1-9:夜の終わりと朝の始まり
「これをステラに」
出発前夜、両親に呼び出されたステラが受け取ったのは美しい木箱だった。食堂の台に置かれたのは両の掌を広げるよりも幾分大きい木箱で、段数は三段。持ち手と鍵も付いており、大きめのお弁当箱にも見える。
木工は専門ではなくとも器用な父だ。これも父の手製だろう。
「開けてみなさい」
「はい。……わあ」
一番下の段は作業箱だった。手持ちの金工用の工具が入れられるスペースと、携帯できる火種と小鉢が揃えてある。
「王都にも職人は居るだろうが、指輪の直しや、鎖の修理くらいはこれでできる」
「ありがとうございます、父さん……!」
金属の枠を一から作るには火力が足りないが、大きさを直したり、ちょっとした修理には十分な工具が入っていた。
「二段目は私からよ」
二段目は、木箱の内側に柔らかい布が張ってあった。中には、貴金属を磨くための布類と手袋とピンセットとルーペ、それから。
「あ、あの、お母様、これは」
髪や襟元に結ぶリボンが二本、白と紺のどちらも仕事に使えるシンプルなものだ。だが、問題はリボンではない。リボンに通すブローチ、父が得意とする銀の枠に、親指の爪ほどの石が嵌っている。
白ワインのような淡い黄色の宝石はシャンパントパーズと呼ばれ、商売と豊穣の石だ。表面は父の得意とするローズカット、複雑な多面体がキラキラと煌めいている。
「王城で着けるには十分でしょう、髪か胸に飾りなさい」
「高価すぎませんか…⁉︎」
ミネルヴィーノの店頭なら、金貨三十枚か四十枚か。
「いいえ。まがりなりにも貴女はフェルリータの王立学院の代表で、ましてや宝飾店の娘です。これくらいのものを身につけていなさい」
それが身を守るのだと母は言った。
「使用人も身なりや立ち振る舞いで評価されます、それが王城勤めです」
「……はい」
実家が貴族である母の言葉は、実感が伴っていて重い。ステラは姿勢を正した。
「清貧、真摯だけでは通じないことも多くあります。きちんとした身なりをしていなければ、ぞんざいに扱われることもあるでしょう」
「はい」
「もう一つはこれを」
母が差し出したのは真新しい銀の懐中時計だ。フェルリータの商会街では子女が成人して働き始めるときに、時計を贈る風習がある。
「工房には入らなくても、お前はうちの娘だ。それはしっかりと持っていきなさい」
震える手で受け取った懐中時計、その裏側にはミネルヴィーノの商会紋が掘ってあった。父を表す鉱石と、母の実家の家紋を合わせたミネルヴィーノの商標だ。
目の裏側がジワリと熱くなって、それを誤魔化すようにステラは一番上の一段目を開けた。
「……空っぽ?」
「そこには貴女の大事なものを入れなさい。大事なものをたくさん見つけるように」
「大事なもの……」
ハッ、とステラは自分の頭に手を伸ばした。前髪を留めるピン、背に小さなガラス飾りが乗ったそれは、エリデがくれたものだ。
「まず、これを入れようと思います」
ステラはそのピンと、母から贈られたトパーズの飾りを一番上に入れた。
母は静かに微笑んだ。常日頃、フェルリータの薔薇と謳われる絢爛な笑みとは少し違う、穏やかな表情だった。
「卒業おめでとう、ステラ。父も母も、とても嬉しく思っています」
「お姉様、一緒に寝ても良いでしょうか」
ステラの部屋にアウローラが訪ねて来たのは、夜半も過ぎた頃だった。トランクボックスにほとんどの荷物は入れ終えて、明日来て行く服を机の上に用意していた。
「いいよ、どうぞ」
ステラのベッドは一人用だが、壁際に詰めれば二人で寝れないことはない。アウローラが持ってきた枕をベッドに置いて、腰掛けた。
「アウローラと眠るのは三年ぶりくらいかしら」
「私が中等部に上がってからは、一緒に眠らなくなりましたものね……最初は、不安で仕方ありませんでした」
怖くてぬいぐるみをずっと抱きしめていたと、アウローラは言う。
「お姉様は、王都に行かれるのは怖くありませんか?」
「……全く不安がないわけでないけど、高等部に入って、どんどん目が悪くなっていって……本の文字も、人の顔もどんどん見えなくなっていった、あの時よりは怖くない…かなあ」
「……私は、お姉様の役に立てませんでした」
「何を言ってるの! アウローラはいつも私の手を握って一緒に登校してくれて…それが、どれだけ心強かったか…」
ステラの中では役に立たないと家族に指を刺され、どこかの愛人か修道院に出される覚悟をしていた、そう正直に言うとアウローラはため息を吐いた。
「それは想像力が豊か過ぎますが、でも、そういう家があるのは事実ですものね…」
ステラが今こうしていられるのは生まれに恵まれたからで、明日から王都へ出発できるのは商業科でエリデに出会う環境があったからだ。それは忘れてはいけない事実だった。
「婚約のことも、ごめんね。役に立たない姉で」
「そんなことはありませんわ。……それに、私はちょっとワクワクしているのです」
「ワクワク?」
「婚約先はフェルリータ一の服飾店です。どんな服を着れるのか、作れるのか。ゆくゆくは共同で商品を開発することもできるかもしれません。…ワクワクしませんか?」
ベッドに上がって、壁側に潜り込みながら語るアウローラの声は弾んでいる。心からそれを楽しみにしている声だった。つくづく、この妹は商売人に向いている。
「じゃあ、私はお給金でアウローラの店でドレスを作るのを目指すことにするわ」
「ええ、ええ! お待ちしておりますわ」
ステラも灯りを消してベッドに潜り込んだ。明日の準備も終わってしまって、少しばかりの寂しさがある。
枕に散ったステラの栗色の髪、その髪先にアウローラが指で触れる。
「私は、お父様の温かい髪色が大好きで。計算の早いお姉様のことがずっと羨ましかったのです」
それは初耳だ。ステラは部屋の暗がりの中で目を丸くしたが、同じようにアウローラの髪先に触れた。ツルツルと指触りの良い黄金の髪だ。
「私も、お母様の華やかな髪色が大好き。接客が上手なアウローラが羨ましかったわ」
どちらともなく笑いが漏れた。
「おあいこね」
「おあいこですわ。……ちゃんと、手紙をくださいね」
「ええ、ちゃんと書きますとも。……楽しみにしてて」
頑張るから、とステラの声が暗闇に溶ける。春冷えを忘れるような、温かい夜だった。
翌日は目が覚めるような快晴だった。フェルリータの西側の外壁にある馬車の乗合場は、これから街を出る人々で賑わっている。
王都行きの停留所の中から、ステラが予約していた馬車団に寄って、御者に旅券を渡した。王都までは馬車で半月という旅程だ。フェルリータから王都まではある程度街道が整備されているため、丘陵地帯を抜けながら途中途中で宿場街に寄ることになる。
ステラの見送りは家族とエリデ、それから商業科の担任と学長が来ていた。
「紹介状と筆記具は持ったか?」
「紹介状だけは無くしてはいけませんよ」
これは担任と学長だ。手持ち鞄の中を見せてもう一度確認すると、二人は安心して頷いた。
「眼鏡の宣伝よろしくね! はい、これ贈り物」
「が、頑張る!」
エリデからは皮の眼鏡ケースを貰った。髪のピンも装備済みだよ、と頭を見せるとエリデは嬉しそうに笑った。
「お姉様、知らない人にホイホイ着いて行ってはいけませんよ」
「……はい」
アウローラの言葉は今日も容赦がないが、最後には別れを惜しんで抱きついてくれた。
「王都に着いたら、ガラス工房を探しなさい。眼鏡は大事だ」
これは父だ。ステラは首がもげるほど頷いた。
「お給金が貯まったら、もう一つ作ろうと思ってる」
「ああ、それがいい」
眼鏡無しでは日常生活すら支障がある。王城に勤めるに当たって、お給金を頂いて眼鏡を作る、は当面の目標とも言えた。
「ステラ、あなたは当商会の代表でもあるのです。その自覚を持って行動をなさい」
「はい、お母様。……お母様?」
少しの間を置いて、母がそっとステラを抱きしめた。
「色々と注意や心得を伝えましたが。元気で過ごしなさい、ちゃんと手紙を書くのですよ」
厳しいが、情の厚い母だ。抱きしめられたのは、いつ振りのことだろうか。もう、すぐには抱きしめてもらうこともできなくなるのだなあ、とぼんやりと思う。
「はい、お母様。ちゃんと手紙を書きます」
別れは惜しいが、出発の時間だ。荷物を運び込んでもらって、馬車の中に入った。幌窓から、見送る人々が見える。
「行って来ます…!」
ゆっくりと馬車は出立する。家族の顔が見えなくなるまで、ステラはずっと手を振り続けていた。