6-1:リモーネ領園
「お嬢様、リモーネ領園が見えて来ましたよ」
御者が指差した丘陵の先に、見渡す限りのレモン畑が見える。馬車から身を乗り出して前方を眺めながら、ステラはホウッと感嘆の息を吐いた。
「綺麗ですねえ……」
春の青空の下、丘に隙間なく植えられたレモンの木、濃い緑の葉とレモンの黄色のコントラスト。丘の上にローレ風の屋敷が立っている光景は、とてつもなく鮮やかで美しい。
「リモーネ領園さんは年中人が訪れてて、人気があるんですよ。王都からもそう遠くないですし」
「四日間、大変お世話になりました」
「いえいえ、侍従長様からお声を掛けられたのは久しぶりで。報酬も弾んで頂いて、楽な旅でしたよ」
侍従長の関係者だという御者は、ステラの目的も、途中でリベリオが別れたことに対しても一切尋ねることなくステラをここまで届けてくれた。恐らくは侍従長の私兵だとリベリオが言っていたので、ステラはありがたく四日間お世話になった。
遠くに見えていたレモンの丘が少しずつ近くなるごとに、鼻先を爽やかな香りが掠めてゆく。両サイドがレモンの木で出来たアプローチを登り館の前に着くまでに、ステラは幾度緊張からではない深呼吸をしただろう。ふんすふんすと鼻で息をするステラは、見ている者が居ればさぞかし面白かったに違いない。
遠くから見えていたローレ風の屋敷は、近づいてみるとローレよりも軽やかな印象を受けた。梁と石で出来ては居るのだが、王都の建造物の特徴でもある漆喰も使われており、ローレよりも白くて涼しげな印象だ。
「北方領の最南端ではなく、王都の北東と言われる理由が分かった気がします」
馬車から降りて屋敷をマジマジと見て頷いていると、玄関の中からではなくレモン畑の中から声を掛けられた。
「あらあらまあまあ、ローレ夫人でいらっしゃいます?」
ローレ夫人、というのが誰のことか分からず、数秒後に気づいてステラは弾かれたように返事をした。
「は、はい!」
「こんな格好で失礼します、ようこそおいで下さいました」
畑から出てきたのは、作業着姿の女性だった。麦わら帽子に軍手、使い込まれたエプロンとブーツ。日に焼けた肌と濃い金髪をした、五十歳くらいの女性だ。ほぼ黄色に見えるその髪色に、ステラは見覚えがあった。
「あ、アマデオ・リモーネ様、の……⁉︎」
「はい、アマデオ・リモーネの母です。アンター! リベリオ様の奥様が来なさったよー!」
馬車の御者は、アマデオの母君に荷物受け取りのサインを貰って帰って行った。この場合の荷物はステラで、送り主は侍従長だろうか。
通された応接室は素朴で、所々に飾られた手作りのタペストリーが可愛らしい。身支度を整えて来ますと言い置いて離れた母君は、先程大声で呼ばれた男性と一緒に五分後に戻って来た。
「お待たせしてしまってすみませんねえ、ローレ様」
作業着ではなくなったが麻のシャツにスカート姿で、ステラの格好と大差ない。横に立つ男性も同じような格好をしている。しかも、手づからお茶のカートを押して来た。
「初めまして、ステラ・ミネルヴィーノ・ローレと申します。この度は場所をお貸し頂いてありがとうございます」
「アマデオの母、リンダです。こっちはアマデオの父で、当家の当主です」
横に立って頭を下げた男性はアマデオの父君だった。日に焼けた堀りの深い寡黙な顔立ちで、アマデオにはあまり似ていない。アマデオは母親似らしい。
「ローレ様の口に合いますかどうか……」
そう言ってリモーネ夫人が出してくれたのは、よく冷えたコーヒーにレモンの輪切りが入った飲み物だった。フェルリータでも王都でも見たことがないそれに恐る恐る口をつける。汗を掻いたガラスの中、コーヒーの苦味にレモンの香りと酸味はとても美味しかった。
「すごく美味しいです……!」
拙い感想を述べたステラに、リモーネ夫人が胸を撫で下ろす。
「ローレ様のお口に合って良かった。レモンコーヒーと言って、うちの畑で取れたレモンシロップが入ってるんです」
「あ、あの…その『ローレ様』とは呼ばないで頂けますと……」
呼ばれる度に胃が痛い。恐る恐る頼み込んだステラに、対面に座る二人が顔を見合わせる。
「リベリオ様と同じことを仰るんですねえ」
「え」
「ちょうど二年くらい前ですか。ローレの北方軍を卒業した後に、アマデオが友人を連れて帰って来たんですよ」
初耳だ。しっかりと聞くべく、椅子の上でステラは背筋を伸ばした。
「卒業した後に王都の北方騎士団に出向するってだけでも驚いたのに、連れて来たのがローレ様の御子息でそりゃあもう驚いたったら!」
リモーネ夫人の口調が、初めよりも随分と砕けたものになっている。苦笑したアマデオの父君が、補足を入れてくれた。
「うちは元々、レモンを育てていただけの農家なんですよ。それが、先代のローレ公爵閣下がこの辺りを視察に来た時に、このレモンコーヒーをお出ししたんです。そうしたら、随分と気に入って頂けて」
「男爵位なんてものを貰うなんてねえ……」
アマデオが産まれるより随分と前の話だ。北方領を視察していた当時の当主、ゴッフリートがリモーネ領園に立ち寄った。休憩をしているゴッフリートにレモンコーヒーを出したところ、いたく気に入られ叙勲されたとアマデオの父君、もといリモーネ男爵は話した。
「ただの農夫なのに男爵閣下と呼ばれるようになってしまって……いやはや」
「お茶会や夜会も呼ばれてみたけど、性に合わなくてねえ。作業着で畑を弄ってるほうが楽しいのよ」
「あああ……分かります…」
そしてその分かるの気持ちそのままに、ステラも元は商家の娘であること、ローレ夫人と呼ばれると胃が痛むことを伝えて、呼び方を変えてもらった。
「じゃあステラさん。どうですか、アマデオは王都でよくやってますか?」
レモンコーヒーをもう一口頂いていたステラに、リモーネ男爵が尋ねた。
「は、はい! あの、アマデオ様は北方騎士団の副団長として王城の女性に大人気で。昨年の技術競技会の剣の部門でも優勝されていて、歓声が凄くて……」
初夏の技術競技会は、もう一年前になるのだ。今年は見ることがないのだなあとしんみりと思う。思い出しつつ、アマデオが如何に優秀か、リベリオもステラもとても頼りにしていることを、ステラは拙い語彙で懸命にアピールした。
「……はぁ〜、あのアマデオがねえ」
頬に指を当てながら、母君が首を傾げている。
「ああ、いえ、ステラさんの言葉を疑ってるんじゃないんですよ。アマデオは鳥の巣頭の、やんちゃ坊主でしたから」
「……鳥の巣…やんちゃ…?」
アマデオの髪はいつも艶やかに梳られて、後ろで編まれている。いつも優美な仕草で、やんちゃというイメージもなく、ステラの知るアマデオと結びつかない。
「アマデオが産まれた時には、うちは一応男爵家になっていて。貴族様だと勘違いしたわけではないんですが、折角だから騎士になってみたいとアマデオは言い出したんです」
それはリモーネ領園にとって青天の霹靂であった。何せ、代々レモン農家であったリモーネ家から騎士になった前例がない。騎士になってみたい、と次男が言い出しても誰も成り方を知らないのだ。
「幸い、うちは買い付けの業者や貴族様の出入りが多かったので、来る人来る人皆に聞いて」
「何とか、北方軍の入隊試験を受けたのよねえ。送ってくる手紙は『お坊ちゃん達には負けない』ばかりだったわ」
負けず嫌いなのよ、と肩を竦めながら母君が笑う。その後は、ステラも聞いた通りだった。中途入隊したリベリオと出会い、成人後に王都に配属され、北方師団の副団長に任命された。
「王都に勤めてからは手紙も……何と言うんだろう、貴族的というか形式的なものになってね」
元気です、つつがなく働いている、といったことが上質な便箋に丁寧な文面で書いてあるばかりだと言う。それは、両親にとっては寂しい手紙だ。先日、手紙に思い切りダメ出しされたばかりのステラには、とてもよく分かった。
「あ、あの、多分ですが『手紙の作法を覚えました、大丈夫です』と伝えたいのだと思います。あと、私の友人がレモンパイを作ってくれたんですが、一緒に食べたアマデオ様は『レモンパイに目がない』って言ってました……!」
目を丸くして顔を見合わせたアマデオの両親が、次の瞬間腹を抱えて笑った。
「ほ、本当かい⁉︎ うちのレモンは王城にも卸してるんだよ」
「あ、あの子、レモンパイなんて食べ飽きたって言ってたくせに……!」
ステラの方が呆気に取られる、豪快な笑い方だった。息切れするほど笑って、目尻に浮かんだ涙を拭ったリモーネ夫人が、姿勢を正してステラに頭を下げた。
「アマデオの友人になってくださって、ありがとうございます。今度は、アマデオも一緒に来てやって下さい」
「リンダ、今日の夕食にはレモンパイを焼こう。ステラさんにも食べて貰わないと」
「お、お腹がはち切れそう……」
案内された客室で、ステラはまん丸になった腹を抑えていた。
リモーネ領園には住み込みの人間が多く、広い食堂を使った夕食は賑やかだった。レモンたっぷりのサラダに始まり、鶏のレモンソテー、パンにはレモンカード、食後にはもちろんレモンパイ。リモーネ夫妻と同じテーブルでステラはフルコースを満喫させてもらった。
焼きたてのパンに添えられたレモンカードも、領園自慢のレモンパイもとても美味しかった。レシピを聞いて帰ればカーラが喜びそうだ、ルーチェ殿下の口には合うだろうか。
「ローレから来られる護衛さんを待って、それからミオバニアに……」
荷物を解いて、地図をテーブルに広げた。マリアーノ殿下が用意した地図には主要な鉱山の位置が記されている。ローレからリモーネ領園までは一週間程度、護衛の到着までの数日間お世話になる予定だ。
北側の窓を開けると、風が吹き込んだ。眼鏡を外して深呼吸をもう一度、レモンの香りがする夜風は贅沢だ。
客室は三階にあり、眼鏡を外したステラの目には丘からの眺めが良く見えた。登って来たアプローチは近すぎて像を結べなかったが、真っ暗なはずの北側の平原は昼間のように鮮明に見える。新緑の丘はくすんだ緑色に、群青の夜空は薄い灰色に。不思議な色合いだった。
「……出荷の宛名書きとか書類の整理なら、お手伝い出来るかな…」
もしお邪魔でなければ、レモンの収穫もしてみたい。働かずじっとしていると、言いようのない不安が次から次へと湧いてくる。数日の過ごし方を考えながら、灯りのない景色をぼんやりと眺めていると、ふと動くものが目に入った。
「う、ん?」
かなり先だ、視覚的には王都の港より先なので四キロ以上先だろうか。こちらに向かって来ている二つの何か。目を凝らして見れば、真下のアプローチを見るよりも容易く焦点が合った。
こちらに並足で向かって来ている馬が二頭。馬に乗っている人間は若い男女だ、その顔に、ステラはとてもとても見覚えがあった。具体的には、自分の結婚式で。
「リ、リリアナ様!? クラウディオ兄さん!?」