そして、魁斗は言い切った。
「わかった。じゃあ、絶対止めてみせるよ――」




