6-2:リリアナ・ローレ①
リリアナ・ローレは寵児であった。
ローレ家前当主ゴッフリートを祖父に持ち、長女ルクレツィアを母に持つ、三大公爵家の末の姫、それがリリアナ・ローレだ。
しかしながら、リリアナは十歳になるまでそのことを知らなかった。正確には、自分の姓がローレだとは知っていたが、それに付随する事項や価値を何一つ知らなかった。
リリアナの生まれは湖水の村という、ローレから少し離れたのどかな村だ。家は村にある古びた屋敷で、村の家々よりも大きなそれをリリアナは寝床としか認識していなかった。
古いベッドには洗いすぎてカラカラになったシーツ。起きて一番にすることは村の井戸で顔を洗い、村長夫妻の飼っている牛に餌と水をやることだった。それが終わったら広場で煮炊きの手伝いをして、昼から夕方は子供達で近くの草原に出かけてウサギや魚を捕る。広場で夕食を摂って、屋敷に眠りに帰る。それが幼いリリアナの一日だった。
屋敷には兄とリリアナの他に、大人の女性が住んでいた。その人が自分の母であることは知っていたが、実感はなかった。話しかければ可憐な笑顔で微笑まれ、だが鈴のような声はリリアナの名を呼ぶことはついぞなく、白くて華奢な指はリリアナの頭を撫でてくれたことはなかった。
寂しいと思ったことはない。というより、寂しいと思いようがなかった。リリアナを抱き上げてくれたのは村長夫妻と兄で、ご飯を食べさせてくれたのは村の女衆だった。リリアナが育つ過程に、母はそもそも全く関与していなかったのだ。
ローレ家のお子達を村の子供と同様に育てて良いものかと村長夫妻は悩んだらしいが、母だけでは兄とリリアナはまともに育たなかっただろう。元より無いものを不便と思うことはなく、リリアナは村の子供達に混ざって育った。
転機が訪れたのは、リリアナが十歳のときだ。
村を訪れた二人の騎士に兄が跪き、リリアナも見様見真似でそれに倣った。困っていることはないか、という問いに
「妹を、学校に行かせてあげたいです」
と、兄は答えた。白い眉と白い髭の騎士が、リリアナに問うた。
「……娘、運動は好きか?」
「……好きです。木登り、とか」
こわごわと、リリアナは頷いた。白い眉の下の目は、母と兄と同じ鳶色をしていた。
「本は、好きかな?」
優しそうな騎士の問いにも、リリアナは頷いた。そうして、リリアナと兄は湖水の村から出ることになった。少し後になってリリアナは伯父にこの時のことを訊いた。リリアナが運動や本が好きではなかったら、どうしていたのでしょうか、と。
伯父は何故かとても慌てていた。祖父の思惑は分からないが、自分はどんな子供であれ引き取るつもりだったと。ただ、問答が伝わる子供でホッとしたんだよ、とも。
湖水の村から引き取られた十歳のリリアナは、祖父の居るローレ城に住まうことになった。乗せられた馬上からローレ城を初めて見たリリアナは、あんぐりと口を開いた。雄大な山脈を背に建てられた、石造りの巨大な建物。こんなに大きな建物を、リリアナは初めて見た。隣の馬に乗せられた兄は口こそ開いていなかったが、目を限界まで見開いていた。
「ここが今日からお前の家だ」
リリアナを馬に乗せて連れてきた騎士は、初めて会う祖父だった。初めて会った祖母はリリアナの姿を見るなり泣き出し、風呂と食事を用意するように周囲に申し付けた。髪と身体を丁寧に洗われ子供用のドレスを着せられて、鏡の中に映ったリリアナは絵本で読んだお姫様のようだった。最も、袖から出る骨の浮いた腕は隠しようもなかったが。
広い自分の部屋、カラカラではない柔らかなシーツにフカフカのベッド。三食お菓子付きの豪華な食事に、リリアナの髪を結ってくれるという侍女、文字や作法を教えてくれる先生。唐突に与えられた全てに、リリアナは困惑した。
困惑しつつも出された食事を平らげ、痩せぎすが少しマシになったころ、リリアナはローレの貴族の子女が通う学校に編入した。学年の中途で入学したローレ公爵家の末の姫、リリアナはすぐさま同じクラスの女子に囲まれた。
「リリアナ様はローレのお城に先日戻られたとお聞きしましたの、どちらにいらっしゃったのですか?」
「ええと……湖水の村、です」
「まあ、湖水の。湖が美しい静かなところだと聞いております」
「美しき秘蔵の姫君ですのね、ローレ公爵家の方々は違いますわ」
「アメジストのような髪も本当にお美しくて。今度お茶会にお招きしてもよろしいでしょうか、我が伯爵家は兄が北方軍に勤めておりますの」
「リリアナ様、我が家は庭が自慢ですの。ぜひ、お兄様とご一緒にお茶会にお越し頂ければ」
「……」
大人顔負けの流暢な言葉を交わす同級生達によって、リリアナは湖水の山猿から秘蔵の姫君とやらになった。侍女の手によって夜空のように輝いている髪は、村に切ってくれる人が居なかっただけだった。学校に編入して最初の週末、リリアナに届いたお茶会や夜会の招待状は二十枚にものぼった。
訓練場の傍らのテーブルにお茶会の招待状を広げながら、リリアナは呻いていた。誰がどこのご令嬢で、その爵位は、と家宰に尋ねながらノートに書いているが、多すぎて顔と名前と爵位が一致しない。
訓練場では新兵の剣の訓練が行われている。つまり、兄が訓練に参加している。ローレ城は北方軍の本拠地でもある。伯父の所で暮らすことになった兄は毎日ローレ城に通って、朝から晩まで厳しい訓練を受けていた。誰の配慮か、リリアナの部屋の窓からは訓練所が良く見えたし、訓練所のテーブルを使って自習をすることも許されていた。
「……兄様、いいなあ…」
お茶とお菓子が用意されたテーブルで招待状と睨めっこするよりも、叩きのめされて地べたに這いつくばっている兄の方がリリアナは羨ましかった。
リリアナの小さな呟きに、対面で髭を撫でた祖父が立ち上がる。
「お前もやってみるか」
「……いいのですか⁉︎」
「ローレは武門の家だ。男であれ女であれ、剣を習うに恥じることはない。剣を使ったことはあるか?」
「ウサギをさばくときに、短剣、なら」
実際には短剣ではなくナイフであったが、リリアナに短剣とナイフの区別はついていない。頷いたゴッフリートが片手を挙げると、すぐさま訓練用に刃を潰した短剣が用意された。
渡された短剣はいつもより長かったが、それを疑問に思うより喜びが勝った。場所を開けてもらい、祖父と向かい合う。祖父は腰から自前の長剣を抜いた。長さも幅も重さも、リリアナの持つ短剣とは比較にならない。
「打ち返しはしない、まずは好きに打ってみよ」
ローレ城に住み始めて三ヶ月、ずっと訓練を見ていた。短剣、剣、槍、どの訓練でも兄はいつも転がされていたが、とても羨ましかった。兄の指南役の動きを思い出す。リリアナは運動が好きだ、身体を動かすのが好きだ。お前の剣など当たりはしない、という祖父の言葉にリリアナは歓喜して地面を蹴った。
身体を低くして脇腹を狙った突きはあっさりと躱された。逆手に持ち替えて続け様に脇を狙って打ち上げれば、重い音を立てて長剣の腹が短剣の切っ先を止めた。身長差で首は狙いづらい、すぐさま飛び退いてもう一度、今度は膝を狙って飛び込んだ。
「……!」
ゴッフリートが短剣を蹴り上げ、それが地面に落ちる前にリリアナは跳び付いて構え直した。鳶色の目を眇めて、ゴッフリートが問う。
「……短剣は、誰に習った?」
「兄様が、昨日教わっていました!」
一合、二合、三合、どう攻撃しても、どう牽制を掛けても止められる。圧倒的な強さの祖父に打ち込む楽しさに、リリアナは夢中になった。ドレスの裾が汚れて、靴の踵が折れたことなど気づかなかった。十合ほど打ち合って、ゴッフリートは剣を収めた。
「……お前が望むなら、剣の指南役を付けよう。学校では剣と戦術の授業を選択しても良い、学長に話しておこう」
「本当ですか⁉︎」
通っている学校では幾つかの科目を選択できる。周囲に誘われたのは刺繍、歌、花などリリアナに縁のなかったものばかりで困っていたのだ。
「あの、お祖父様は北で一番強いとお聞きしました。本当ですか?」
「……」
「ええ、北方軍総司令に長くお就きでした。北ではなく、王国で一番お強いかもしれません」
リリアナの問いに、ゴッフリートではなく家宰が答えた。
どうしたら、祖父みたいに強くなれるのだろう。黙して考え込んだリリアナに、ゴッフリートが促す。促す声は厳しく、けれど優しい。
「声に出せ、声に出せず抱えたままの願いはやがて膿む」
リリアナは顔を上げる。週明けの学校では剣の授業を取ろう、それから戦術も勉強して、それから。
「リリアナも、北方軍総司令になりたいです!」
リリアナの子供じみた宣誓を無下にすることなく、祖父は厳かに頷いた。
それからリリアナの学校生活は一変した。何をすれば良いのかと困惑しなから通っていた学校は、学ぶことが山積みの輝かしい場所になった。
刺繍でも歌でも花でもなく剣と戦術の講義を選択したリリアナを、周囲は奇異の目で見たが、ひと月もしないうちに学校の訓練場はリリアナ見たさの見学者で一杯になった。リリアナと同じ講義を取っている兄弟がいる女子だけがリリアナを茶会に誘えると、妙なルールまで出来た。
ローレの貴族学校の戦術科は、士官養成を兼ねる。ゴッフリート、ユリウスに続き、かつ勝る才であると講師陣は惜しみなくリリアナに技術と知識を注ぎ込み、一年が経つ頃には『北の黒鳥』という大仰な二つ名まで付いた。
リリアナ・ローレは寵児であった。
「お祖父様、ちょうじとは、なんですか?」
されどリリアナは、寵児という言葉を知らない子供であった。
毎週末に行っている剣の稽古の休憩中、首を傾げながら尋ねてきた娘孫にゴッフリートは答えた。
「特別に愛される子供、才に恵まれた子供、時流に乗った子供、そういう意味だ」
リリアナの首の角度が、さらに深くなった。十一歳のリリアナは、自分のことを愛されているとも才に恵まれているとも思っていなかった。時流に乗る、などは時流という単語すら分からない。
「学校の先生方や皆が、リリアナのことをそう言うのです。誰かと間違っていないでしょうか」
「いいや、お前の事だ、リリアナ・ローレ。お前を美しいと、寵児だと褒めそやす人間はこれから益々増えるだろう」
リリアナの預かり知らぬことだが、リリアナへの縁談の申し込みはローレ領ならずパレルモ、ヴィーテはおろか西の国境を跨いだ帝国の辺境伯からも届いていた。特に、武勇を尊ぶ家からの申し込みは凄まじかった。
無骨な手がリリアナの頭を撫でる。節くれだってマメだらけの、当主の座を譲ってなお、剣を握ることを忘れていない武人の手だった。
「……今は分からなくとも良い。紫紺の髪も、鳶色の目も、美しさも、ローレという名前も人々に羨ましがられるものだ。だが、驕ってはならぬ、ましてや周囲を見下してはならぬ。お前を褒めそやす言葉は、己を堕落させる甘言であると心得よ」
「はい、お祖父様」
全ての意味が分からずとも、リリアナは頷いた。
それが、祖父の最初の教えだった。




