6-8:リリアナ・ローレ②
リリアナが祖父に引き取られて、二年が経った。
成人した兄はローレから王都に出向し、北方騎士長を勤めることになった。王都にはリリアナと兄の従姉であるマリネラ妃がおり、戦争を行なっていない現在は危険も少ないからと伯父のグレゴリオが教えてくれた。
兄は年に四度、纏まった金額と手紙を送ると言ってくれたが、学費はさておき兄同様リリアナも生活費を必要としない子供であった。普段着は貴族学校から支給された運動用の揃えがあり、湖水の村で着ていた服と段違いに良質な制服は外出着になった。リリアナの生活は、それで十二分に事足りた。
ある日、ローレ領にある伯爵家のお茶会に招かれた。
リリアナの同級生の家だ。伯爵家の御令嬢らしく、社交術に長けた明るい同級生だった。クラスの全員をお招きしましたと言われてしまえば、リリアナとて断り難い。ローレ家主催の夜会には立っているだけの顔を出してきたが、二年目にして初の茶会出席である。
この茶会に出席して来ますと祖母に伝えたところ、ドレスを超特急で特注しようとしたので必死で止めた。ローレ城には母が幼い頃着ていたドレスが残っており、グレゴリオもマリネラ妃の昔の服をリリアナにたくさん譲ってくれた。着られるドレスが山ほどあると言うのに新調するなど、リリアナにとって勿体ないの極みだった。
当日、リリアナはマリネラ妃の昔のドレスを着て茶会に出席した。淡い黄色のタンポポのようなドレス、腰で結ぶサッシュは鮮やかな青。昔のドレスであるので今風ではないが、大事に保管されていたのだろう生地は色褪せも痛みもなく、とても綺麗だった。
「お招き頂き、ありがとうございます。お初にお目に掛かります、リリアナ・ローレです」
家宰に馬車で送ってもらったリリアナを、伯爵家は当主夫妻と同級生である令嬢、その兄の家族全員で出迎えた。リリアナを茶会に呼べた同級生は自慢げで、そして素直に嬉しそうだった。
「ようこそ、当伯爵家にお越し下さいました」
武門を尊ぶローレ領では騎士式の握手も公式な挨拶に入る。同級生の父である伯爵に握手を求められて、伯爵、奥方と順に握手を交わす。奥方はなかなか手を離してくれずリリアナが怪訝に思っていると、控えめに尋ねられた。
「リリアナ様、今日のドレスは少々クラシカルなデザインですが、もしやマリネラ妃殿下のドレスではございませんか……?」
「はい、マリネラ様が昔着ておられたものです」
「おお! 妃殿下の……!」
奥方の問いに頷くと、伯爵と同級生はおろか、アプローチにいた全員がリリアナのドレスを凝視した。
「ああ、懐かしいですわ。私が貴族学校に通っていた時に、上の学年に妃殿下がいらっしゃったのです。学校主催の茶会にこのドレスを着ていらして、あまりにお美しかったので覚えておりました」
自信なさげに尋ねたのは、それがもう三十年近く前の記憶だからだと奥方は言った。横に立つ伯爵も奥方に続いた。
「私も当時、妃殿下を校舎でお見掛けしたことがあります。リリアナ様は大変優秀であられると娘から聞いております、妃殿下によく似ていらっしゃいますな」
「ありがとうございます」
よく分からないが、伯爵夫妻の口調からして褒められているのだろうとリリアナは判断した。
「リリアナ様、当家の庭を是非ご覧下さい! 料理人もリリアナ様が来られると聞いて、腕を振るいましたの!」
大興奮の同級生に案内されて庭を歩き、用意された菓子と茶を楽しんだ。春薔薇は美しく、菓子も美味しかった。リリアナは剣や馬が好きだが、人と話すのが苦手な訳ではない。呼ばれてしまえば茶会での談話は存外楽しいものだった。
届く招待状全てに応じることは難しかったが、家宰と相談して月に一度はどこかの茶会や夜会に赴くことにした。そうしているうちに、リリアナは不思議なことに気付いた。
出会う人出会う人全てがリリアナを『マリネラ妃によく似ている』と言うのだ。毎月様子を見に行っている母と、リリアナは母娘であるだけあって面差しが似ている。それなのに、母ではなく従姉に似ていると皆は言う。
とどめは、王都から兄と入れ違いに帰って来たもう一人の伯父だった。緩く結ばれた紫紺の髪に端正な顔立ち、周囲の視線を一身に集めるその人はユリウスと名乗った。グレゴリオの少し下の弟の筈だが、十以上は若く見える。
二十五年余り王都で北方騎士長を勤めた伯父は、初めて会う姪の姿を見てゆっくりと頷いた。
「マリネラに、よく似ている」
これまでに何度も聞いた言葉だったが、身内に言われたのは初めだ。リリアナは反射的に訊き返していた。
「ルクレツィア母様には、似ていませんか?」
と。
切れ長の鳶色の目が甘く眇められ、指の長い硬質な印象の手がリリアナの頭を撫でた。
「比べるものではないよ」
手は温かく声は甘く、周囲にいた女性達から悲鳴が上がったが、リリアナは釈然としなかった。踵を返して、その場から離れた。
「『比べるものではないよ』なんて! そんな『比べられない』なのか『比べてはいけない』なのかも、分からないではないですか!」
競歩の如き速さで廊下を歩きながら、リリアナは一人で文句を言う。存外に鬱憤は溜まっていたのだろう、噴き出した文句は長く続いたが、出迎えに人は集中していて廊下にリリアナの文句を聞く者は居なかった。
「大体、比べてくれとも私は言っておりません! 比べているのは貴方がたで、比べられているのは――」
リリアナはそこまで口に出して、ピタリと立ち止まった。
「比べられて、いる、のは……」
ああ。
「母様、母様はマリネラ様と比べられて来たのですね」
月に一回の湖水の村、古びた屋敷で母の対面に座ってリリアナは行儀悪く頬杖を突いた。母の美しい横顔は庭を見ているだけで、正面に座る娘のため息など気にも留めなかったが。
分かってしまえば、不思議なことは何もなかった。
マリネラと三つしか離れていないのに、貴族達の話題に登らない母。マリネラのドレスだと言うと皆が凝視してくるのに、ルクレツィアのドレスだと言うと皆一様に目を泳がせる。皆知っているのだ、療養という名目でローレから出された母が、どんな娘であったかを。
「比べているのは皆で、比べられていたのは私ではなく母様とマリネラ様」
もはや姿勢を取り繕う気も起きない。頬杖をついたまま、自分で入れた茶を啜る。
リリアナは、誰かと自分を比べたことがない。誰かと誰かを比べたこともない。自分にあるのはこの身体ひとつで、誰かと比べられるようなものは持っていない。
母が村の女衆と違うことは分かっていたが、息子と娘を名前で呼んだこともないような人間を、誰と比較が出来ただろう。何の期待が、出来ただろう。
それでも、彼女は兄とリリアナの母だった。
「紅茶、熱いですよ。気をつけて」
リリアナの淹れた紅茶を、母は優美な仕草で口にした。紫紺の髪、白磁の肌、鳶色の瞳を飾る長い睫毛。娘から見ても、自分は母に似ている。会ったことのないマリネラ妃も、同じような系統の面差しをしているのだろう。
「母様、母様はマリネラ様のことを、どう思っていらっしゃいますか?」
その質問に特に意味はなく、母が答えるともリリアナは思っていなかった。けれど
「わたくし、知ったことではありませんわ」
美しい、凛とした声音だった。母の声を、初めて聞いたような気すらした。余りに滑らかな答えであったので、目を限界まで見開いたリリアナは気づいてしまった。
母はこの問いを、幾度となく投げ掛けられて来たのだと。
「……」
母はお花畑に住んでいた。夫はおろか自らが産んだ子供にも興味を持たない母は、けれど自らの置かれた環境に何かを言うこともなかった。己を誰とも比べず、他の誰をも比べず、人を興味で傷つけることもない。母はそれで幸せなのだと医者は言った。
「……そう、そうですね! 知ったことではありませんね!」
母はもういつもの母に戻っていて、先ほどの問答は幻のようだった。
「今日は湖でいい魚が取れたんですよ。ベリーもたくさん取れて、後でクッキーを焼きますね」
リリアナは母のことが好きではない。けれど厭んでもいない。母は誰をも比べず、誰をも傷付けていない。
だからリリアナは、月に一度この屋敷に通うのだ。母と自分、二人分のお茶を淹れるために。