7-17:スターダスト・リベリオン
聞くに、堪えなかったのだ。
ユリウス・ローレは全てに恵まれた男だった。
カルダノ王国三大公爵家の一つであるローレ家の次男に生まれ、効率王と次王に仕えた『北の大白鷲』ゴッフリート・ローレを父に持つ。偉大な父に劣らない才覚を持ち、王都で北方騎士長を長く務め、『騎士の鏡』と呼ばれたのち故郷に戻りローレの財務長官を担っている。
ローレの財務長官とは王都に続く大都市ローレの金融を一手に担う立場にあり、動かせる金額も権限もそこらの小国程度では比較にもならない。
周囲の人々はユリウスのことを人生に一点の陰りもない騎士の鏡と讃え、憧れ、順風満帆の人生だと褒めそやした。
ローレ公爵家の次男として産まれたユリウスは、幼いころから美貌も才覚も際立っていた。端正な顔立ち、恵まれた身体能力、ずば抜けた知能、十を越える頃にはローレ城の家庭教師では手に余るとされ、前倒しで貴族学校に入学した。
「ユリウス様の才能は素晴らしいものです。ユリウス様は将来、軍部と文部、どちらに進まれたいですか?」
「どちらでも構いません。私は、人々の役に立つ仕事がしたいのです、先生」
ユリウスの答えに、教師は感極まったように頷いた。
「貴方のような方がローレ公爵家にお生まれになった事を神々に感謝致します」
事実、ユリウスにはそれだけの能力があった。騎士であっても官僚であっても、全ての分野で位を極められるだけの才覚があり、そしてそれを自らのためだけに行使しない高い志しがあった。
ユリウスが高等部を卒業しようかという頃、妹が産まれた。数年前に産まれた第一王子の誕生に伴い、貴族界隈では娘を得ようとする動きが活発になった。十数年後に来るであろう王太子の妃を狙う算段だ。
現ローレ公爵ゴッフリートはすでに王国内で確固たる地位にあり、娘を王妃に据えたいと考えるような人物ではない。けれど現国王とゴッフリートは王と臣下である以上に強い友情で結ばれていた。そこには自らの子供同士を結婚させたいという、ごく個人的な思いがあったのやもしれない。
グレゴリオとユリウスを育て終えた母が、奮起して産んだ歳の離れた妹。ローレの血を濃く表す紫紺の髪、鳶色の瞳、愛らしい赤子は王太子妃となるのに十分な素養を持っていた。
同じくして、高等部を卒業したユリウスも妻を娶った。ローレ公爵家を支える重鎮の子爵家の令嬢だった。ユリウスの婚姻には共にローレを支えるという意思があり、誰しもが冴えない長男ではなくユリウスが次代のローレ公であると見なしていた。本人たちでさえ。
風向きが奇妙に変わり始めたのは十五年余りが経つ頃だ。愛らしかったはずの妹は、入学した貴族学校で腫れ物のように扱われていた。武門の長姫でありながら楽器以外を持とうとせず、貴族の義務である交流は誰かが話しかければ返事はするものの会話は続かない。ローレ公爵家の姫君と交流を持とうとした高位貴族の子息たちも、数年が経てば諦めた。
ルクレツィアが遠巻きにされる一方、ユリウスの姪、グレゴリオの娘であるマリネラが周囲の注目を集めていた。ルクレツィアと三つしか違わぬマリネラは、かつてのユリウスに勝るとも劣らない才と讃えられた。
ルクレツィアとマリネラが絶えず比べ続けられるその外で、マリネラと同い年であったユリウスの娘はただただ埋もれた。恥にも誇りにもなれず、誰にも見出されることのないままに。
「ごめんなさい、ごめんなさい、お父様。マリネラ様に勝てないの……あんなに、あんなに勉強したのに……」
試験の結果を手に泣きじゃくる娘を、ユリウスは抱きしめた。
「お前が必死に勉強していたことは、私が誰よりも知っているよ。学年で三番じゃないか、胸を張りなさい、私の自慢の娘だ」
「でも、でもマリネラ様はずっと一番なの。私が、私がもっと勉強すれば……」
ごめんなさい、ごめんなさい。
出来の悪い娘では決してなかった。次代の公爵夫人を見越しユリウスの妻になってくれた人は美しく聡明で、産まれた娘も親の欲目を差し引いても平均よりは遥かに姿も才覚も優れていた。
五番より内しか取ってこない娘に、けれどマリネラという化物と比べるものではないよとは、ユリウスとて言えはしなかった。
「グレゴリオに家督を継がせる」
ルクレツィアが二十になったとき、偉大な父からの言葉をユリウスは半ば予見していた。
「ヴァレンテ王子殿下に、マリネラを嫁がせるのですね」
「そうだ。ルクレツィアを王家に嫁がせることなど出来ぬ、ローレ家末代までの恥になるぞ」
自らの娘を恥とまで言い切った父の顔は、怒りに満ちていた。
「では、グレゴリオ兄様がローレ公爵と成られるのですね」
ユリウスはその明晰な頭脳をもって、父がこれからどうするのかを言い当てた。グレゴリオに家督を継がせることによって、マリネラは次代のローレ公爵の長女となる。
「……すまぬ、ユリウス、……すまぬ」
深い苦渋の中、搾り出すような謝罪にユリウスは父の手を包み首を振った。
「そのお言葉だけで十分です、父上。己に厳しい父上とて、どれほどの決断だったでしょう。マリネラは良き王妃となり王と国を支えることの出来る娘です」
すまぬ、ともう一度謝罪が零れた。ルクレツィアにそうあって欲しいと誰よりも願ったのは、この父であったのだ。
「マリネラがヴァレンテ王子殿下に嫁ぐことになった。数年後にグレゴリオ兄様がローレ公爵に成られるだろう」
美しい妻の顔から色が失せ、ドレスの中で足が崩れた。絨毯にへたり込もうとした妻を咄嗟に支えれば、女性とは思えないような力で胸元を掴み上げられた。
「どうして私達の娘を推挙して下さらなかったの⁉︎ 貴方は私達の娘が可愛くないの⁉︎ どうして、どうしてそんなに平静で居られるのです⁉︎ どうして……」
ユリウスを詰る声は次第に涙が混じり、最後は消え入りそうに小さかった。
「……ゴッフリート父上は、ルクレツィアを推挙なさらなかった」
娘を切る判断を下した父の前で、ユリウスがどうして自分の娘を推挙出来ようかと。
言葉にしないまでも分かったのだろう、涙に塗れた妻の顔がぐしゃりと歪んだ。
「自分達の娘がマリネラ様に劣ると、思ってしまった……ユリウス様も、わたくしも」
ユリウスの胸を押して離れた妻が、床に膝をついた。
「何を……!」
妻が額づいた床に、涙が落ちた。
「マリネラ様のように優秀な娘を産めず、申し訳ございません」
「やめろ! そんなことはしなくていい。貴女が謝るような責ではない」
「離縁して下さい。私よりも若く美しい妻を娶れば、ユリウス様はきっと」
ごめんなさい、ごめんなさい。
床に額を擦り付け、泣きながら謝り続ける妻に、その肩を起こして抱き寄せる以外の何が出来ただろう。
「貴女は私に三人も子をくれた。感謝している。公爵には成れぬだろう不甲斐ない身だが貴女と子らに苦労はさせない、どうか傍に居てくれないか」
妻に返した言葉は心からの本音であった。良き妻、良き母である伴侶を見限り、若い妻を娶るような恥知らずな人間には成れなかった。
「私とともに王都へ参ろう。王城から北方騎士長の役目を打診されている。ローレのように、陰で口さがないことを言う者も居るまい」
マリネラが王家に嫁ぐことが広まれば、ルクレツィアが嫁がないのは妥当だと言われる一方、ユリウス達の娘が引き合いに出される可能性がある。
騎士と官僚を目指していた息子二人はローレに留まることを選んだため、ユリウスと妻は王都の貴族街に家を構えることにした。身の振り方に娘は悩んでいたがマリネラと同じ王都には住まいたくなかったのだろう、数年の間を置いてローレ近郊の伯爵家に嫁ぐことに決めた。
王都での暮らしは目新しく、ローレ公爵よりも北方騎士長の方が王都の民にとっては身近だったこともあり、疲弊していた妻は随分と楽になったようだった。
二十五年が経った。
如才なく王子と王女を産んだマリネラは押しも押されぬ王妃となり、ユリウスは国王ヴァレンテ・カルダノの兄のような立場として覚えもめでたく『騎士の鏡』と讃えられた。
年に一度母から届く時節の手紙に、その年は父からの文も入っていた。
ローレの財務長官が高齢で倒れたこと、可能ならばユリウスにその後任を任せたいこと、ルクレツィアの子供をローレ城に引き取ったことなどが書かれていた。
ローレはミオバニア山脈に面し数多の鉱山を持っている。動かせる金額と権限の大きさから、ローレの財務長官はローレ家の親族から選ばれるのが通例だ。
ルクレツィアの子供については、ユリウスは全くの初耳だった。この二十五年間、意図的にローレの情報を拒んでいた部分もある。妹はユリウスが知らぬ間に嫁ぎ子を産んでいたらしいが、それは明日の天気より瑣末なことだった。
「ローレの大叔母上が倒れたらしい、旅行がてら様子を見に行かないか」
高齢で倒れた財務長官はユリウスにとっては大叔母にあたる。二十五年以上も会っていない大叔母の顔は、思い出せなかった。ローレにはもうルクレツィアもマリネラも居ない。妻も了承し、久方ぶりに里帰りをすることにした。
妻の実家に顔を出し妻を預け、二十五年ぶりに訪れたローレの街は変わらない姿でユリウスを迎えた。背後に聳え立つミオバニアの山嶺、堅牢な石造りの城は懐かしかった。
「大叔母上が倒れたとありましたが」
「ああ、年波には勝たんな」
そう頷くゴッフリートも八十を超え、紫紺であった髪は白く染まり、厳しい眼光を包む皺は深い。偉大な父親の老いをユリウスは初めて感じた。
「お前にローレの財務長官を任せたい。受けてはくれまいか」
成りたい者が多すぎる故に任せられないのだと、ゴッフリートが頭を下げた。
「頭を上げて下さい、父上。私に出来ることであれば。ですが、現在私は王都で北方騎士長を務めています、そちらにも後任が必要です」
「考えている。リベリオを王都に出そうと思う」
「リベリオ?」
聞いたことのない名前だった。王都の北方騎士長も、その役割ゆえにローレ公爵家の親族か近しいところが望ましい。
「ルクレツィアが産んだ子だ、来年には十八になる」
妹は男児を産んでいたらしい。
「婿が逃げ、ひどい有様を嘆いた村長から文が来た」
ひどい有様がどの程度のものかは分からなかったが、あの妹にまともな子育てが出来るとも思えなかったのでユリウスはただ頷いた。
「あの娘が一人で子を育てることなど出来ぬ。昨年、二人とも引き取ってきた」
「二人……」
文には人数までは書かれていなかった。
「リベリオはグレゴリオの所から北方軍の訓練に通っている。リリアナは……学校から戻っている時間か。会わせよう」
ゴッフリートが頷き、扉の外にリリアナを呼ぶように声を掛ける。
首の後ろがチリチリと焦げるような、嫌な予感が、した。
リリアナとの対面ののち、ユリウスは二十五年ぶりに娘の嫁ぎ先に顔を出した。
ユリウスにとっての孫が産まれていることは手紙で知っていたが、ローレに戻る機会がなかったのだ。娘が嫁いだ伯爵家は穏やかな人柄で知られ、娘から来る手紙にもなんら不都合や苦労が書かれていなかったこともある。
夜分遅くに着いてしまったユリウスを、娘夫婦と孫は暖かく出迎えてくれた。
「さあ、ユリウスお祖父様にご挨拶なさい」
すっかり母親の顔をした娘が、孫をユリウスに紹介する。
初めて会う孫は、利発な女の子だった。嫁ぎ先の伯爵に似た金茶の髪、瞳に少しだけ鳶色が混ざっていた。
「すごく利発で、ちょっと元気が過ぎるところもありますが、自慢の娘です」
娘の夫である伯爵が娘を誇らしげに自慢する。その言葉に嘘は見えず、良い所に嫁いだのだと安堵した。
着いたのが夜分ということもあり、孫娘はすでに船を漕いでいた。
「ああ、眠いのだね。遅くにすまない」
「いいえ、部屋まで送り届けて来ましょう」
伯爵が孫娘を部屋まで送るために席を立ち、応接室にはユリウスと娘だけが取り残された。
「あの子、学校が楽しいらしくて」
「それはいい。良い所に嫁いだな」
「ええ、あの子が本当にかわいくて。本当に幸せで、私は、幸せな、はずで……」
娘の鳶色の瞳が弓を描く。微笑んだはずの目尻から、涙が落ちた。
ユリウスはその顔を知っていた。二十五年前のあの夜に。もう見る事はないと思っていた涙と、幸せになった娘から聞くことは無いと思っていた言葉。
「リリアナ様のような娘を産めなくて、ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。
娘が謝り泣いたとき、何かがふつりと切れたような気がした。
分かっているのだ。ユリウスに出来ることは何もなく、妻と娘自身が他人と自分を比べずに在るしかないと、分かっているのだ。
ユリウスは二十五年ぶりにローレに戻り、王都にはリベリオという名の甥が向かった。北方領を一手に回す財務長官の仕事は北方騎士長よりも多岐に渡り、騎士としても官僚としても申し分の付けようのないユリウスの帰還はローレに歓迎された。
あらゆる貴族、商人がユリウスの元に挨拶に訪れ、ユリウスと交流を持とうとした。ユリウスが握り動かせる金額はそこらの小国よりも多く、繋がりを持ちたがる人間が殺到した。
文字通り山と積まれた書類を片付けながら、ユリウスはふと、先日訪れたスパーダという商人の話を思い出した。具体的な話ではない、仕入れ先での珍しい出来事を話題にし、いつでもお呼び立て下さいと挨拶をして去っていっただけだ。
執務机の引き出しを開ける。珍しいものですのでと贈られた魔石は、滑らかな切り口をしている。指先をあて魔力を込めれば、切り口に夜空のような紫がじわりと滲んだ。
ただの消耗品であるはずの魔石が、やけに蠱惑的に見える。
ああ。
「――宝石のようだ」
呟いた声は、毒のような甘さを含んでいた。
この矢は、どこへ届くのだろう。考えつく限りのどこへ届いてもいいような気がした。どこへ届いても、この鬱屈した今を少しだけ晴らしてくれるような気がした。
どうか、誰か教えて欲しい。斯く在れと望まれ、輝かしいと賞賛され、己に悖ることなく正しく在った日々の。
何を誤っていれば、自らの今を認めることが出来たのだろうかと。
七章探訪者編をお読み頂きありがとうございました。ご時世の煽りを受けてしまい全く時間が取れず七章だけで半年も掛かってしまったことに震えています。
次回八章は最終章です。
4/1(土)より連続更新の予定です、残り十数話ほどですが最後までお楽しみ頂ければ幸いです。