六 おてんば姫様と魔王と騎士
――砂漠を抜け切った先、そこに聳え立つ城を前にザラは息を呑んでいた。
蔦の絡まる古城。ザラにとって城は飽き飽きする程見て来たが、これは別格だった。
寂れて剥がれ落ちそうな巨大な城壁。城の上空に広がる漆黒の雲。それらは近付きがたい程の禍々しさを放って、そこに佇んでいたのだ。
「何だろこのお城……。気になる!」
恐怖を感じない訳ではない。
だが恐れなど好奇心には到底及ぶ筈がなく、ザラは一も二もなく城へ向かってグレーを走らせ始めていた。
屁泥の沼を駆け抜け、城へさらに近寄ると、鼻が曲がりそうな程の悪臭が漂って来た。
「うへっ、これ何の匂い……?」
見ると古城の周りにはコウモリの死体が散乱していた。
コウモリだけではない。鼠、虫、溶けてもはや何だったかすら分からなくなった死骸。それらが一斉に汚臭を放ち、こちらを拒絶しているかのようだった。
「臭い……。でもこれぐらいで屈してあげない! お城に入っちゃおう!」
門は外門と中門の二つがある。
まずは長年の風雨で崩れた城門を潜り、中へ。
そして荒地を踏み締め、中門の前までやって来た。
ここを通れれば、本当に城の中へ入れるのだが――。
「ぐぐぐっ……」
雌馬から降りて、扉を思い切り押す。
しかし錆び付いてしまっていて、幼女の力では到底開ける事ができない。
グレーも手伝って一緒に開けようと頑張ってくれたが、門はびくともしなかった。
「うーん……。どうやっても開かない! ねえ、誰かいないの?」
鉄扉へ向かってザラは叫んでみる。
だがやはり、誰からの返事もない。こんな古びた城に人間がいる筈がない。
しばらく待った後、「つまんないの!」と言って扉に背を向けた、その時。
「誰なのだ? 我を呼ぶ者は」
突如として低い声が響き、扉がギィーと高い音を立てて開いた。
そして、ドシンドシンと地響きのような足音を鳴らしながら現れたのは――。
「――ぇ」
毛むくじゃらの、巨大な怪物だった。
二足で立っているものの、その脚は短くまるでゴリラのよう。
頭部に牛の角が二本突き出ていて、顔面には左右に二つと額に一つ、合計三つの青の瞳が輝いている。
大きな口から覗く鋭い牙、長い顎髭。太い両腕の先には尖った爪が生えており、その見た目の恐ろしさといったら。
常人なら見るだけで悲鳴を上げるであろう魔物、しかしザラは可愛く小首を傾げ、こう言った。
「初めまして! ザラ・エペストだよ! ねえ、あなたはだあれ?」
その反応に、魔物はどうやら度肝を抜かれたようで、三つの目を大きく見開いた。
「……あ。ああ、我は魔王なのだ。それにしても女子、どうして我の姿に恐れを示さないのだ?」
そう問われたザラの答えは一つ。
「見た目はちょっと怖いけど、なんか悪い感じしないから!」
城や周囲から漂う禍々しい気が、目の前の魔物――魔王からは感じられなかった。
言葉も通じるようだし、すぐに敵対する必要はないだろう。
「……そうか。そなたは強い女子なのだな。ここへは何用で来たのだ?」
「えっとね、冒険だよ! ザラね、元々お城のお姫様だったの! でもお城つまんないから広い広ーい世界を旅し始めたんだ! それでなんとなくここへ来たってだけ!」
当たり前のように言い放つザラであるが、こんな辺境の地はなんとなくで来られるものではない。
砂漠を越え、泥沼を渡り、この禍々しい空気を振り払って来なければならないのだから。
「――驚いた。そなたから嘘の気配は感じられないのだ。そなたは余程おてんばな姫様なのだな。少し我はそなたに興味を持った。立ち話ではなんなのだな、我が城へ招くのだ」
「ありがと! 後でお城の探検して良い? こんなに広いお城だったら、宝物いっぱいありそう!」
ザラはぴょんぴょん飛び跳ねて大はしゃぎ。
彼女と灰色の雌馬は、毛むくじゃらの大男に連れられて、蔦の絡まる古城へと足を踏み入れたのである。
「ザラ……」
――一方のエペスト王城では、玉座の上に鎮座する国王が頭を抱えていた。
姫、ザラ・エペストが行方をくらましてからそろそろ一月半になろうという頃だが、彼女の足取りは全く掴めていない。
城下町の民の話から、ザラらしい姿を見たとの情報は多数入っていた。しかし、その先の行動が完全に不明なのである。
「ザラ、どうして、どうしてなの」
王妃は毎日亡き暮らし、息子の王子も何も手につかないという始末。
国王は、ザラが逃げ出したのは自分が厳しくしたせいではないかと思い、毎夜毎夜苦しんでいた。
「一刻も早くザラを取り戻さねば……」
既に、多数の捜索隊は出してある。
だが一向に姫は見つからず、事態はかなり深刻化していた。
そんなある日の事。
とある捜索隊から、こんな情報が入った。
「ザラ姫様が〇〇サーカスに出演していたらしいとの事です」
サーカスの名前は聞いた事がある。確か、綱渡りで有名であったところだったように思う。
「それは誠か。そこの街には」
「姫様はもうおられませんでした。しかし、どちらへ向かったか、おおよその推測は立ちます」
希望が見えた。
それからすぐにザラの足跡は明らかにされた。
サーカスの街から海辺の村に出て、海を渡って森を抜け、砂漠地帯に突入。
しかしそれ以降の足取りが掴めなくなった。何故なら、獰猛な獅子達の群れに捜索隊がやられたからだ。
束の間の希望は絶望へと変わった。
獣の王のいる砂漠地帯だ、幼い少女が生き抜ける筈がない。とっくに餌食となっている筈だったが……。
「国王陛下、諦めるのはまだ時期尚早かと。砂漠の向こう側、そこに足跡があるのが発見されました。小柄な馬の足跡です。恐らくそれは、ザラ姫様のご購入なさった馬のものと思われます」
「つまり、どういう事だ?」
「ザラ姫様は無事に砂漠を抜け切ったのだと思われます。運良く獅子に見つからなかったのかも知れません。そして姫様は、とある地へ向かったと分かりました」
とある地。それは――。
「大陸の東の果て、魔王の城です」
「なんだと!?」
魔王。それは、この世界で最も嫌煙される魔族という種族の、王たる者の称号だ。
数百年前の昔、魔族が蔓延った時代、魔王は猛威を振るって人間を襲おうとした。しかし魔獣はほとんど討伐され、魔王は東の奥地の城に逃げ込み、籠り続けているとされているのだが。
「そんなところにザラが……。こうなればいても立ってもいられん。それ従者よ、騎士を呼んで参れ!」
これは大変な事になった。国王の心は焦燥の炎に焼き尽くされそうだった。
まもなくして扉が開き、王の間に一人の青年が入って来た。
全身に身軽な鎧を纏った、すらりとした体型と顔立ちの良さが目立つ青年だ。
彼の名前はアビゲイル・クロルムヌ。エペスト王国有数の騎士だった。
「国王陛下、ご命令を何なりと」
「おお、アビゲイルよ。よくぞ参った。この度貴様には重大な任務を与えようと思う。……失踪した我が娘、ザラ・エペスト。彼女は東の果ての魔王の城へ向かったという。彼女を連れ戻し、魔王を征伐して参れ」
王の鋭い命令に、騎士は頭を深々と垂れた。
「承りました、陛下。この命に代えましても任務を果たして参ります」
こうして、騎士アビゲイルは魔王の城へと向かい旅立って行った。
王はそれを心待ちにしつつ、今日も娘の身を案じる事しかできない自分に腹を立て続けるのだ。
「うわあ、やっぱりお城って広いんだね! でもどうしてこんなにボロボロなの?」
壁がところどころ崩れた廊下を軽やかな足取りで歩きながら、ザラはそう言って首を捻った。
「ここしばらく、誰の手入れもされていないのだ。この城には我一人だけなのだ」
魔王のどこか寂しそうな返答に、「ふーん」と頷いてザラは問い掛ける。
「メイドもいないの?」
「ああ。我以外の魔族は皆滅びてしまった。故に我が最後の生き残りなのだ」
滅びる、だとかはあまりよく分からない。が、魔王の孤独さだけはヒシヒシと伝わって来た。
「マオー、元気出して! ザラが楽しい事やってあげる! だから悲しい顔しないで!」
ザラがそう言うと、魔王は大きな口の端をわずかに吊り上げて、
「明るい女子なのだ。そうなのだな、ありがとう」
と、ザラの朱色の髪を優しく撫でてくれた。
魔王の手はゴワゴワだったたが、優しい温かみがある。ザラはなんだか嬉しくなった。
食堂へ案内されて入ると、そこは比較的整っていた。恐らくここだけはしっかり手入れしているのだろう。
「我は料理が下手なのだが、食事は魔物が作り、運んで来てくれるので心配ないのだ。コウモリ、来るのだ」
魔王が呼ぶと、大きな羽音がして開け放たれている窓からコウモリが姿を現した。
しかしそれはただのコウモリではない。城の周囲に落ちていた死骸に比べ、二、三倍は大きな化け物コウモリだったのである。
「すっごい! このコウモリおっきいし角が生えてる!」
魔王によると、このコウモリは特別な魔獣という種族の一種なのだという。
このコウモリがメイドの代わりをしているのだろう。
コウモリが運んで来た食事は、湯気が立つほかほかのスープだった。
「うわあ、良い匂い!」
おまけにグレーの為に好物のニンジンも用意してくれた。
「いただきます!」と手を合わせ、ザラは夕食をパクリ。
「うん、やっぱり美味しい!」
「喜んでもらえて何よりなのだ」
魔王も三つ目を細め、ザラを見つめながらスープを啜る。
まったりとした時間の中、ザラはお腹いっぱいになるまで食べ続けた。
その日はもう遅かったから、充てがわれた寝室でぐっすり眠った。寝ている間に襲われるというような事もなく、ザラは無事に翌朝を迎える事ができたのだった。
「探検たんけーん! 宝物よ出ておいで!」
鼻歌を歌いながら、廊下を駆け進む。
朝早くの薄暗い時間、ザラは早速魔王城の探検を始めていた。
「朝から力が有り余っているなのだな、そなたは」
「当然だよ! ザラはいつでも元気いっぱい! マオー遅いよ! 早く来て来て!」
グレーに乗って先を行くザラに対し、魔王は二つの短足でのっそのっそと歩いている。それでも魔王にとっては最速なのだろうと思われた。
「長年動いて来なかったせいなのだな。運動不足なのだ、はぁ、はぁ……」
既に息切れしまっている魔王を振り返り、ザラは「もう!」と腰に手を当てると、
「情けないの! 仕方ないな、ザラの後に乗って!」
と言うなり、グレーの尻を貸してあげた。
「悪いのだ。お言葉に甘えるとするのだ」
毛むくじゃらの巨体が、どっしりと乗っかって来る。
しかし灰色の雌馬はそれをもろともせず、再び悠々と走り出した。
「馬というのは気持ち良いのだな!」
「でしょ! 風になったみたいで最高なんだ!」
魔王城の探検。
今は城の一階、食堂を取り囲むようにしている回廊だ。
いくつもの寝室の扉の前を通り過ぎ、そして廊下の右奥、そこに金色の扉があった。
「なんだろ、行ってみよう!」
扉を開けると大きな階段。二階へ続いているらしい。
ワクワクしながら階段を駆け上がった先には、またもや寂れた廊下が続いていた。
一階と違って歩廊はどうやらエの字型になっているようで、左右に所狭しと扉が立ち並んでいる。
絨毯やシャンデリアはとても豪華だが、しかしなんだか埃まみれでそれも形なしである。
「ここは長らく掃除していないのだ。それにしてもこんな風になっているとは思わなんだ」
「コウモリさんはお掃除してくれないの?」
「あやつも歳故、料理だけで手一杯なのだ。もう後一年ともつまい。我の城も古い。このままでは先がないのだ」
寂しそうな魔王。だがザラは彼を振り返り、しんみりとした空気も消し飛ぶくらいの大声を出して言った。
「じゃあ思い出になるような探検にしなくっちゃね! 部屋の隅から隅まで探して、宝物を見つけるの! きっと楽しいから!」
「――?」
魔王が彼女の意図を読む前に、「グレー、走って」との命令で、再び灰色の雌馬は風の如く駆け出す。
そしてまずは一番手前の部屋へ突進するように入った。
――そこは鼠の死体で溢れ返り、思わず鼻を塞ぎたくなるような悪臭で満ち満ちていた。
見渡したところ、面白そうな物は特にない。簡素なベッドと小物がちらほら置かれているだけだった。が、
「――懐かしい」
小さく呟いた魔王は、何かを手に取り上げた。
それは大きな箱。
開いてみると中には、一匹の大鼠の亡骸が横たえられていた。
「我が城を建てた頃にはこやつは健在で、あのコウモリのように働いてくれていたのだ。だが歳を重ね、数年前に死した。そのまま、何年も放置していたのだ。……ああ、懐かしい」
この部屋はその死んだ鼠に充てがわれていた部屋なのだという。
「こんな事も忘れ、ただただ孤独に生きていたとは。我はなんて愚かだったのだ。ありがとう女子よ」
「うん、喜んでもらえたみたいで良かった! 探検楽しいからもっと続けようよ!」
幼女の朗らかな笑い声が響く。
馬はまた駆け出し、次の部屋へと猛突進していった。
――魔王城は気が遠くなる程広く、
二階、三階、四階。
扉という扉、物置部屋という物置部屋を漁り、次々と見た事のない物を発見した。
「すごーい!」
古びた剣、鎧、盾。
魔族が数百年前のかつての戦いの戦利品であるらしいそれらが、いたる部屋の壁に飾られていたのである。
そんな代物がたっぷりあって、ザラはワクワクしっぱなしだった。
――そして最後、四階の歩廊の奥の奥。
最後の扉は、ゴテゴテした装飾と不思議な絵が印象的で、他の扉とは一眼で違うと分かった。
早速グレーから飛び降りて、扉を開けようとする。だがしかし、
「マオー、ここの扉固い!」
またもや扉が開かない。
しかしそれは錆び付いているとかではなかった。どうやらこの扉には、鍵が掛かっているらしい。
「鍵が必要なのだ? だがどこにあるのか……、見当もつかないのだ」
確かに探検の中で、鍵らしき物は見かけなかった。きっとなくしてしまったのだろう。
「じゃあどーするの、マオー?」
この扉の中にはきっと面白い物がある予感がする。だからザラとしてはなんとしても開けたい。
魔王は小さく息を吐くと、覚悟を決めた顔になった。
「大丈夫なのだ。我がなんとかする。少し離れているのだ」
ザラは首を傾げつつも、言われた通りに後へ下がる。
と、突如、猛然と魔王が走り出し、扉へ激突した。
その巨体にまともにぶつかられた扉は一瞬で粉々に砕け、優美な絵も装飾も一瞬で瓦礫と化す。
砕けた扉の向こう、はぁはぁと荒い息を漏らす魔王はザラの方を振り返った。
「我もなよっているのだな、こんな事で疲れてしまって。……女子、もう大丈夫なのだ。入って来るのだ」
手招きされ、扉の残骸を乗り越えて部屋へ入ったザラは、思わず息を呑む。
だってそこには、光り輝く金銀財宝が所狭しと敷き詰められていたのだから。
「すっごい! 綺麗!」
ぴょんぴょん跳び回り、あっちの宝石こっちの金貨に目を移す。
一体誰がこんなに集めたのであろうか。まさに宝の山だった。
「我も三百年この魔城で暮らしていたが、こんな宝があったとは知らなんだ。驚きなのだ」
目を丸くする魔王をよそに、ザラは宝の山を漁って回る。
そしてその中から一本の宝剣を抜き出した。
「うわあ、素敵!」
美しい装飾の施された短剣。
鞘から抜いてみれば、目が覚めるような朱色が覗いた。
「ザラ、これ気に入った! これもらうね!」
「良いのだ。存分に好きなだけ持っていくのだ」
お言葉に甘え、その他にも金銀銅貨をたっぷり頂いてしまったザラは大満足。
――こうして宝物をゲットし、無事に探検は終わったのだった。
「マオー、今日は楽しかった?」
夕食の席で、ザラはそう尋ねかけた。
「そうなのだな。我も久し振りに愉快な思いをした」
「そう。それなら良かった!」
ふぅ、と安堵の息を漏らし、それからザラは太陽のように微笑んで、言った。
「探検、楽しかったんだったらさ。マオーも一緒に旅に行こうよ!」
瞬間、魔王の三つ目が思い切り開かれる。
彼にとってはきっと突拍子もない発言だったに違いないが、ザラとしてはずっと考えあぐねていた事だった。
「旅ってね、面白いんだよ! どこへでも行って、何でもやるの! 世界は広ーいから、きっとまだまだ大冒険の芽はある筈! ザラはマオーと一緒にそれを探したいと思ったんだ! どう?」
幼女の純粋な瞳に射止められ、しどろもどろになる魔王の声音は弱い。
「で、でも、きっと我はそなたに迷惑をかけてしまうのだ。だからその誘い、断る他にないのだ」
「どうして?」
「我はこんな姿故、人々に恐れられている。だから同行すれば、そなたも恐れられる事になるのだ。そなたのような可愛い娘を偏見の目に晒すなど、我の心が耐えられないのだ」
理由は分かった。
だが、ザラはそれでも首を振る。
「ザラはマオーの事、良い人だと思う! 最初はみんな怖がっても、きっと分かってくれるよ! マオーは、このお城で一人で寂しいんでしょ? ならザラが友達になってあげる! 広い世界を旅すれば、もっともっと友達増えるかもだし! だから一緒に、ね?」
魔王が大きな口を開き、何かを言わんとした――その直後。
食堂の扉が勢いよく開け放たれ、広間を揺するような声が響いた。
「そこまでです」
振り返り、ザラは目を見開く。
だってそこには、見た事のある人物が立ち、こちらへ――否、魔王へ剣を向けていたのだから。
「騎士、アビゲイル・クロルムヌ。魔王、今すぐ姫を返すのです」
凛々しく佇むその姿には、ザラは見覚えがあった。
エペスト王城で、兄に剣術を教えていた相手だ。たまに見かけてはすごいなと思って見ていたものだが、どうして彼がここに現れたのか。
「何のつもりか知らないが、我はこの娘に危害を加えていないのだ。大きな誤解なのだ」
「誤解ですと? 私は何の誤解もしておりません。姫様をあなたが連れ去り、監禁したのでしょう。ですから私は国王陛下の命にて姫様を連れ戻しに参りました」
騎士の静かな剣幕に気圧される魔王。だがザラは怯んでやらない。
「ザラは別にさらわれてないよ! カンキン? よく分かんないけどそれも多分されてない! マオーは悪くないもん! だから大人しく帰って!」
「しかし、そういう訳にもいかないのですよ。ザラ姫様は魔王に騙されているのです。今からその悪しき術より解いて差し上げましょう」
騎士がにじり寄って来る。
それを受け、震える足で魔王が前に出た。
「我はこの女子に魔術などかけていないのだ。全てはこの女子の意志なのだ。それでもそなたは信じぬか」
「信じませんね。魔王は数百年前のかつて、世界を荒らした極悪人。その事実が揺るぎない物である限りは」
魔王の傍に立つザラには、アビゲイルの言っている意味が分からない。
だが魔王は牙を覗かせ、できるだけ顔を怖く歪めて反論した。
「それは我が父の代の話。父は荒くれもので、人間に大層迷惑をかけたのだ。だが先祖は人間に危害など加えていなかったし、我も同じ。辺境の地でひっそり身を潜めているだけなのだ。この女子は自らここへやって来て、我の城に足を踏み入れた。……この女子の任意があれば連れ帰って我は構わない。だが、嫌がる女子を連れ去るのであれば我は見逃す訳にはいかないのだ」
「ザラ帰りたくない! マオーと一緒に旅したいんだもん!」
連れ戻されたら、また狭い城の中に閉じ込められてしまう。
そんなの想像するだけで反吐が出る。お城の生活は嫌いではないが、窮屈な生活はもう懲り懲りだというのに。
「本当に罪深い魔物です。姫様、今すぐ助けます。魔王覚悟!!」
何を考えているのだろうか、そう言うなり騎士は魔王に飛びかかる。
暴風が吹き荒れ、ザラは思わず後ずさってしまう。
一方魔王と騎士はしばらく揉み合いになったが、数秒後、悲鳴を上げたのは魔王の方であった。
「ぐおおおおお」
腕に突き刺さる剣と噴き出る血。
「マオー!」
叫び、ザラは彼の方に駆け寄った。
すぐさま剣が抜かれ、剣先は魔王の胸へと向けられる。
騎士が魔王の命を呆気なく散らさんとした、直前だった。
「ザラが相手だよ! マオーは殺させない!」
「姫様!」
戦う両者の間に割って入ったザラ、彼女は胸に差し込んでいた朱色の宝剣を握りしめた。
勝てるとは思っていない。
騎士が強いのは兄との稽古姿で知っている。だが今魔王を救わないという選択肢はなかった。
だから、騎士の前に立ちはだかったのだ。
「馬鹿な事を。今すぐおやめください姫様」
「やめない! 大人しく帰ってくれたらザラは何もしないよ。でもマオーに手を出すなら、ザラは容赦しないんだからね!」
だって魔王は良い人だから。
ザラは魔王の事が好きになってしまったから。
ふふっ、と困ったように笑った騎士は、こくりと頷いた。
「分かりました。手合わせと参りましょう。お怪我をさせないかどうか、心配ではありますが」
その余裕ぶっこいている態度にむかっ腹が立つ。もはやぶつかる以外の道は絶えた。
「マオーはザラが守る!」
「魔物の術から解いて差し上げます」
――戦いの火蓋は切られ、騎士と幼い姫様の血の舞踏が始まった。
騎士の鮮やかな剣技が、次々とザラを襲う。
それをひらり、ひらりと軽い身のこなしで避けるが、それにも限界があった。
「さすがは王国一の騎士様だね!」
足を狙われる。ぴょんと跳んで逃げた。が、
「隙あり」
「きゃあ!」
長剣の鞘で胴体をまともに弾かれ、ぶっ飛ばされた。
壁に背中をぶつけ、呻く。
立ち上がれなくなるザラの目の前へ、騎士がゆっくりと歩いて来た。
「さあ。共にお城へ帰りましょう。陛下がお待ち……」
「グレー!」
幼女の甲高い声と同時に、開け放たれた扉の向こうから、灰色の雌馬が颯爽と現れる。
そして騎士の横を走り抜け、倒れ込むザラを咥えて逃げ出した。
「待て、馬め!」
物凄い速さで追ってくる騎士。
常人ではあり得ないそのスピードに、さすがのグレーも追い付かれてしまいそうだった。
しかし、
「ほらよっと!」
地面に手をつき、逆立ちのようにして降り立ったザラはクルンと回転、優雅に二本の足で地面に立ち上がる。
そして猛烈な勢いで駆けて来る騎士をパッと振り返り、笑った。
「ごめんね騎士様! 大人しく引いてくれないんだったら、これでも喰らえええええええ!」
短剣を慢心の力で振りかざすザラ。
普通だったら何の事はなかったであろうそれは、だが、走る騎士には受け止める事ができない。
そして――。
「うがぁっ」
その朱色の輝きは、騎士の鎧まで達した。
でも普通ならばこの程度では何の力も果たせない。しかし、これは違った。
直後、炎がボッと燃え上がる。
それは瞬く間に騎士の鎧を覆い、全身を包んでいった。
「うわっ、あ、何をっ」と慌てふためく騎士は、一体何が起こったのか分かっていないのだろう。
全身を業火に焼き尽くされる騎士は、地面に倒れ込み悶える。だがそれも虚しく、数秒後、彼は灰になってしまった。
その全てを成した宝剣は、ただの短剣ではなかったのである。これは魔剣の一種、炎剣と呼ばれる物だった。
どうしてそんな話を知っているのかというと、これも昔話からである。
「おかー様が読んでくれた本で、魔剣はマオーの城に眠ってるって書いてた! でもまさかこれだったなんてびっくり! なんか騎士様には悪いことしちゃったなー」
せっかくはるばるここまでやって来たというのに灰になるなんて可哀想な結末だ。きっと武術の手合いをして貰えなくなった兄は多少悲しむだろうなと思いつつ、ザラの中にそこまでの感傷はない。
それよりも、
「マオー!」
気絶している魔王に走り寄り、その巨体をy揺さぶる。
と、三つの目が開き、魔王が目を覚ました。彼はゆっくりと身を起こし、こちらを見つめて言った。
「……不甲斐ない。魔族の端くれたる我があんな奴に負けるとは。女子よ、あの男はどうなったのだ?」
「騎士様はね、灰になっちゃった! 聞いて聞いてマオー、この剣ね、実は炎剣だったんだよ! それでザラ、騎士様を焼いて勝ったんだ!」
大喜びで事情を説明するザラに、魔王は感心したように頷いた。
「そういう事なのだな。女子よ、よく頑張ったのだ。――?」
「ヒヒィ――――ン!」
魔王が言い終えるか否かというその時、グレーが突然に高く嘶いた。
ザラも魔王をそちらを振り返り、目を丸くする。
「うわあ!」
騎士の身を焼き焦がした炎、それが周囲に燃え広がり出していたのだ。それは凄まじい勢いで床や壁を侵食し、こちらへ迫って来ていた。
「女子、ともかく逃げるのだ!」
「あ、うん! グレー!」
もはや消す事などできないだろうと考え、二人は灰色の雌馬に飛び乗った。
そのままグレーは、追って来る炎から猛ダッシュで逃げ出し始める。
食堂を出て、既に焦げ臭い廊下を走り抜け大扉へ。
なんとか城を脱出して背後を振り向けば、魔城の至る所から火が吹き出し、赤々と燃えていた。元々ボロボロな城だ、崩れ落ちるまでにそう長くはかからないだろう。
「……なんかごめんね、ザラが炎剣を使ったせいでマオーの城が燃えちゃって」
「いいのだ。きっとあの城はああなる運命だったのだ。最後に探検もできた、思い残す事なんてないのだ」
大きく溜息を吐く魔王。だが、彼の表情はどこか清々しいものがあった。それを見てザラは心から安堵した。
窓から大コウモリが慌てて飛び出して来る。どうやら無事だったようだ。
騒ぎ出すコウモリに、魔王は言った。
「コウモリよ、そなたの役目は終わりなのだ今まで窮屈な思いをさせた、これからは大空を舞い、好きなだけ遊んで良いのだ」
「キキッ」
コウモリはしばらく魔王と戯れ、何やら話し合った後、彼方の空へ消えていった。召使を終え自由の身になったのであろう。
そして魔王は、ザラの方を見つめてこう言った。
「あの男に邪魔されたが、我からそなたの誘いへの返答をしなければならないのだ。……旅に同行するという話、こちらから頼もう。我の城はじきに崩壊するし、もう窮屈で孤独な生活には飽き飽きしていたのだ。我はそなたと共に旅をしたい」
その言葉に、思わず笑顔になるザラ。彼女は魔王の巨体に抱き付いた。
「ありがと! ザラすっごく嬉しいよ! これからよろしくね、マオー!」
「こちらこそなのだ」
――そうして二人は仲間になった。
長い間の一人旅を終えたザラにとって、魔王と一緒であるのがどれだけ喜ばしい事なのか、それは言うまでもあるまい。
おてんば姫様と魔物の王は灰色の馬に跨り、新たなる地へと向かって旅立つのだ。