8-6:盤上に登る
その日は夏の最後に相応しい晴天と、陽炎が立つような暑さで幕を開けた。
パーチ邸に居る全員が緊張による寝不足をものともせず一階に集合し、用意された朝食にほとんど手を付けないまま支度を始めた。
ミケにはエルネストが用意した清潔感のあるシャツとズボンを。昨夜風呂で洗われサファイアのように煌めいている青の髪に、クラウディオが丁寧に櫛を入れている。
「なあ、俺、罪人なんだけど、髪をちゃんとする意味とかあんの?」
「罪人ってのは刑が確定してから罪人に成るんだよ。いいか、お前は貧しい生まれを利用されただけの哀れで将来有望な天才だ。ものすごくかわいそうに見える顔をしておけ」
「どんな顔だよ……」
ミケはものすごく嫌そうな顔をした。
「身なりを整えて査問会に出るのは大事ですよ。ミケさんの髪色は、分かる人間ならば一目見ただけで価値が分かります。国王陛下と査察部に、あなたを今後も所持したいと思ってもらうことが重要です」
エルネストの説明にクラウディオが何度も頷き、ミケの姿勢と表情の訓練は出発間際まで続けられた。
「ドレスを貸して頂いてありがとうございます、ナディア様」
「いいえ、サイズが合うものがあって良かったです」
リリアナのドレスはナタリアの娘のナディアから借りた。比較的飾りの少ない紺色のドレスはリリアナの白磁の肌を美しく見せたが、これから戦場に向かわんばかりのリリアナの表情には些かそぐわない。
「なにか飾りを着けて行かれますか?」
「グレゴリオ伯父様からお借りしている真珠の耳飾りがありますので、それを着けて行きます」
貴重品を持ち歩くことを避けるリリアナだが、これだけはローレを出て鉱山を回る間も肌身離さず持っていた。結婚式ののちにグレゴリオが移送され、返し損ねたものだった。
「……スカートの内側に剣を仕込めないものでしょうか」
「査問会は謁見の間で行われますから、事前の持ち込み検査に引っかかると思いますわ……」
北方騎士団の礼服を持ってきてくれたアマデオは、無事に戻った親友の肩をバシバシと遠慮なく叩いた。
「よーしよーし、よく戻った!」
「アマデオにも、リモーネ領園のご家族にも世話になった。留守の間、変わったことは無かったか?」
「そうだなあ、変わったことが起こらないように気を張ってたって感じかな」
北方騎士団はローレを始め北方領の出身が大半を占める。詳細は気になるが、下手に動けば文字通り首がいくつか飛びかねない。互いを見張り律し、これ以上何事も起こさないように気を張り続けた三ヶ月だったとアマデオは語った。
「フェルリータで証人を確保したのはめでたいが、お前何をしてきた? 移送してきた奴ら絶対どっかの兵だろ、あれ」
王都の北方騎士団の詰所に、昨夜スパーダを入れた馬車が届いた。差出人こそミネルヴィーノ商会であったが、手綱を握る御者も護衛を頼まれたらしい傭兵も、傭兵らしく見える、という訓練を受けているようにアマデオには見えた。
「とあるやんごとなき商人にご助力頂いて、今まで見えていなかったものと見たくなかったものを同時に思い知らされた」
「そりゃ災難だったな。ほら、新しいやつ」
おろしたてのシャツと礼服のジャケットを羽織ったリベリオにアマデオが渡したのは、礼服用の手袋だった。皮ではない上等な生地の手袋を着けようと、左手の指輪を外す。
指輪を抜いた指先を見て、アマデオの目が剣呑に顰められた。
「……その指の爪、何をした?」
「全力で弓を引いたら爪が飛んだ」
フェルリータの外壁を結構盛大に破壊しました、とは言わずリベリオは手袋を着けた。アマデオが用意してくれた新しい手袋は、リベリオの手によく馴染んだ。
「明日、話す。聞いてほしいことがたくさんあるんだ」
「あの、今回も制服で出ようと思っていたのですが……」
「何言ってるの! こんな立派なドレスがあるのに今日着て行かなくて、いつ着ていくのよ!」
ナタリアの私室でナタリアのドレッサーに座り、ステラはナタリアに髪を結われていた。皆よりも一時間早く叩き起こされ、朝食を摂る間もなくナタリアの私室に連行され、あれよあれよとドレスを着せられ化粧を施されて今に至る。
査問会当日の服装を問われ、王城の自室に制服を取りに行こうとしたステラにリベリオが差し出したのはフェルリータで持たされたドレスだった。ブルーグレーのドレスは既婚者らしい落ち着きのある色合いで、膨らみを抑えたデザインはステラが結婚式で着用したドレスに似ている。ドレスを着るのに必要な小物は、ナタリアが貸してくれた。
「結婚式のときのドレスに似てるわね」
「王妃様の仕立て屋さんのデザインを倣ったのだと思います」
「いい妹さんね、逞しいわ」
「はい、自慢の妹です。冬用のケープの仕立てを頼んでいるので冬前に取りに行かないと」
「素敵ね。私も一緒に行こうかしら、フェルリータにも行ってみたかったの」
王妃二人の侍女を兼任するナタリアの腕は確かで、化粧を施すのも髪を結い上げるのももとてつもなく早かった。小一時間で出来上がった鏡の中の若い貴婦人を、ステラはまじまじと見つめた。
「ナタリア様、このお化粧と髪はどう仕上げているのでしょうか」
「明日になったらいくらでも教えてあげるわ。王妃様付き侍女の化粧と髪結よ、自信を持って堂々としてらっしゃい」
「自信……堂々……」
自信、堂々、それはステラに最も必要で、つねに不足しているものである。眼鏡の中で目を回しかけたステラを見て、ナタリアが頬に指をあてて考えるそぶりをした。
「ちょっと眼鏡を取ってちょうだい。で、私を見ようとして目と眉を顰めて、……そう、そのまま」
指示に従ったステラの目の周りに、ナタリアが化粧を足した。
「これでよし。その顰めた顔のまま査問会の会場に行きなさい。始まったら眼鏡を掛ければいいわ」
眼鏡を外しても笑顔でいる訓練をした結婚式と真逆のことを指示され、ステラは悲鳴をあげた。眼鏡を外した状態で目を顰めるのはステラにとっては日常だが、あまりに心象が悪いのではなかろうか。
「み、見えません!」
「見えなくていいのよ! 心配しなくても城までは馬車よ!」
「この距離をですか⁉︎」
貴族街は王城のすぐ東にあり、馬車を待つ時間よりも歩いて入った方が早い距離だ。
「ローレ公爵家の査問会よ、正門から堂々と馬車で入城なさい。馬車を降りるところから謁見の間までは、リベリオ様に手を引いてもらってゆっくりと歩くのよ」
「……そういうものですか」
「そういうものよ」
ナタリアが力強く肯定する。そこには知識と経験に裏付けられた自信があった。
「……ナタリア様、私まだ、教わりたいことが沢山あります」
「私も教えたいことが山ほどあるわ」
ナタリアの手がステラの背を軽く叩く。
「自信を持ちなさい。……大丈夫、この三ヶ月、あなた達はよくやったわ。」
そう労うナタリアの顔はぼんやりとしていて見えなかったが、手も声も温かだった。
でも、という不安を飲み込み、左手薬指の指輪に触れてステラは頷いた。
「行ってきます」
ステラ、リベリオ、リリアナ、ミケを乗せた馬車は五分もせず王城の正門から入城した。
リベリオが先に降り、その手を借りて馬車を降りる。正門の左右に控える兵が一礼する間を通りエントランスに入った。宝飾室の管理官あるいは侍女としてのステラは通ることのない場所だ。
査問会が行われる謁見の間には、当然のことながら関係者以外は入れない。けれど、今日何が行われるのかを聞きつけた野次馬が、ローレ公爵家の姿を見ようと偶然を装って登城していた。
(おい見ろ、あの若い男の髪)
(あちらの方はリリアナ様よ、ローレの学院でお見かけしましたわ)
(じゃああの、リベリオ様が手を引いている女性の方が?)
以前にも、こんな陰口を聞いた気がする。隠すことも憚ることもしない、相手に聞かせるための陰口だ。今ステラの耳に届く声よりももっと酷い、純然たる悪意をぶつけられてもステラの主は怯えなかった。泣きながらも憤る金色の目は苛烈で美しかった。
比べれば、好奇心ばかりの陰口のなんとささやかなことか。周囲の雲をゆっくりと見渡せば、ステラの耳に届く声はピタリと止まった。
「行こう、ステラ」
「はい、リベリオ様」
国王陛下に結婚の報告をしたホールに、こんな形でまた訪れるとは思っても見なかった。年の瀬には貴族の夫婦が集まっていた扉の前には、打って変わり貴重品や危険物の持ち込みを検分する場が設けられていた。
ステラは指輪と眼鏡を検分され、必需品であることから装着しての入場が認められた。リベリオは飾りの剣を預けて検分を通った。リリアナとミケは金属も貴重品も持っていない。
査問会が始まれば内開きの扉の内外両方に近衛兵が立ち、外部からの侵入を防ぐ。厚い扉越しの声が明確に聞こえるわけもないが、部外者の立ち止まりも許されない。
リベリオとステラに気付き早足で寄ってきたシルヴェストリ査察官は、春に会ったときよりもやつれていた。背筋の伸びた隙のない佇まいは変わらないが、目は窪み老齢によるもの以外の皺が増えている。査察部の長として、忙しなく駆け回っていたことがそれだけで分かった。
「まもなく国王陛下が参られます、急ぎご入場下さい」