6-4:コンパスを回す
「しっかし、何でステラがミオバニア捜索なんだ?」
とりあえず眠り、リモーネ夫人が庭先に用意してくれた朝食を三人で囲みつつ、塩パンを齧っていたクラウディオが首を傾げた。夫人が宣言通り腕を振るった朝食は豪華で、岩塩を振って燒いた塩パンは絶品だ。レモンの香りのする庭先での朝食は、打ち合わせには些か豪華が過ぎたが、余計な不安や緊張も解きほぐしてくれた。
「私も思いました! ステラお姉様は宝飾室勤務でしたよね?」
捜索を命じられるような訓練は受けていないだろうと尋ねたリリアナに、ステラはフリッタータを喉に詰まらせそうになった。
「リ、リベリオ様からの手紙には何と……?」
「どちらが何処に向かう、護衛を要請する、以外には何も書いてありませんでした」
「……」
流石だ。リベリオの手紙には無駄がなく、無駄はないが必要な説明と注釈も存在しないことは想像に難くない。そしてステラも、他人の事を言えた試しでは全くない。
「ええと、私はとても強い遠視で、眼鏡が無いと二人の顔も部屋の中も定かでないのですが」
「それは知ってる。眼鏡を作って貰うまで、苦労したよな」
久しぶりの説明にクラウディオが頷く。
「王都に来てから、およそ七百メートルより先が鮮明に見えることが判明しました」
クラウディオとリリアナの頭が仲良く傾いた。よく分からない、という意味だ。
ステラは数少ない語彙を駆使し、時折巻き戻りながらも懸命に説明する。こめかみに魔力の凝りがあること、一キロ先の物が十歩先の近さに見えること、近くになればなるほど見えないこと、夜も色こそくすんでいるが形は昼のように見えること。
一通り聞いたクラウディオが、尋ねた。
「その魔力の凝りってのは血の凝りみたいに危ないものか? 治るのか?」
最初の質問がそれであったので、身構えていたステラは安心して笑ってしまった。
「王都のお医者様が診てくれたよ。治らないけど病気じゃないから、眼鏡を掛けて生活に支障がなければ大丈夫だって」
「そっか」
クラウディオは買い付けで国中を回っており、実家に居る時間は少なかったが、優しい兄だ。
「七百メートルより、先、というのは最大どのくらいまで見えるのですか?」
「王都の北端の王城から、南端の港を歩く人の顔や服の柄が鮮明に見えるところまで確認しました」
「およそ四キロの距離ですね」
「えーとコンパスコンパス……」
営業用の鞄から筆箱を取り出したクラウディオが、定規とコンパスを地図の上に置く。庭先にあった作業用の机を傍に運ばせてもらい、地図は常に広げてあった。
「鉱山を見下ろせる位置を目指して、上から探すのが良さそうだな。下からより上からの方が見やすいだろ?」
要領の良い兄はステラの拙い説明にも関わらず、最適なコースを既に検討し始めていた。ステラも慌てて自分の荷物を漁って、事前に持たされていた望遠鏡を机に置いた。望遠鏡は、筒状の物が二本、観測手や斥候が使っている規格だ。
「マリアーノ殿下から持たされた望遠鏡です」
「流石マリアーノ様、ステラ姉様が見えない七百メートル以内は我々が探せと言うことですね」
一本を手にしたリリアナが望遠鏡で丘の下を見て、見え方を試している。
「マリアーノっていうと、……第一王子殿下か⁉︎ ステラお前、何でそんな御方と」
「兄さん、殿下はお美しくて頭脳明晰な御方だけど、近寄らない方が幸せで居られると思う」
「お、おお……?」
少なくとも、ステラは良かったと思えた試しがない。目を掛けられていることが光栄、などと思えるほどステラの神経は図太くない。実感が篭ったステラの嘆きに、クラウディオが怯む。
「マリアーノ様は我々と才知が違いすぎるので、周囲の方々は苦労されると思います」
リリアナの言葉はリベリオと異なり、注釈はあっても容赦が存在しなかった。
「リリアナ様はお会いになられたことがあるので……?」
「はい。殿下はグレゴリオ伯父様の孫にあたりますので、伯父様の館にお忍びで来られたことが何度か」
「ああ、そうでしたね」
余りにもフランクに話してくれたので忘れそうになるが、グレゴリオはローレ公爵閣下で、その娘のマリネラは王妃殿下で、孫のマリアーノは第一王子殿下だったりする。
クラウディオは魔石の採れる鉱山に大きく印を付け、鉱山とその周囲が見渡せるように等高線を確認して、コンパスで円を描いて行った。
「最終的に王都に突き出すことを考えると、ローレの北東から潰して行った方がいいな」
ミオバニア山脈はローレの北側に水平に横たわり、ローレの北西から緩やかなカーブで南に伸びる。山脈の南端が海であり、王都カルダノだ。山脈の稜線は、西の帝国と北の共和国との国境線だ。
クラウディオが回したコンパスの円は十数個、二十に満たない。その大半はローレの北側に点在していて、ミオバニア全域をカバーするようにコンパスを回すと思っていたステラの予想とは異なる。
「兄さん、これだけで良いの?」
「これだけって言っても全部回るのに三ヶ月近くは掛かる。それに魔石を加工してるっていうなら工房が必要だろ、宝石と似たような工程ならだけどよ」
宝石の研磨には機材が欠かせない。少なくとも屋根のある拠点は必要だ。
「そ、そう! そうでした、兄さん!」
ステラは鞄を漁って魔石を取り出した。分かりやすいようにと持たされた魔石は、五センチ程と少し大きめだ。表面はゴツゴツとして不恰好な、何の魔力も込められていない乳白色の塊だ。
「カットの方法が分かりました。魔法で水の糸鋸を出して、それでカットしていました」
「水の、糸鋸……?」
限界まで首を傾けたクラウディオは、椅子から落ちそうだった。ミネルヴィーノ商会で父が行っている宝石の裁断とは、槌とノミである。
「ええと、レオくんが、お兄さんが、水、そう水魔法で……!」
「分かったから落ちつけ。座って、順番に話せ」
「大丈夫です。ゆっくり、一つずつ話して下さい、姉様」
兄はおろか、六つも年下のリリアナにまで諭された。あげく、紅茶のおかわりまで注がれてしまった。まずは座って、ありがたく紅茶を一口飲んだ。
「結婚式にナタリア様が連れて来られた子供を覚えてますか? 濃い青色の髪の男の子です」
「直接話してはいませんが、覚えています。エルネスト様に似た髪色でしたので、ご子息かと」
「その子は、レオ君はミオバニアの集落で焼け出された子供です」
リリアナの眉間が顰められた。近い容姿の大人に保護させておけば子息に見える、というマリアーノ殿下の意図は成功している。
「王都に戻って魔法師団の詰所で皆で相談しているときに、レオ君が魔石を切りました。人差し指の先からとても強い水の線が出て、魔石を断ち切りました」
こう、とステラは右の人差し指で魔石の表面をなぞる。
「エルネスト様が同じことを試みましたが、出来ませんでした」
「……ステラ姉様、その魔石を貸して頂けますか」
「はい」
ステラから魔石を受け取ったリリアナが、テラスを降りて庭に立つ。リリアナの人差し指から魔石に向けて、細い水が打ち出される。リリアナの水魔法にも魔石を切るような威力と持続力は無く、袖元がべしゃりと濡れただけだった。
水浸しになった袖の水気を搾りながら、リリアナはステラに尋ねた。
「……エルネスト様とレオ君の、水魔法の魔力値はご存知ですか?」
「確か、九十を超えたくらいと……」
結婚式で聞いた気がする。記憶をたぐりながらステラは答えた。
「私の水の魔力値は、七十を超えたくらいなのです。どうにか真似出来ることでは、ありませんでしたね」
魔法の魔力値と威力は九十までは直線的な比例だが、九十を超えた辺りから極大的に増すのだと言う。
「同じ魔力値なのに、エルネスト様が出来なくてレオ君が出来たのは何故です?」
手を挙げて質問したのはクラウディオだ。ステラ同様、クラウディオにも魔法の素養は無く、知識も薄い。
「年齢による成長の伸び代と修練度の違いで、恐らくは近くに見て真似できる先生、が……ああ、つまり、探しに行くのはレオ君のご家族ですね?」
自ずと正解に辿り着いたリリアナに、ステラは全力で頷いた。持っている知識と推理力が違う、膨大な余白を想像し正答に辿り着く様はマリアーノ殿下と話しているようだった。
「は、はい! 魔石宝飾を作った、『ミー兄ちゃん』です!」
リベリオが質問して辿り当てたこと、ミオバニアの集落の唯一の行方不明者なこと、レオ君が麻袋で投げ渡されたこと、魔石宝飾と便宜上呼称することなど、必要と思わしいことを説明する。ステラの辿々しい説明を、二人は一つ一つ確認しながら聞いてくれた。
「よし、大体の事情は分かった。国として野放しにはしないが、時間が無いってことだな」
「はい」
「ダメ元でも探しに行くと言い出したお前は偉い」
突然褒められて目を瞬かせたステラに、兄は笑う。
「それにしても、リリアナ様にも出来ないことがあるのですね。家宰さんは、何でも出来られます、と言われてましたが」
「魔法の威力は、一属性の特化が最も強いのです。何でも出来るとは身内の誇張が過ぎますが、ローレは三属性持ちの家系ですから、出来ることの種類は多いと思います」
合流と打ち合わせが済んでしまえば長居する理由は無く、ステラ達は昼過ぎにはリモーネ領園を出立した。リモーネ夫妻が山のようなお土産を用意してくれたため、これから旅行なのだと伝えて断るのは心苦しかったが仕方ない。
ステラがレモンの収穫を手伝う機会は訪れず、次回の楽しみに持ち越されることになった。