8-4:過ぎた星は見えずとも
ルクレツィアの体調不良という名目で湖水の屋敷を封鎖したこと、もうローレには戻らずここから五人で王都へ向かう日程のことなど、情報共有とそれに伴う手配は夕食を摂りながらも行われた。
「では、私がナタリア様のタウンハウス宛に手紙を書きますね」
「鳩を先行させて飛ばそう。パーチ夫妻にはご迷惑を掛けるが」
「レオ君も預かられてますし、途中途中を知らせなさいと言われてますので大丈夫ですよ」
ミケの滞在先には、王都の貴族街にあるナタリア夫妻の家を選んだ。パーチ家は水属性に長けた子爵家だ、ミケの髪色が目立ちづらく、エルネストを通じて第一王子殿下にも連絡が取れる。
早速手紙を書こうとしたステラを、呆れたようにクラウディオが止めた。
「ステラ、リベリオ様、続きは明日にしましょう」
「ええ、兄様もステラ姉様も徹夜しかねません。夜更かしをされるなら、二人で星でも見て来てください」
一旦地図を片付けたいリリアナが提案し、魔石式のランタンを押し付けられたステラとリベリオは宿舎から放り出された。いい加減に休ませたかったのか気を遣われたのか、おそらく両方だ。
「星でも見てこいと言われたが……」
「この鉱山には見晴し台があるんです。ご案内しますよ、リベリオ様」
放り出されたならば仕方がない。ステラは先日使った見晴し台までリベリオを案内した。昼には暑さで歩くのも憚られるような空は、夜になれば満天の星空に変わる。緑の匂いがする風が頬を撫で、星空と、闇に沈む森林が見えた。
「ここからミケさんの小屋を見つけたんです。ええと……この、方向の」
眼鏡を外しステラが指した方向を、リベリオが望遠鏡で覗く。闇に沈んだ森の中、ステラの言う枝葉で隠された小屋は全く見えない。
笑って諦め、見晴し台に設置されている簡素なベンチに並んで腰掛けた。足元に置いたランタンの灯りが焚き火のようだった。
「王都でもフェルリータより星が見えるって思ったんですけど、ここはもっとすごい星ですね」
「フェルリータは夜も明るくて、活力のある街だった。……リモーネ領園からここまで、危険はなかっただろうか」
「クラウディオ兄さんが道案内をしてくれて、リリアナ様が山賊を倒して下さいました。ここに辿り着くまで時間は掛かりましたけど、危険なことは何も」
見つけられないかもしれないという不安はあれど、クラウディオに先導されリリアナに護られ、危険を感じたことはなかったように思う。ステラがしたことは遠方を警戒し、ここからミケの小屋を見つけただけだ。
「それなら、良かった」
リベリオがステラに向かい合い、座ったまま深々と頭を下げた。
「今度こそ、礼を言わせて欲しい。力を貸して下さったこと、心から感謝致します」
春の中庭での約束通り丁寧に礼を述べたリベリオに、ステラは少し困ってしまった。
「……どうしましょう、私ではなくクラウディオ兄さんとリリアナ様にお礼を言って下さい、って言いそうです」
「それだと、俺も貴女に礼を言えなくなってしまう」
「ですよねえ……」
互いに、沢山の人に助けられた身だ。自分だけの力ではないが、自分を数のうちに入れないと礼の一つも言えなくなってしまう。
「謝辞と賛辞はお互いそのまま受け取ろう。……本当に、ありがとう」
「はい。頑張りましたね、私も……リベリオ様も」
二人で顔を見合わせて、ようやくと笑った。
「ただその、私よりもリベリオ様の方が、色々あった気がしますが……」
気にはなるが、最後が最後なので道中を無理に聞き出すのは気が引ける。
「色々……そうだな、母のことはさておき、道中は学びも楽しみもある旅だったと思う。取り止めもない話になるが聞いてくれるだろうか」
「も、もちろんです!」
ステラが姿勢を正し、リベリオはぽつりぽつりと話し始めた。
「まず、フェルリータの街に入ってすぐスリの少年に財布を盗まれて、イズディハール殿下に助けられた」
「……」
出オチがひどい。
「フェルリータは観光客狙いのスリが多くて……すみません……」
ステラのせいではないのに、なにやら申し訳ない気持ちになった。
「イズディハール皇太子殿下が協力を申し出て下さって、カルミナティ女史のガラス工房の隣に宿を取った」
「あの、もしかして、イズディハール殿下と……」
「同室だ」
「わあ……」
「何というか、相手の懐に入るのが上手い方だった。カルミナティ女史に案内役を頼んでフェルリータ観光もご一緒して」
気さくで相手の懐に入るのが上手くて、とステラの中でイズディハール皇太子のイメージがどんどん構築されていくも、リベリオとエリデと三人でフェルリータ観光をする皇太子殿下の姿がどうしても想像できない。ご尊顔を拝見する機会が無かったことが悔やまれる。
「学院の食堂で肉と豆を食べて、ステラの元担任の先生にもお会いした。真面目な生徒だったと」
「先生から昔の話をされるのって、恥ずかしいですね」
「それから、フランキ商会でジーノ殿とも話して」
「待って下さい何でそんなことに⁉︎」
学院でステラの元担任と会うのはまだ分かる、フェルリータの学院の食堂は観光客向けに開放されているので通りがかる可能性がある。
しかし、ジーノは別だ。何をどうしてリベリオとジーノが話すことになるのだ、それもフランキ商会で。
「ジュスティーナ義母上の頼みでドレスを取りに行った。アウローラ嬢がステラにドレスを仕立てたから、受け取って渡して欲しいと」
「そ、そんなことで……⁉︎」
ステラにしてみれば、リベリオの手を借りるようなことではない。母がそれを分からないとも思えなかったが。
「……義母上は、親の見栄だと言っていた」
「見栄?」
「娘との婚約を破棄した相手に、意趣返しをしたかったと。恐らく、アウローラ嬢も」
「……私は、相手を見返したいと思ったことはありません」
「ああ」
「婚約を破棄されたのも、アウローラが代わりに収まったのも妥当だと思っています」
「ああ、だが、義母上はそれでも腹立たしかったのだろう」
「そんな波風を立てるようなことを、しなくて、いいのに……」
「良いご家族だと思う。……少し、眩しいくらいに」
星を見上げて眩しいと言ったリベリオの横顔に、ステラはもう何も言えなくなってしまった。子供の名誉のために怒る親を、リベリオは持てなかったのだ。
「冬用のケープの仕立てをアウローラ嬢とジーノ殿に依頼して、次はステラと一緒に訪れると約束した」
夏の盛り、フェルリータからも王都からも遠く離れた鉱山で、未だ見ぬ冬の話をしている。
「気の早い話……では、ないのですよね。ミケさんが居て、スパーダと手紙を確保できたので」
ローレ家のどこまでが処断されるかはさておき、主犯としてユリウスを突き出すことはできる。
「それなのに、どうしてリベリオ様はそんなに暗い顔をされているのでしょう」
証人、加担者、染め掛けの魔石など査問会に提出すべく探していたものは全て見つかったというのに、リベリオの表情は晴れない。
「そんな顔をしているだろうか」
「ええ、アマデオ様なら『悩みがあるならさっさと口から出せ』とおっしゃるようなお顔です」
皆で話し合ってる時も、夕飯を挟んでいる時も、リベリオはずっと眉間を顰めていた。気の抜けた無表情とは根本から違う。ステラでも分かるくらいに。
「これも、取り留めのない話だが……」
「大丈夫です、私もよくナタリア様に手紙のまとまりのなさがひどいと言われますから」
「母の首を絞めた」
反射的に上げそうになった悲鳴を、ステラはすんでのところで飲み込んだ。
「あの瞬間、我を忘れた。……査問会で証言させるために殺さなかったんじゃない、出来なかっただけだ」
リベリオが両手で顔を覆う。
「俺は愚かで臆病だから」
指の隙間から、小さな小さな声が夜風に乗ってステラの耳に届いた。
「リベリオ様、その指の爪、は……」
ランタンの灯りに照らされたリベリオの両手は、珍しくも手袋に覆われていない。十の指の半分に爪が無く、肉の上を出来立ての薄い皮膚が覆っている。左手薬指の指輪よりも、夜目にも生々しい傷跡の方に目が行った。
「弓矢を使ったら、爆ぜた。フェルリータの城壁も、壊してしまって」
もう痛くはない、というリベリオの手をステラは包むように持ち上げた。
「私は本当に、何一つ危険なことはなかったんです。リベリオ様のほうがずっと、しんどい思いをされてたじゃないですか……」
目頭が熱くなって、眼鏡の内側に水滴が落ちた。
「指輪なんか、しなくてもいいんです」
手袋を着けられない両手がこうならば、指輪などずっと着けずとも構わない。涙声で鼻を啜り上げるステラに、リベリオが慌てる。
「どうか、貴女が気に病まないでほしい。……フェルリータに出向く前、マリアーノ殿下とアマデオに『目が開いてない』と言われて」
「……はい」
「フェルリータでハル様にも言われて、カルミナティ女史やミネルヴィーノのご家族やフランキ商会を見て、スパーダを捕らえて少しばかり目が開いたと思った」
本来の目的はそれで終わりだったはずだ。魔石宝飾の経緯を明らかにして、ついでにちょっと知見も広げたりして。
「それなのに、どうして母が巻き込まれたのか、どうしてユリウス伯父上が母を巻き込んだのかが分からない。……俺はローレ家の、何も見ていなかった」
リベリオはおろかローレ家の誰にも分からないからこそ、査問会で国王陛下の御前に引き出すという賭けをすることになっているとしても。
「……ユリウス様がどうしてこんなことをされたのは分かりませんが」
と、ステラは前置いて続ける。
「リベリオ様のせいでないことだけは、分かります。だから、リベリオ様のしんどさは『自分がもっと何か出来たのではないか』という苦しさです」
リベリオが鳶色の目を見開き、ステラは胸を張ってみせた。
「私は、自分の足りなさに絶望したことのある先輩ですよ」
周囲が誰も責めなかったからこそ、自分を責めるしかなかった。もっと早く気づいていれば、もっと何かが出来たのではないかと思う気持ちはステラにとって馴染みのあるものだった。
「婚約を破棄されたのはステラのせいじゃない。ジュスティーナ殿もジーノ殿もそう言っていた。俺も、そう思う」
「ええ、だから私も言います。ルクレツィア様が利用されたのは、リベリオ様のせいじゃない」
丸く見開かれていた鳶色の目がぐしゃりと歪む。紫紺の睫毛が伏せられて、滲んだ涙が頬を落ちた。
リベリオの頬にハンカチを当てながら、男性が泣くところを見るのは初めてだなあとステラは思う。
「私もリベリオ様も一人で出来ることが少なくて、いつも誰かに助けてもらっていて。でも、私は一番先に大切な人の力になれた」
紙切れ一枚分の特権は、リベリオが先に与えてくれたものだった。
「ミケさんに、リベリオ様の妻だって名乗ったんです」
「……貴女の夫だとも名乗れないような、情けない騎士で、すまない」
「いいえ、苦しいときに一緒に泣いてくれる貴方だから」
喜びを分かち合えることは素晴らしいことだ。けれど、悲しみを分かち合うこともまた必要で大事なことだ。
ステラの手が握られ、掲げ持つようにリベリオの額にあてられた。
「貴女と並んで歩ける人間に、なりたい」
「これからいくらでも並んで歩きましょう。私たちは、夫婦ですから」
「……病めるときも、健やかなるときも」
「富めるときも、貧しきときも」
よく覚えているなあと思う。でも、ステラとて覚えているのだ。大事な、忘れ難い言葉だからこそ。
「互いを睦み、互いを敬い、慈しみ、損なわず」
「互いの在り方に悖らぬことを」
誓います、という互いの言葉が星空に溶けた。