第七章 綺麗な月とともに ④
「くっしゅんっ!」
あーあー、と魁斗は箱ティッシュから何枚かティッシュを取ってやり、それを累に渡すとチーンと鼻をかむ音が六畳一間に響いた。
「ったく……やっぱ風邪ひいてんじゃねぇか」
授業中に倒れた累は、その時に授業を受け持っていた先生が急いで保健室に連れていって、養護教諭に見てもらった。体温を測ったら三十八度を超えていたようで、そのまま病院に連れていかれ、診察を受けたら風邪による熱だと判断されたみたいだった。温かくして、水分をしっかりとって、よく寝なさいと言われ、累は自宅に帰ることに。担任に車で家まで送ってもらったようなのだが、累はひとり暮らし。誰か見てもらえる人が居るのかと問われ、自信満々に「居ます。大丈夫です!」と答えたらしい。そういうことで担任は帰ったみたいだ。入れ替わりのようなタイミングで自分は今ここに居るんだが……。
「くっしょいっ!」
盛大に飛沫をまき散らしている。
ったく、うつったらどうするんだ……そう言ってごちると、きっと「あんたはバカだから大丈夫よ」なんて言うんだろ。わかってんだ、こっちは。
「あーあーもう、ティッシュを使いなさい、ティッシュを」
もう一度、箱ティッシュから何枚か抜き取ってやり、それを渡す。チーンと再び鼻をかむ音が六畳一間に響く。もう渡すのが面倒だから、累が寝ている枕元のすぐ横に箱ティッシュを置いてやる。
ズビッと鼻を鳴らしながら累が毛布にくるまる。続けて、ズッ、ズッ、と鼻をすする音が聞こえてくる。
なんか案の定、風邪をひいたな……。
魁斗は思わず苦笑い。
あんなに頑張って一晩中ドライヤーで乾かしてやったのに。その後も、雨に打たれながら戦って、しまいにはこんな寒い中、海にまで入ったなんて言うから驚いた。
風邪をひくのも当然だろう。
「ただの風邪だから、もういいよ、魁……ふぁ……」
ふぁっくしゅんっ! と、続けてくしゃみをぶちまける。
今度は自分で箱ティッシュから二、三枚ティッシュを引き抜くと、チーンと鼻をかんだ。
すると累が突然、ハッ! とした顔を浮かべる。
そういえば、わたしすごい汗かいた……と、横になっていた体勢から上体を起こして、「汗臭いかな?」なんて呟きながら、自分の起毛素材のパジャマの襟ぐりを伸ばして服の中の匂いを嗅ぐ。
おい、そんなに広げると服の中が見えるぞ。
しかし、累はお構いなく、くんくんと匂いを嗅いでいる。
だが、「は、鼻が詰まって匂えない……」なんて、あほなことをぬかしている。
なにしてんだこいつは……。
「今さらそんなこと気にすんなよ。匂いなんて」
「……気にするわよ」
小さく囁き、布団をぎゅっと握り込む。
「もういいから帰ってもいいよ。わたしなら大丈夫だから……」
言いながら、累の声音が少し寂しそうに聞こえるのは自分の気のせいだろうか?
「……こんな時ぐらい甘えろよ。お兄ちゃん、苦しいよーってさ」
「お兄ちゃん、くるし……」
「ほんとにやらなくていいからっ!」
ツッコむと累がにっこり笑う。風邪で弱々しいが久しぶりに満面の笑顔を向けられて、心の中では嬉しくて温かい気持ちになっている。が、そんな気持ちを悟られるのが恥ずかしくて、頭を掻きながら布団を指差して寝るように促す。
「なんで起きてんだよ、寝てろって」
「横になると鼻が詰まって息ができなくなるの」
「口呼吸しろっ!」
言うと累はそのまま、ばふっと倒れて、毛布を引っぱり上げて顔を隠す。
累が布団に潜り込んだのを見て魁斗は、そのまま休んでろ! と言い放ちキッチンに向かった。
累のアパートに来る前にスーパーで買った卵とねぎ、おろし生姜チューブと鶏ガラ顆粒と和風だしの素をレジ袋から取り出す。
慣れた手つきで米を研ぎ、炊飯器の早炊きのスイッチを押す。
さあて、やるか。と、まな板と包丁を出し、ガスコンロには小鍋を用意。
トントントントンとねぎを刻むと小鍋に水と鶏ガラ顆粒、和風だしの素、少しばかりの醤油におろし生姜をたっぷり入れて煮立てる。
毛布にくるまっている累がチラッとこちらに目線を向けているのが背中越しにわかった。
だから寝てろって……。
魁斗が言おうと顔を振り返ると、目を瞑り寝たふりをする。
子どもか、こいつは……。
ご飯が炊き終わるまで待って、炊きあがったご飯を小鍋に入れてほぐし、さらに煮立てる。ご飯が柔らかくなったら、溶いた卵を回し入れながら注いで、弱火でぐつぐつと煮込む。卵がふわっと火が通ったら火を止めて器に盛りつけた。ねぎを上に散らして『生姜でポカポカ、卵雑炊』が完成する。匂いを嗅ぐと出汁と生姜の香りがいい感じ。魁斗は軽くスプーンで味見する。
うむ、鶏ガラと和風だしが相まって非常に美味しい。それに、たっぷりの生姜が風邪ひきさんにはぴったりだな。
自画自賛を一通り終えると、
「ほいよ、風邪ひきさん。ご飯できたぞ」
魁斗は毛布にくるまっている累の傍まで近づく。
累は毛布から顔を出してこっちを見ると、ゆっくり体を起こした。
体を起こしたと見て魁斗は累に『生姜でポカポカ、卵雑炊』を渡そうと器とスプーンを累に向けて差し出した。だが、受け取ってくれない。
「……」
「いや、ほら、食べろよ……」
魁斗がそう言っても、じーっと見つめられる。
「えっ……食べないの? 食欲ない?」
累がふるふると首を横に振る。
「じゃあ、食べなさいって」
そう言うと、累はこちらに向けてちょこんと口を開放した。
「……」
しばらくその様子を見つめる。
累は開けた口を閉じない。
「……なにしてる?」
「待ってるの……」
「いや、食べろよ自分で」
「甘えてもいいんでしょ? お兄ちゃん」
自分の言葉がこんな形で帰ってくるとは思わなかった。
そっと目を閉じて、ひたすら口に食べ物がくるのを待っている雛のようだ。
……そして、なんで目を閉じているんだ?
その小さな唇はぷっくりと柔らかそうで、みずみずしく潤っている。
魁斗は一度、ゴクリッと唾を飲み込むと、しょうがなしに傍らに胡坐を組んで座り、スプーンに一口乗っける。目を瞑ってちょこんと開けられている累の口元まで運んでいくと、はむっと咥えて、モグモグと咀嚼。ゴクンッと嚥下すると、ようやく目を開けた。心なしか、自分の心拍数が少しだけ上昇している。
そういえば、この前も誰かさんにあーんをしてあげたような……。
記憶を思い返していると、
「美味しい」
口元を押さえ累が感想を伝えてくる。
「うまいだろ?」
「うん」
嬉しそうにまた口を開け、魁斗はしょうがなく、もう一度『生姜でポカポカ、卵雑炊』を口元まで運んだ。
結局、最後までそれは続き、完食するまで食べさせることになった。
累が食べ終えて、シンクで食器を片付けながら、のどは痛くないかとか、食べ終わったんだから薬を飲みなさいとか、熱があんだから無理してお風呂に入んなよとか、汗をかいたなら着替えろよとか言ってたら「うるさい」と、一言申され、心傷つく。
お前のためを思って言ってるのに……と、ちょっと悲しくなりながらも、水道の蛇口を止めて、片づけを終える。
そろそろ本気で寝た方がいいだろう、と累の傍らに腰を下ろして伝えようとすると、
「ねぇ、魁斗……」
ぎゅっと毛布を口元まで引き上げて、どこか赤らめいた顔でこちらを見つめてくる。
その潤んだような瞳に、思わず左胸が飛び跳ねそうになったが、動揺をしていることを取り繕うように、
「……なに?」
と、冷静な顔で聞いてみる。
風邪で弱々しくなっているせいか、どこかしおらしい。目がとろんと潤んだままで見つめられているため、なんか自然と体が身じろぎしてしまう。
もしかして今、おれはこいつにたぶらかされているのか……? 淡い呪いにでもかけられそうになっているのだろうか。
なんてことを、ほんの少しだけ疑ってしまう。
そんな色欲のメガネで見ると、いつもよりも紅く感じるその唇。触れると柔らかそうで色っぽく見えてしまう、その唇を累が動かしていく。
「寝て、起きるまで……どこかに触れてて」
ぽやーっとした潤んだ瞳でそんなことを言ってくる。
なにを言ってるんだ、こいつは……もしかして熱のせいか?
「……風邪、苦しいのか?」
魁斗は手のひらを累のおでこに乗っける。
ほどほどにはあったかいが、もの凄い熱いわけでもない。家に来た時よりは熱が下がっている気がする。そんな魁斗の心情を察してか、累が口を開く。
「……わたしは正常よ」
正常な奴の発言じゃないだろ。
思ったが、なにかを言う前に累が言葉を続ける。
「寂しいの……」
「……」
そして、なにも言えなくなった。
う、うーん……と小さく唸り、それを言われたらな……と、弱る。
累にバレないように息をそっと吐く。
「ごめん」
すると、累が謝ってきた。
息を吐いていたのがバレたのかと思い、魁斗はすぐに「いいよ」と伝え、笑顔を浮かべて首を横に振る。
「触れてろって……どこにだよ?」
「好きなところでいいよ」
こいつ、やっぱ熱酷いんじゃないか?
心配する気持ちと共に頭の中では、ちょいとやらしい軽口が思い浮かんでしまう。
「じゃあ、胸でもいいか?」
「いいよ」
おいおい入院レベルだ!! 救急車、救急車!!
そんな答えは決して待っていませんでした! ごめんなさいっ!
言った本人が動揺してしまう。
「い、いいわけないだろ、あほ……」
脳内ではあたふたしていたが、動揺を必死に抑えて隠しつつ、魁斗は累の細くて白い手を優しく、ぎゅっと握りしめた。
「握っといてあげるから、早く寝なさい」
「……どこにも行かない?」
「行かないよ」
「……じゃあ、寝る」
安心したのか、累はようやく目を閉じた。
落ち着いたら累はすやすやと眠りに入った。
魁斗は起こさないように、握ってない反対の手を累のおでこにそっと当てる。
熱はさらに下がったみたいだ。
おでこから手を離して下ろそうとすると、その手をぎゅっと握りしめられた。そして、
「ん……」
累が小さく身じろぎする。
起こしたかとひやひやしたが、またそのまますうすうと寝息をたてる。握られた手は離さないまま。
両手が塞がってしまった。
そして、両膝をついたまま、腰を曲げて、片手を遠くに伸ばした姿勢のまま固まってしまう。力を抜くと累の体に覆いかぶさってしまうような体勢だ。せっかく寝たのにこんな形で起こしてしまっては悪い。
そのままへんてこりんな姿勢のまま、ふるふると体を震わせて、堪えてみせる。
そんな魁斗の様子を知らない穏やかな顔で寝ている累の唇が微かに動く。魁斗は何を言っているのか、耳を近づけさせると、
「……魁斗」
「……」
寝ぼけているのか、寝言なのか、自分の名前を呼んでいた。その後、むにゃむにゃと言葉にならない言葉を呟いて、また規則正しい寝息をたてる。
……いまのは、ちょっと……。
すう、すう。
と、規則正しい寝息が漏れる。
魁斗は寝ている累の顔を覗き込む。
化粧っけのない肌は透き通るように綺麗で、熱だからかほっぺたはまだちょっぴり赤い。閉じられた目蓋から伸びる長いまつげ。
かわいいな、と素直に思う。
友作が言ったからではない。前から思ってる。
普段はどうしても兄妹のように見てしまうが、累とは血のつながりがない。こうして静かな寝顔を見ていると、やっぱりひとりの女の子なんだと意識してしまう。
……こいつもいろいろと踏ん張って生きてる。特に最近、こいつはすごく頑張ってる。
ぎゅっと握られている手を魁斗は握り返す。それでも、累は穏やかに眠ったままだった。思わず、少し笑ってしまう。
累は焦らなくていいと思う。
十分に『生きる』を頑張っているから……。
ゆっくりと休ませてあげたくて、声もかけずに、ただ見つめて、微笑む。
だけど、両膝をついたまま両手を掴まれ、片手を遠くに伸ばしてるから、腰も微妙な体勢で曲がっており、自分の体はいまだにずっとぷるぷる震えている。体勢を崩してしまうと累に向かって倒れ込んでしまうから、ずっとそのままの姿勢で堪えた。
累が目を覚ます、その時まで――
朝方、めっちゃ腰が痛かった。