第七章 綺麗な花には棘がある ⑦
校門をくぐり抜けると、いつも累が背中を預けている壁の前で風花が立っている。当然だが、累はすでに帰ったみたいだ。
「ごめん、お待たせ」
声をかけておきながら固まる魁斗の顔に、風花の視線が向く。
「ううん、ぜんぜん」
振り向いた風花の見せてくれた表情はとても柔らいでいた。
「……」
なぜだろう。どうしても風花が輝いて見えてしまう。
決心したのに、揺らいでいる。
歯を思いっきり食いしばる。風花に向かいそうな気持ちを必死に堪えた。
謝罪……まず、謝罪しなければ……そして、告白の返事を。
魁斗は息を吸う。すると、
「あたしはさ……べつに昨日のことは気にしてないよ。むしろ良かったとさえ思ってる」
口を開く前に風花が話し始めた。
「魁斗くんは……違うの、かな?」
じっと上目遣いで見つめられる。
喉の奥で言葉が詰まった。
視線を外さず、風花は質問を重ねていく。
「魁斗くんは、あたしのこと……嫌い?」
「嫌いなわけ……」
言葉を続けようとするが声が出なくなる。目を逸らそうかと迷ったが、それもできず。風花の顔を見つめ返すことしかできない。
薔薇のような香り、綺麗な瞳、鼻の形がいい、柔らかそうな唇……。
改めて見るとやはり綺麗で、可愛いなと思う。
途端に顔が火照ってくる。
頭の中は靄がかかり、ブレインフォグが生じた。
「魁斗くん……あたしと付き合ってよ」
恥ずかしそうに頬を赤く染めて、風花が、改めて告白をしてくれた。
「え……」
また言葉に詰まる。
答えはとっくに決めてある。
なのになぜ、思考は迷おうとする?
頭ではわかっているのに動けないのはなぜだ?
黙る魁斗に、風花が不安げな表情で見上げてきた。
その黒目がちの瞳が深く光るのを間近で見て、魁斗は体全身を握りしめられたような心地になる。さらに無防備に風花は顔も体も近づけてくる。魁斗の制服の上に着ているスクールコート、その肘辺りの袖をぎゅっと掴んでくる。風花が作り出す引力によって、身も心も寄せていってしまいそうだった。脳が、体が、狂喜乱舞している。
おれは……。
左胸に手を置いた。
「ご、ごめん!」
ようやく声を絞り出した。
震えそうになる足を踏ん張る。必死に声を絞り出して軋む喉の奥。過呼吸になりそうだが、もう一度息を吸って、
「ごめん。風花ちゃんとは付き合えない」
言い切った。カタカタと面白いほど手が震えている。その手から一気に力が失われていくのがわかった。指が解け、目線が足もとに落ちる。痛々しいほど細かく唇までもが震えている。
――だけど、
「ほんとに、ごめん……」
言葉を続けた。
脳が痛む。頭がかち割れそうだ。
脳は、その結論を否定するかのように熱く腫れながら脳内信号を告げてきた。その決断は間違いであると何度も何度も否定してくる。
そんなはずはない、と魁斗は精神を揺さぶってくる脳を振り払うように首を横に振った。
「……わぁ……すっごい」
「え?」
風花が小声で囁いたのだが、意味がわからなかった。目線を上げれば、風花は感動したように微笑みを湛えていた。しかし、なんでもないと言うように首を振る。
「うん……わかったよ」
告白の返事を受け止めたかのように風花は真っ白な息を空へと飛ばした。
風花の表情は、いたく落胆し、失望して、傷ついているように見えた。しかし、慰めることはできない。断ったのは自分だ。そんな自分が相手を慰めることなどできるはずがない。
雪は儚げに空を舞っていた。
地上にはシャーベットのように薄く淡い氷層が作られ始めている。
魁斗は答えを口にしたことで、乱れた呼吸と動悸を抑えるために、深い呼吸を繰り返す。ようやく、少しだけ呼吸と気分が落ち着いてくる。
そして、しばらく黙ったまま空を眺める風花に声をかけた。
「あの、風花ちゃん……大丈夫?」
「……大丈夫に見える?」
「いや……」
「そう、傷心中」
答える風花は眼差しを笑みに緩めてみせる。落ちてきた雪が風花の前髪につくと、それを唇を細めてふっと払う。
「ほんとに、その……いろいろと…」
「謝らないでいいって言ったじゃん」
「う、うん。でも……」
「もういいの」
再び、風花はしばらく黙り込んだ。なにかを考え込むみたいに眉を寄せ、唇に手を当てている。
先程よりもたくさんの雪が降り始めた。吹雪とまではいかないが、今晩あたりは特に冷え込みそうな勢いだ。
寒さに震えそうになる。
このままじゃ風花ちゃんも風邪をひく。おれはそろそろ立ち去った方がいいだろう……。
「じゃ、じゃあ……」
別れの挨拶を述べると魁斗は風花の横を通り過ぎて行こうとする。
かなり傷つけてしまった……。自分のこれまでの行いに後悔が圧し掛かる。たぶんこれは、しばらく晴れることはないだろう。
ちょうど風花の脇を通過して二歩目を踏み出したところだった。
「ちょっと待って!」
思いっきりスクールバックを引っ張られる。首にショルダーストラップが食い込んで、思わず「ぐえっ」と喘ぎながら振り返ると、風花が寂しげな表情で言ってくる。
「ごめん……でも、これで終わりはあまりにも寂しすぎるからさ……。最期くらい、駅まで送ってよ」
※※※
色んな意味で死にそうだった……。
駅に送っていく途中、街の大通りはクリスマスのためにカップルやら夫婦やら家族連れやらが大量に行き交っていた。風花は努めて明るい表情で話しかけてくるが、その光景を見ると顔を曇らせ、「振られた直後だから幸せそうなカップルとか見るのは辛い」と言い出した。駅まで遠回りなのだが、風花を傷つけてしまった手前、言うことを聞かないわけにもいかず、大通りは避けて、人気の少ない裏通りを歩く。徐々に降る雪の勢いは増してきて、軒先には真っ白な雪帽子が降り積もってきている。それでも、駅まで送るまでは付き合ってあげようと思ったのだ。
――しかし現在、歩いている通りが怪しすぎる。
魁斗の目に映るのはピンクの看板が目立つラブホ街。自然と目は派手やかな看板の方へ向いていく。
「ねぇねぇ寒いからさ、ちょっと休憩でもしていかない?」
露骨に風花が誘ってくる。
いや、なに言ってんの、この子……。
ちょいちょい、と風花の白い指がスクールコートの袖を引っ張る。上目遣いで大きな瞳を潤ませながらすり寄る速度は一瞬、あっという間に腕を取られて、身体をぴったりとくっつけてくる。
「……ねーえ?」
チェリー色のグラスが光る艶めかしい唇をふっくらと開いて、風花は小首を傾げてみせる。見つめてくる瞳には己のアホな顔が映り込んでいた。見れば、目が回っている。吸い込まれるように体が反応。
このままホテルに連れて行こうと、うるうる瞳を潤ませて誘い込むみたいに風花の瞳が揺らぐ。
いとも簡単に魁斗は、くらっと景色ごと理性が揺らぎ、
「よ、よぉし、そこの……いや、よしじゃない! よしじゃない!」
すんでのところで理性を呼び起こす。思わず、言われるがままついていきそうになっていた。
いくら駅に着くまでは言うことを聞いてあげようと思っても、これはダメだ。
魁斗は掴まれた腕を振り払おうとバタバタと腕を動かすも、風花も負けじと、グイッと腕を無理やりに絡め取る。ぶら下がるみたいに掴まって、ぴったり身体をくっつけてきて、柔らかい乳房を押し付けてくる。
「うひゃぁぇっ! ちょ、ちょっ!」
ふわっ、と鼻先に香るのは、甘い花の蜜の匂い。
そそられそうになり、くらくらとする。
風花の白い顔が魁斗の首筋あたりに密着。今さら逃れようとしても、風花の腕はがっちりと魁斗の肘と手首をロックしている。恋人同士みたいに二人はぴったり寄り添う形になり、
「休憩……行く?」
押し殺したような声で囁きかけられる。露骨だ。露骨すぎる。でも、十分に堪えた。
脳内は暴発寸前。理性と、そして男の本能が戦いまくっている。
だが、負けるわけにはいかない。
理性を手放したら、またなにか大事なモノが失われる気がする。
魁斗は歯を食いしばり、目を充血させながら、ついには血の涙を流した。歯の隙間から言葉を捻り出す。
「い、い゛がないっ!」
その言葉を聞いた風花は目を丸くして、「ワァーオ……」と、外国人みたいなリアクションを取った。ゆっくり目を細めると、
「ほんと強情だなぁ……ざーんねん」
唇を緩ませる。
くら、と揺らめく頭を右手で支える。
今にも理性が吹っ飛び、卒倒しそうだった。精神にだいぶ負荷がかかっている。
「風花ちゃん! も、もう、ここを抜け出そう! 駅へ、とにかく駅へ! 早くっ! 早く向かおう!」
自分の理性が保たれている間に、風花を送って、おさらばしたかった。
風花は笑顔を浮かばせながら、先導するように先ゆく道を指差す。
「わかったわかった。そんな寂しぃこと言わないでよ。ほらこっち。こっちから行こ」




