7-4:商いの坩堝
思い返せば、宿屋とは縁遠い人生であった。
湖水の村では屋敷の干涸びた寝床よりも、馬小屋の藁の上の方が寝心地が良かった記憶しかなく。北方軍に入った後こそローレ城あるいは王都で寮のベッドを与えられたが、行軍や訓練では野宿が多い。北方騎士長になってからは視察の日程を決めはするものの、宿を手配するのは文官の仕事だ。
結果、民間の宿屋に個人で泊まるのは初めてであるリベリオは、少しばかり緊張しつつ扉を開いた。王都の宿でも見られる、ごく一般的な作りだ。玄関から食堂兼酒場が広がり、隅に宿に上がる階段がある。商人が利用する宿であるので設えは安くなく、飴色のカウンターの中で老齢の店主が帳簿を付けていた。
「もし、ご主人。数日滞在する予定だが、部屋は空いているだろうか」
閑散とした食堂でテーブルを磨いていた若い女性が、リベリオと連れを見て分かりやすく相好を崩した。
「いらっしゃいませフェルリータへようこそ! ご滞在ありがとうございまーす! 部屋は一人用と二人用がありますがどうされますかあ?」
テンションが高い。
「一人用をふた」
「二人用の部屋を頼む。応接室がある部屋は空いておるか?」
女性店員の勢いに怯んだリベリオを遮り、返事をしたのはハルだった。客商売の人間は、誰を相手にするべきかを見た目と関係性で判断する。この場合はハルの方が主人であり選択の主導権があると、宿屋の店員達は判断した。
「空いて御座います。四階の角部屋をご案内致します」
店主が鍵を用意する間に馬を裏手に預ける。記帳と前金を済ませ、女性店員の案内で階段を上がる。ちなみにリベリオはマリアーノが用意した適当な身分を記帳したが、ハルも似たようなものだろう。
案内されたのは四階の角部屋だった。要望通り応接室があり、主寝室とは別に従者用の寝室もある。寝室まで共同は遠慮したい、裕福な商人とその従者だと判断した店主に感謝しつつ鍵を受け取った。
「お昼がまだでしたら食事をお運びしましょうか?」
「いや、観光に出る予定だ。夜は下の食堂を利用させて貰う」
食堂に顔を出すと明言したリベリオに、女性は足取り軽く階段を降りて行った。
さて、とリベリオは室内を点検する。広めの応接室にはローテーブルの他に、文机としても使えるダイニングテーブルも備え付けられていた。贅沢なガラス窓の外には金属製の格子があり、盗難と侵入に強い。
着替えの類を従者用の寝室に放り込み、間取りは、不審な物は、進入経路はと逐一点検するリベリオを、ハルは椅子に座って眺めていた。
「……そろそろ満足か?」
「ええ」
「この俺を待たせたのだ、早く見せろ」
「……」
待ってくれとは頼んでいない。そもそも、同室のつもりもなかった。
だが、何をとは尋ねずとも分かった。リベリオにとっては不思議なことに、ハルの言葉は端的に過ぎてもその意図を理解するのに困らない。この場にアマデオが居れば、お前と同じだからだよと突っ込んだ所だが、生憎とこの場にアマデオは居なかった。
弓を入れて持ち運んでいるケースの内側、布張りの隠しポケットからリベリオは皮袋を取り出した。小さな皮袋の中から所望された物を出し、皮袋の上に置いてテーブルに乗せた。
美しい紫紺の魔石宝飾。涙型にカットされたそれは、披露宴でリベリオが威力を試した耳飾りの片割れだ。
食い付かんばかりに、ハルはテーブルに身を乗り出した。他人を面白がるばかりだった海色の目が、爛々と輝いている。正直な所、グローリアの名は首を突っ込む理由に過ぎないとリベリオは考えている。この件に関与したいが八、グローリアのためが二というところか。
「……手袋をお貸ししましょうか」
「誰に言ってる」
膨らみのあるズボンから手袋とルーペが取り出される。皇統でありながらも商人と名乗ったのは全くの嘘でもないらしい。白絹の手袋を嵌めルーペを扱う手つきは、付け焼き刃でステラに習ったリベリオよりも余程堂に入っていた。
角度を変え光に透かし、あらゆる方向から魔石宝飾を検分して、隣国の皇太子殿下はホウと感嘆の息を吐いた。
「素晴らしい。こんな悍ましい物をよくぞ作ろうと思ったものだ」
「第一王子殿下もハル様と同じような事を申されました」
「グローリアの兄か。一言二言話した程度だが、アレならそう言うであろうな」
同族、という言葉が脳裏に浮かんだが、もちろん口には出さなかった。
「お前、これをよく俺に見せたな?」
「再現性がありませんので」
と、リベリオは答えた。
リベリオはレオが作った不恰好な魔石宝飾も持って来ていたが、そちらではなくこちらを提示した。宝飾品に見えなければ、グレゴリオが購入しマリネラ妃が装着して謁見に出た事実が揺らぐ。
レオという未熟な再現性をリベリオは提示しない。そこまでの情報を、この相手には開示出来ない。
「……再現性、なあ」
紫紺を光に透かすハルの口調には幾分かの含みがあったが、追求はされなかった。
「我が帝国にこれを再現する人材が居ない事を、嘆くべきか喜ぶべきか」
静かな声音だった。向かいに立つリベリオを揶揄するでも、問い掛けるでもない、為政者の独白だ。
「こんなものは初見では防ぎようがない。報を受けてからグローリアの所持品は全て点検したが、亡くなったという侍女の墓に金品を供えてやりたい気分だ」
早口の後半は吐き捨てに近かった。ローレ公とマリネラ妃に同情する、という言葉にリベリオは頭を下げた。
「嫁御がミオバニアにと言っていたな。とすると、お前はこれの流通経路を探しにフェルリータへというところか」
「……」
説明する手間が無い事を嘆くべきか喜ぶべきか。リベリオは沈黙を返したが、答えは知れたものだったろう。
「アテはあるのか?」
「この耳飾りは、ローレ家に昔から出入りしている行商から伯父が購入しました。その行商が、ローレに訪れる前にフェルリータに寄ったと」
「アテというには弱いな」
「はい」
けれど、他に手掛かりが無いのも事実だ。
「商人の名はポルポラ。伯父はフェルリータ製の服をポルポラから購入したこともあります」
「フェルリータに買い付けの拠点くらいはありそうだ」
「ええ。本人を確保出来るのが一番ですが、最低でも行動を追いたい」
「なんだ、結局エリデ頼りではないか」
深い溜息と長い沈黙とともに、リベリオは現実を認めた。
「……現状、残念ながら」
少なくともミネルヴィーノ一家が帰還するまでは、エリデに頼るのが最も効率が良い。認めてしまえば、あとはどこまでエリデに情報を開示して協力を要請するかの枠決めになる。無表情の内側で懊悩していると、耳飾りをもう一度今度は顔の高さで振っているハルが目に入った。
「気になることがありますか」
「この宝石もどきだが」
「魔石宝飾、と我々は便宜上呼んでいます」
「……魔石宝飾の出来が良すぎて、どうにも自由度が高い」
「自由度」
とは。
リベリオが繰り返し、ハルが頷く。
「自由度が高い、高すぎる。ローレ公に売りつけたとして、そこからの選択肢があまりに多い。ローレ家はだいたいお前のような色合いとグローリアのような顔なのだろう?」
「はい」
マリネラ、リリアナ、グローリアのうち、グローリアだけは黒の髪と金の目をしているが、三人とも顔立ちは良く似ている。
「ローレ家の女の誰にでも似合う。誰に贈るかを決めるのはローレ公だ、つまり」
「グローリア様に贈っていれば」
「死んでいたのは俺とグローリアだったかもしれん。……ああ、父も狙えるなあ」
イズディハール皇太子の父、それは帝国の皇帝陛下という。
「ローレ公の贈り物というのはそういうものだ。お前は弓の名手なのだろう? 狙えるものが沢山あったら、どうする?」
「優先する順を決めます」
確実に仕留められる先を、最も利益をもたらすものを。
「全部大物であれば?」
「……」
リベリオには答えられない。王国の国王か帝国の皇帝か、両者に優劣をつけることが出来ない。
「……価値が同じ商品のどちらかを選ぶとき、客が何を基準に選ぶかを知っているか?」
「いいえ」
「好み、だ。お前に縁遠そうなものだな」
価値が同じ為政者のどちらかを選び暗殺しようとする。人はそれを、私怨、もしくは私欲と呼ぶ。
リベリオに最も縁遠く、理解の出来ない感情だった。