第三章 そして、はじまりを迎える ②
今日で高校二年生の夏休みが終わる。
振り返ってみると、どこかに遊びに行くこともなく、夏のイベントにも参加していない。すべての時間を修行や仕事の依頼に明け暮れていた。青春らしい青春など高校生になってまだ一度も経験していない。あの事件が起こる前は高校生というものは恋に友情、青い春というのを連想していたが現実は程遠く、思っていた以上にかけ離れた日常へと化してしまった。おそらくはこれが自分の運命だったのだろう、と魁斗は半分あきらめるようにぼんやりと思う。
皆継家の敷地内にある道場。そこで汗を流す。
ここでは対人戦闘、対武器、対大人数などあらゆる格闘技術を施されてきた。身体づくりから、人体の構造、呼吸の仕方など、習えるものは何でも教わった。
修業は非常に厳しい、という言葉も甘いものだった。
それこそ累が言ったように『……ほんとに死ぬぐらい辛いよ』という言葉が一番納得できて、当てはまるものだった。
修行では何度も何度も血反吐を吐き、身体の中の体液が無くなるくらいまで吐き続けることもあった。関節を外されることは日常茶飯事。その都度、無理やりつなぎ合わされ、修行を再開する。骨折をすることもあり、完全に常軌を逸していたが、やめるという選択肢はなかった。
どうしても、強くなりたかった。
どうしても、自分を変える必要があった。
どうしても、目的を叶えるには力が必要だった。
だから、この一年努力を重ねた。修行を怠ることはしなかった。
ようやく様になってきた、と思っていたが――
左喩に投げ飛ばされる。
他の門下生には殴られ、蹴られ、関節を外される。
激痛に声をあげるが、すぐに関節の位置を徒手で元に戻される。戻される時も激痛が走り、思わず声をあげてしまう。魁斗はボロボロの状態で道場の床に倒れ伏した。
その間、門下生、総勢二十数名は並んで正座をして、向かい合っている師範代の左喩から稽古終了の言葉を待っている。
魁斗は何とか自力で体を動かし、床を張って移動。立ち上がる気力すら残っていない。どうにか正座して、倒れそうになる体を堪えながら姿勢を保った。
「はい。今日の稽古は終わりです。ありがとうございました」
左喩は綺麗な正座の姿勢から綺麗なお辞儀を展開。あいかわらず美しい所作。見惚れながらも、自分も礼をするために、ふらつく体を動かしていく。床に手をついて、そのまま前方に倒れそうになる頭をどうにか制御しながら下げる。
「ありがとうございました」
門下生一同が礼の言葉を言う。一歩遅れて魁斗も続く。
「……ありがとう、ございました」
左喩は今にも倒れそうな魁斗が踏ん張りながら礼を言うのをクスッと口元を隠しながら微笑み、
「はい。ありがとうございました、魁斗さん」
自分に向けて言葉をかけてくれた。
門下生一同が道場を立ち去ると魁斗は倒れないように踏ん張っていた体に限界がきてゴロンと床に寝ころんで大の字になる。高い天井から降り注ぐ蛍光灯の光を浴びながら、呼吸を整える。全身が痛む。体力をほぼ使い切り、しばらくは起き上がれそうにない。
そうしていると、ひょこっと左喩の顔がこちらをのぞき込んできた。
「お疲れさまでした、魁斗さん。だいぶ様になってきましたよ」
そう言ってにっこりとした微笑みを向けてくれる。
「……ほんとですか? 自分もそう思いたかったんですけど、打ち砕かれた気分なんですが……」
「いいえ、よく頑張っていますよ。ちょっと待っててください。冷たいタオル持ってきますから」
タッタッタと駆けて、道場を出ていく。
自分のために、水で濡らした冷たいタオルを用意してくれるみたいだ。
いつも優しいな、左喩さんは……。
身体を脱力させ、目を閉じて、しばらく道場内は静かな時間が流れる。
窓からこぼれ日が差し込んできて顔を照らす。風も称えているかのように柔らかく身体を包み込んでくれた。
自分は本当に強くなっているのだろうか?
もしかしたら、あまり成長できていないのかもしれない。
そんな不安を脳内で思い浮かべていると、冷たいタオルの感触が額にピトッとおりてきた。いつのまにか左喩が戻ってきたようで、傍らに両膝をついて、タオルでそっと魁斗の顔を優しく拭いてくれた。情けないと思いながらも、左喩の優しい手つきに思わず身を預けてしまう。
拭き終わると額の上に冷たいタオルを置いてくれた。
目を開ける。
すると、左喩と目が合い優しい微笑みを浮かべてくれた。
「ありがとうございます。だいぶ回復しました」
体を起こせるくらいの体力が戻ってきた。額に乗せた冷たいタオルを手に取り、体を起こす。
「はぁ~冷たくて気持ちいい……」
魁斗は再びおでこの上にタオルを乗せて、そう言い放つと左喩が口元を隠しながらクスッと笑う。
「銭湯のおじさんみたいですよ」
まだクスクスと笑いが止まらない様子。なんだか、嬉しい気持ちになってきた。
「はぁ~湯舟につかりたい」
今度はツボに入ったのか、口元を隠しながら、けらけらと笑い出す左喩。
魁斗は調子に乗って、
「よーし、今から一緒にお風呂でも入りますかっ?」
冗談を言うと、
「セクハラです」
真顔になってしまった。
歩けるぐらいの体力が戻り、ようやく道場から移動を開始する。
皆継家に来て約一年。
魁斗は慣れたように道場にお辞儀をしてから、御屋敷へ向かう。
座敷に着くと、座卓の前に敷いてある座布団に腰を降ろす。一緒に戻った左喩は「お茶入れてきますね」と言って一旦部屋を離れていった。疲れ一つ見せない左喩に心から尊敬の念を覚える。
凄いな、左喩さんは。
これが自分と左喩さんとの差か……。
決して埋まりそうにない距離にへこみそうになりながらも、比べるのもまた違うか、と自分を納得させる。
お盆にお茶とお茶請けを用意して左喩が戻ってきた。お茶の入った湯呑を魁斗に手渡すと隣に座る。魁斗はお礼を言うとお茶を口に含んだ。隣を横目に見ると、左喩も同じようにお茶を飲み、ほふ~とまるで小動物のように息を吐いていた。
なんでこんなに見た目が可愛くてやわらかい雰囲気の持ち主なのにあんなに強いんだろう……。
思いながら眺めていると左喩もこちらに振り返り、目が合う。すると、左喩はなにかを思いついたように、ごそごそと行動を開始。タッパーの蓋をぱかっと開け、魁斗に中身を見せる。
「お茶請けに茄子を漬けてみたんですけどいかがですか?」
魁斗はタッパーの中を覗いた。美味しそうな茄子の漬物がずらりと綺麗に並び、思わず唾液が出そうになる。
「それじゃ、おひとつ」
指で茄子をつまんで、口に入れる。
ポリポリポリポリ。
絶妙な塩味、噛めば噛むほど味が出る。そして気持ちがいい食感。間違いなく美味しい。
「どうですか?」
左喩は感想を聞きたそうに小首をかしげながら尋ねる。
「うん。美味しいです」
「よかった」
感想を聞いた左喩は胸を撫でおろして、やわらかく微笑む。
「間違いなく、良いお嫁さんになりますね。おれが保障します」
魁斗はキリッとした表情を作った。
「あら、そんな……」
左喩は両手で両頬を押さえ、照れて見せる。
うーん……とても可愛い。
「左喩さんは何でもできますね。おれなんか、全然何も……成長だってしてない……」
ふと劣等感に苛まれ、視線を落とす。
「わたしだって何でもはできませんよ。でも、ありがとうございます。魁斗さんだってすごい成長してますよ」
「……ほんと?」
「はい。わたしが保障します」
にっこり笑って、真っすぐに言葉を伝えてくれる。
魁斗は褒めてもらえて思わず顔が緩んでいく。
累は褒めてくれないし……。
「それこそ異常なまでの成長速度です」
「ほっ、ほんとですかぁ」
ニヤッとした顔になってしまう。顔の筋肉がふにゃふにゃ緩んでいくのがわかった。
「間違いありません。魁斗さんはすごいです!」
顔の筋肉が緩みに緩んで、ニヤニヤした顔から戻れなくなってきた。
「でもぉ~、累が『あんたはまだこの世界じゃ下の下。最下層、最弱!』って言うんですよぉ~」
「あっ、それは事実です」
「……」
大空に翼を広げて飛び立っていた気分だったのに、一気に地面に叩き落された、そんな感じがした。
ポリポリポリポリ。
茄子の漬物をおかわりしながら魁斗は左喩と、たわいのない会話を続けていた。
「明日から学校ですね。魁斗さんは宿題終わりましたか?」
「この前、左喩さんが宿題見てくれたんで全部終わってますよ」
「あら、そうですか。それならよかった」
「左喩さんは? もう終わってるんですか?」
「ええ。わたしはだいたい夏休みに入ったら前半で済ませちゃいます」
「ほぉ……さすがですね」
うーん、根本的に頭の作りが違うな。おれはこれまでの夏休みの宿題はほぼほぼ最終日まで溜め込んでしまい、ギリギリになってようやく取り掛かる。最終日の自分はそれまでの夏休み中の自分の行動を呪い、泣きそうになりながらやることが多かった。累に頼み込みんで、小言を言われながら宿題を手伝ってもらっていたな……。
二人はお茶をズズッと飲む。
「……」
突然なぜか、微妙な空気が流れる。横目で見ると左喩が不安そうな面持ちになっていた。
あれ、どうかしたのか?
不思議に思っていると、左喩は意を決した表情で魁斗に唐突に尋ねてくる。
「魁斗さんは……後悔はしてないですか?」
「え、後悔? ……何を?」
宿題はすでに終わっている。この夏休みもやるべきことをやった。後悔することなんてあっただろうか?
「この家に……この世界に来たことです」
複雑そうな表情で左喩は問う。
聞いてしばらく魁斗は黙った。
予想外の質問。だが、真剣に考えてみようと思い、この一年を振り返った。
修行は辛かった。辛かったのだが、嫌ではない。自分が生き残るためだ。この世界に足を突っ込んだことも後悔はしていない。果たしたい目的を成すためだ。そして、この家に来たこと……。答えはすぐに浮かんでいた。これは、決して間違いではないと。
「おれはこの家に来たことも、裏の世界に入ったことも後悔してないですよ。うまく言葉に出来ないんですけど……。自分は今、少しずつでも前に進んでいる感じはするし、この家の家族も、門下生のみんなも、左喩さんも、みんないい人だし……大好きだ」
返ってきた言葉に左喩は少しだけ、口を開けてきょとんとした顔になる。
魁斗は続けて伝えた。
「だから、この家に来てよかった。……ありがとう、左喩さん」
そう言って魁斗は、ニカッと笑う。
呆気にとられたように左喩の顔が固まる。
「……なるほど……こういうところを累さんは……」
左喩は顔を伏せ、魁斗に聞こえない声で呟く。気づけば、ほんのりと耳のあたりが紅潮している。しばらくして顔を上げると、
「魁斗さんのそういう素直で淀みのないところ……わたし好きです」
突然の美人からの『好き』返し。今度は、魁斗が呆気にとられた顔になる。
「……はい?」
一呼吸おいてボンッと、まるで顔から湯気が飛び出す勢いで魁斗の顔全体が赤みを帯びる。
「へっ? はぃっ? えっ、なんでっ!? すっ、すきぃ!?」
うろたえる魁斗に笑顔を見せながら、左喩がその場から立ち上がる。
「それでは、わたし晩御飯の手伝いに行ってきますね。茄子食べ過ぎないように」
「は、はい……」
心あらずな返事をして、ぽけーっと去っていく左喩の後ろ姿を見送る。
姿が見えなくなって、はぁーと大きく息をついた。
そして、腕を組んで、思う。
う~ん、美人と暮らすと心臓に悪い……。