第三章 そして、はじまりを迎える ③
朝、五時半。
目覚ましを鳴らさなくても自然に目が覚めるようになった。
あの日から皆継家に住むようになり、早起きをする習慣やこの家から学校まで距離が離れているため、この時間に起きることが当たり前になっていた。
本日より学校が再開。
高校二年生の夏休みは昨日で終わり。ほぼ修行に明け暮れて幕を閉じた。
魁斗が寝ている部屋は屋敷の一室の和室。押し入れの布団を敷いて寝させてもらっている。魁斗は布団から体を起き上がらせると、寝て硬くなった体をほぐして、丁寧に布団を畳んでいく。畳んだら布団を持ち上げて押し入れにしまい、自分の部屋をあとにする。
皆継の家は大きな平屋であるために自室を出たら、以前のように階段を下りる必要はない。この時間帯に皆継家の家族も起きてくるため、魁斗はすでに集まっているであろう食卓へと足を運んだ。
長い廊下を歩きながら一年前のことを思い出す。
いつも朝は母さんが大きな声でおれを呼んでくれていた。
少しすると累が玄関のチャイムを鳴らして。それで、ようやく自分も起きてたんだよな……。
今は少しだけ懐かしい感覚がした。
そう思えるのは、この家に来て自分が前に進んでいると感じているからだろうか。
廊下を歩き進めると毎朝、皆継家の家族が集まってごはんを食べている食卓に辿り着く。すでに左喩たちは来ており、部屋を見渡すと左喩の母――智子――と弟の――右攻――が座っていた。
左喩は魁斗に気がつくと笑顔を見せ、
「おはようございます。魁斗さん」
挨拶をしてくれた。
「おはようございます。左喩さん」
魁斗も笑顔で挨拶を返す。
左喩の母親、智子も魁斗に気がつくと手を振って挨拶をしてくれる。
「おはよう、魁斗くん」
「おはようございます。智子さん」
もちろん笑顔で返す。
最後は左喩の弟、右攻が生意気な面で魁斗に振り返る。
「よお。あいかわらず、しけた面してんな。魁斗」
「……おはよう、右攻」
お望み通り、しけた面で返してやった。
朝からいきなりのご挨拶だ。
相変わらず生意気だな、と脳内で思い浮かんでいるが、言葉に出すのはグッと堪える。
こいつ……顔は左喩さんに似て美形なんだよな。顔だけは。だけど、左喩さんのような慈愛に満ちた綺麗な心がないんだ、こいつには。
「こら、右攻。口が悪いですよ。いつからそんな汚い言葉遣いになったんですか!?」
すかさず姉の左喩が弟に注意を促す。それに対し、魁斗が遠い目をして答える。
「……修行の時に、おれが右攻に負けてからですよ」
当時の記憶を振り返る。
一年前。
魁斗が初めて右攻と顔を合わせた時は、それはもう可愛く出迎えてくれた。そう、最初だけは……。
右攻は小学六年生の十二歳。最初こそ、「魁斗お兄ちゃん!」と呼ばれ、左喩に負けないくらいの透き通ったキラキラした目を自分に向けてくれて、本当の弟が出来たみたいで嬉しかった。それが稽古で組み手をした時、盛大に右攻に惨敗。それからはキラキラと輝かせていた綺麗な瞳が、まるであまりかまっていないペットを見るような目に変わってしまった。気がついたときには呼び捨てにされていた。
そして、現在。
一年は長いようで短い。右攻は中学一年生になり、もしかしたら思春期も相まっているのかもしれないが、完全に右攻の中で魁斗の序列は最下位。
こいつの中でおれへの扱いはペット以下だ。皆継家でペットは飼っていないけど……絶対にいつか覆してやる。
と、密かに心を燃やしている。
覚えとけよ、右攻……。
炎を灯した目を右攻へ向ける。
智子も左喩と同じように我が子に注意を促す。
「そうよ。いくら魁斗くんがあなたより弱くても、歳は魁斗くんの方が上。年上は人生の先輩なのよ。たとえ弱くても敬意を払いなさい」
そうだ、そうだ、と思ったのは一瞬。
あれ? 弱いって言われてるな……。
グサリと智子が放った言葉がナイフのように胸を貫く。魁斗は複雑な気分になって目線を落としてしまう。
「こいつのどこに敬意を払う必要があるの? 母さん」
目線を落としたのもつかの間、鬼の形相で顔を上げ、隣に座っている右攻の綺麗な横顔を睨みつける。
このガキャ、いつか絶対泣かしたる。
「右攻。魁斗さんはまだ確かにあなたより弱いですけど、素晴らしいものを持っています。力だけがその人の価値を形作るのではないのですよ」
「……まあ、姉さんがそういうなら」
このガキャ、姉ちゃんの言うことはちゃんと聞きやがる。シスコンだろ、お前。バレてるぞ。中学校で言いふらしてやる。
あと弱いっていうのをやめてほしい。傷つくから……。
若干、朝から傷心ぎみになる。
朝食後に見たテレビと新聞の運勢占いでは十二位の最下位だった。ラッキーカラーはまつざきしげるいろ。あまりに珍しい色で想像がつかない。
なんだ? まつざきしげるいろって……?
魁斗はラッキーカラーを持ち運ぶことをあきらめざるを得ない。
これからはじまる今日一日に一抹の不安を感じつつ、皆継家でいつもの朝を迎えた。
※※※
時刻は七時半。
学校の朝のホームルームが始まるのは八時三十分。
家を出て学校までは歩いておよそ一時間かかる。ゆっくり歩けばの話だが。
魁斗は学校に行く支度をちょうど終えた。部屋と廊下は襖で仕切られており、襖の向こう側から左喩の声が聞こえてくる。
「魁斗さーん。準備できましたかー?」
「できましたー」
襖を開けると左喩が両手を前にスクールバックを持って、おしとやかに襖の前で待っていた。
魁斗とは色が違うネクタイと校章は一年先輩の証。
メリハリのあるスタイル抜群の身体が制服で包みこまれている。ブレザー越しでも、はっきりとわかる胸部の丸みを帯びたライン。校内の誰もが左喩を目撃してしまうと一瞬で見惚れて立ち止まってしまうほどの美しさ。だが、残念なのはスカート丈の長さ。左喩はスカートを短くしておらず、綺麗な膝小僧が丁度隠れるくらいの長さだ。しっかりと校則に則っているため、太もものチラリズムが楽しめないのだ。
そんなとんまな感想を頭の中で思い浮かべていると「どうかしました?」と魁斗の脳内を知らぬ左喩が小首をかしげて尋ねてくる。
「いえ、なんでもありません。行きましょう!」
魁斗はあらぬ妄想と見惚れていたことを隠すように、さっさと家を出た。
※※※
魁斗と左喩は山を下るところまでは一緒に並んで歩く。だが、山を降りたあとは学校まで用心をとって別々に歩いて登校するようにしていた。その理由は主に魁斗にあった。
いつものように左喩から離れようとする前に、左喩に呼び止められた。
「待ってください。魁斗さん」
魁斗の胸元を見て指を差す。
「ネクタイ歪んでます」
そういうと近づいてきて歪んだネクタイを整えようと手を伸ばしてくる。おのずと顔と顔の距離が近くなり、魁斗は思わずドキリと心臓の鼓動が高まる。高まった鼓動の音を必死に抑え込みながら、目線をネクタイの歪みを直してくれる透き通った手に向ける。しゅるしゅるとネクタイが整えられ、
「はい。いいですよ」
整い終えた左喩は笑顔を浮かべながら持っていたネクタイから手を離す。顔と顔の距離も離れていく。
「あ、ありがとうございます……」
ドキドキしながら、魁斗はお礼を伝えた。
「……今日も別なんですか?」
左喩が少し寂しそうに呟く。瞳を揺らし、唇をぎゅっとつぐむ。それでも、魁斗は一貫した態度で答えた。
「だって、おれと左喩さんが一緒に登下校したら全生徒がびっくりしてひっくり返りますよ。特に男子たちは……。左喩さんだって噂をたてられたり、何言われるかわかんないですよ」
魁斗はその都度、何度も言った説明をする。
「わたしは別にかまいませんよ」
何も問題ないとばかり、口角をあげながら、けろっと返事が返ってくる。
「おれがかまうんです! 面倒事は避けるべきだとおれは思います。それに……学校中の男子全員を敵に回したくないのでっ!」
持論を唱える魁斗に、そんな大げさな……、と左喩は言おうとした。が、その言葉の前に、「すいません!」とだけ言い残し、左喩に背を向けて先にダッシュしていく。
離れていった魁斗の背中を見送りながら、左喩はひとりため息をつく。
「別にいいじゃないですか……」
囁き、魁斗が見えなくなったところで、左喩もゆっくり歩きだした。
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