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エリデ・カルミナティの朝は早い。
朝食よりも先に工房に入り、ガラスの材料になる砂や灰の残量を点検する。五月の半ばのこの日は、灰が少し減っていたので午前中に問屋に出掛けようとエリデは決めた。
「おはようエリデ、今日も早いねえ〜」
購入する分量を書き付けていると、奥から父が起きてきた。店主かつエリデの師匠であるのでゆっくり起きて欲しいと伝えているのだが、口調に反して父親は早起きだった。
「おはよう、父さん。今日は朝から問屋さんに注文に行って来るね」
「ありがとう、助かるよ」
「あなた、エリデ、朝ご飯にしましょ」
注文の量を打ち合わせていると、朝食の支度を終えた母が皿を運んできた。
カルミナティガラス工房は家族経営の小さなガラス工房だ。工房と生活スペースは切り離されておらず、この日もいつも通り工房の大きな作業机で朝食を摂った。豆を煮込んだスープにパン、濃い目に淹れたコーヒーが定番だ。
ヴィーテからフェルリータに移住して早二年、新鮮な海産物からは遠ざかったが、小麦と豆、畜産物には恵まれている。
「まだ五月なのに外は暑いわよ。出掛けるなら帽子を被って行きなさいね」
「もちろんよ、母さん。ただでさえ火傷の多い腕なのに、日焼けまでしたくないわ」
「まあ」
野菜のオムレツを追加で運んできた母が、エリデの冗談に楽しげに笑った。
カルダノ王国の中心にあるフェルリータの夏は、日差しが強く蒸し暑い。冬は冬でこもった湿度が雪になる。半島の先にあり海に面しているヴィーテの寒暖差は控えめだったのだと、引っ越して初めて知った。
「ヴィーテって、過ごしやすかったんだねえ……」
「だからヴィーテはどこもかしこもガラス工房になってたわけでしょう」
「そりゃあフェルリータは作れば売れるわよね。何たって魔石が使用不可だし」
「それね、本当にそれ」
供給と競争が少ない都市を求めて移住してみれば、フェルリータはガラス工芸にとてつもなく不向きな都市だった。寒暖差もさることながら、一番の問題は燃料の確保だった。
ガラスを溶かす炉を使うには、とてつもない燃料が必要だ。その昔は木材を燃料とし森の真ん中に工房を立て、周囲の木を使い尽くしたら引っ越すなんて不経済な方法も取られていたくらいだ。
カルダノ王国、もといヴィーテのガラス工芸がここ百年で発達した理由には魔石の発見と普及がある。鉱山から採れる魔石は魔力を込めることで火を起こすことが可能で、再利用も出来る。木炭とは比べ物にならないくらい効率的な燃料だ。
「伝統と工芸を重んじる都市とは聞いていたけどねえ、知らなかったんだよお」
当然の事ながら、ヴィーテのカルミナティガラス工房では魔石式の溶解炉を使っていた。けれど、フェルリータで同じ物を施工業者に依頼したところ怪訝な顔をされた上に市庁舎に通報された。
「大丈夫です、あなた。私もです」
呼び出された市庁舎でフェルリータでの魔石の使用や所持禁止を説明され、そこで初めてカルミナティ家はフェルリータの特殊性を知ったのだった。
ヴィーテの家は売り払ってしまっていて、戻るのも難しい。前にも後ろにも動けずほとほと困り果てていたところを救ったのは、エリデが出会った同級生だった。
「ステラのお母様には、本当に感謝しなきゃ」
家族全員で何度も頷く。二年前に遭遇したとんでもなく目の悪い同級生を、エリデは放っておけずに工房に連行した。眼鏡のレンズを作るくらいならば、大それた炉は必要ない。引っ越して間もない工房でも、回転盤を使ってレンズを切り出すことはそう難しくなかった。
「あんなに御礼を言われるとは思わなかったけど」
「エリデと同い年の子ですよ、眼鏡が無いと辛かったでしょうから」
レンズを作ってあげたエリデの同級生の家は、宝飾店を営んでいた。商会化もしており、カルミナティガラス工房にとって大先輩だ。世間話ついでに炉の設置で頓挫していることを話すと、ミネルヴィーノ商会の会長は手づから施工業者と良質な石炭の仕入れルートを紹介してくれた。
炉のサイズは予定よりも小さくなり、大物を作るための手数は増え単価は上がったが、フェルリータでもどうにか採算が合う溶解炉が完成した。
小物を作り商工会や近隣に挨拶周りをして店としての体裁を整える日々、一年後、エリデは無事に王立学院の商業科を卒業し、レンズをプレゼントしたエリデの友人は王都へ旅立っていった。
「そうだエリデ、問屋さんに行くついでに、ミネルヴィーノさんちの裏にも寄ってくれるかな」
「分かった、内弟子さんにガラス片の配達ね?」
「そうそう。……ステラさんの結婚式に行かなくて、本当に良かったのかい?」
件のエリデの友人は、先日ローレで結婚式を挙げたのだという。エリデにも招待状が届いていたが、新進気鋭のカルミナティガラス工房はフェルリータに移住して初となる貴族の依頼を請け負っていた。内弟子もまだおらず、エリデに遠出されると納期に差し支えたのは確かだったが。
「良いのよ。大事な仕事を放り出して結婚式に来たなんて聞いたら、ステラはきっと困った顔をしたわ」
「そっかあ……」
活動的で人見知りをしないエリデと、一歩後ろに控えがちなエリデの友人は、けれど仕事に対してどこまでも真摯な点がよく似ている。
「よし、じゃあ行ってくる。着替えてくるから、届けるガラス片を出しておいて」
コーヒーを喉に流し込んでエリデは立ち上がった。
身内の結婚式のため休業中のミネルヴィーノ宝飾店だが、裏の工房は開いていて内弟子の二人が留守番をしている。
「エリデ、お花も買って来てくれるかしら」
「午後のお客様用ね。もちろんよ」
ミネルヴィーノ商会は貴族相手の取引も行っている。接客スペースに高級感を持たせるのは重要だと教わり、カルミナティ工房は絶賛試行中だ。
「……灰は注文したし、次はステラのとこね」
正確にはステラの実家である。問屋で注文を済ませ、エリデはミネルヴィーノ商会に向かって歩いていた。
持たされた袋には厳重に梱包されたガラス片が入っている。新規開店したカルミナティガラス工房は、精製したガラスを宝石のようにカットしてもらい、それをアクセサリーに仕立てて気軽に手に取ってもらえる目玉商品にした。
当然、その分の工賃をミネルヴィーノ商会に支払っている。ステラの母と工賃の交渉をしたのはエリデで、随分と融通、もとい手加減してもらった。フェルリータの薔薇と謳われる商会長は辣腕でも知られ、王立学院を卒業したばかりのエリデが対等に交渉出来るような相手ではない。
「いやいや、まけてくれたのは応援してくれてるわけだから」
渡り合うよりも、期待に応えたいとエリデは思う。
夏には早いというのに太陽が照りつけ、首の後ろがジリジリと熱い。帽子を被り直すと、向かう先に人影が見えた。ミネルヴィーノ宝飾店の正面だ。彫刻の施された重厚な玄関扉には、休業の知らせが貼ってあったはずだ。
休業の知らせを見ているのは二人、どちらも若い男だ。裏手に回る側道の所まで進んで、エリデは声を掛けた。
「ミネルヴィーノさんのお店は、しばらくお留守です。裏手の工房に店番の人が居ますよ」
エリデの掛け声に振り向いたのは、王国中から観光客が集まるフェルリータであっても珍しいレベルの美形だった。褐色の肌に淡い金髪、鮮やかな刺繍のストールを身につけている。
甘く垂れた海色の目に微笑み掛けられてドキリとしたが、エリデの前に進み出たのは紫紺の髪の男の方だった。
「関係者の方だろうか」
「友人兼取引先です。しばらく休業のお知らせの通り、友人とご家族は遠方に出られていますが、裏手に案内くらいは出来ますよ」
関係者ではないが、親しくしている取引先くらいは名乗っても良いだろう。内心で頷いて、エリデは側道を指で示した。
「……友人」
何やら考え込んでいる男もまた、整った顔立ちをしていた。日差しに光る紫紺の髪、抑揚の少ない表情の中で、鳶色の目がエリデを見た。
「……もしや、エリデ・カルミナティ女史だろうか?」
「は⁉︎」
エリデにこんな美形達の知り合いは居ない。女史などと、エリデの人生でそんな丁重な呼称もされたことがない。突っ立ったまま混乱していると、男は深々と頭を下げた。
「こちらから名乗りもせず、失礼した。王都から来た、リベリオ・ローレと」
男の姿にも顔にも覚えは全くなかったが、その名前には覚えがあった。およそ四ヶ月前、王都から届いた友人からの手紙。流暢さとはほど遠い業務日誌のような、その中に。
「ス、ステラの結婚相手さん!?」
反射的に指差してしまったエリデを咎めることもせず。
初夏の日差しの下、鳶色の目が少しだけ緩んだ。