5-4:湖水の村
次の日は、ステラとリベリオにリリアナが加わって三人での外出になった。行き先はローレから少し離れたところにある湖のほとり、リベリオとリリアナの生家のある小さな村だ。
「財務部に勤めている伯父に挨拶をして行きたいのだが、良いだろうか?」
「はい、もちろんです。もう一人の伯父様のお名前はユリウス様、で合ってますでしょうか」
「合ってます!」
財務部は城のすぐそばにあり、王都で言う銀行も兼ねているとリベリオが説明してくれた。城のそばに役所や銀行を置くのはどの都市でも共通だ、城を出て五分も歩かないうちに財務部の建物に到着した。
「ユリウス・ローレ財務長官はいらっしゃいますか?」
元気に尋ねたリリアナは顔見知りらしく、受付が笑顔で頷いて呼びに行った。
「おはようございます、リリアナ。それから、リベリオ」
奥から姿を現したのは、石造りの廊下に沈み込むような陰影の超絶美形だった。削げた頬に掛かる白髪混じりの紫紺の髪が、肩で緩く結ばれている。
「おはようございます。ご無沙汰しております、ユリウス伯父上」
「結婚式を挙げに戻ってきたと聞いていますよ、おめでとう。式には出席させてもらいます」
「ありがとうございます、是非に」
他愛のない会話ですら聞き惚れそうな、滑らかなテノールの声音。この方がユリウス伯父様、とステラは脳内のメモに書きつける。兄であるグレゴリオとは二つしか違わないはずだが、随分と若く見える。線が細く貴族的な雰囲気で、飾り気のない文官服と白い手袋がストイックな色気を引き立たせている。
「そちらが、お相手のお嬢さんですか?」
「お初にお目に掛かります、ステラ・ミネルヴィーノと申します」
「式に出席させてもらいます、楽しみですね」
「……!」
鳶色の目を細めて笑いかけられるだけで心拍数が上がる。悲鳴を上げて後退りそうになるのを何とか堪えた。
式の日程を書いた手紙を渡して財務部を出た時には、ゼイハアと息切れを起こした。地元を出てからこちら随分と美形を見てきたものの、ステラの社交力がそう上がったわけでもなく。大人の色気満載で、かつ親しみやすい雰囲気のユリウス伯父様は威力がありすぎて最早怖い。
「ユリウス伯父様は大変に人気があるのです!」
「すごく、分かります……」
リベリオは親戚であるのでパーツは似通っている筈なのだが、表情と口数に乏しいので、元の顔立ちは良いのに『朴!訥!』と言った雰囲気になる。大変に落ち着く雰囲気である。最初は緊張していたはずなのに、今では隣を歩くのが当たり前になったのだから不思議なものだ。
湖水の村までの道中は、件のユリウス伯父様の色恋武勇伝をリリアナが聞かせてくれた。物語の主人公のような波瀾万丈の色恋ばかりで面白かったが、老若男女全てにモテるというのも大変なのだとステラは知った。
その村に名はなく、湖水の村と呼ばれている。
雄大なミオバニア山脈を背景に、青く大きな湖が広がる光景はとてつもなく美しい。特に春は、ミオバニアの雪解け水が湖に流れ込んで水面は青く染まり、雪に覆われていた地面は新緑が芽生え、一年で一番美しい景色なのだとリベリオが説明してくれた。
湖のほとりにある小さく可愛らしい村に辿り着くと、村の入口にいた男性が声を上げた。
「リベリオ坊ちゃん! 坊ちゃんじゃないですか!」
「お久しぶりです」
帰ってくるのは王都に出て以来の三年ぶりだというリベリオは、村中の人々に歓迎された。三角屋根の小さな家屋の中から人がゾロゾロと出てきて、あっという間に二十人ほどに囲まれた。
「ご無沙汰しています、結婚式を挙げようと一旦戻ってきました。これを、皆さんに」
馬に括り付けていた麻袋を村長に手渡す。中にはリベリオが用意した、村への土産がぎっしりと詰まっていた。王都の海産物の干物、ペンや便箋などの文具、ステラの提案で砂糖と塩と菓子など色々と詰め込んだ。
「ありがとうございます。あの小さかった坊ちゃんが結婚を……」
涙ぐんだ老齢のご婦人は村長の奥方で、リベリオの母の面倒を見てくれている。リベリオが別個に渡したのは小さな櫛で、飴色が美しい細工品だった。村長とその奥方が、リベリオとリリアナにとっては育ての親だ。
「皆さんのおかげで、王都でも何とか生活出来ています。……こちらが」
「初めまして、ステラ・ミネルヴィーノと申します」
リベリオに紹介されステラが挨拶をすると、村長夫妻も周囲の村人もとても喜んでくれた。
「先に母に会って来ます」
「ええ、ええ。あとでお昼を食べて行ってくださいな」
ご馳走を準備しておきますから、と見送られて向かったのは村の隅にある屋敷だった。
「ここです。私は月に一度ほどは来ていますでしょうか」
リベリオとリリアナに挟まれながら着いた石造りの屋敷は、傍目にも寂れていた。村の住居よりもはるかに立派であるのに、花と緑に満ちた村の中でそこだけがくすんでいる。門扉を抜けた先の庭にも花は無く、緑の芝が最低限に刈られているのが見えた。
「お母様は、大体お昼は応接室にいらっしゃいます」
日当たりが良いので、と言ってリリアナが玄関の鍵を開けた。明るい春の日差しの中から、薄暗い玄関と廊下を通って応接室へ。薄暗い屋敷の中で、比較的明るい応接室の窓際に、その人は座っていた。
彼の人に対する印象を、ステラは随分と時間が経った後も説明できないままだ。
「リベリオ兄様が帰って来られました、お母様」
紫紺の髪、鳶色の目、白磁の肌。美しい横顔がゆっくりと振り向いて、鳶色の目が柔らかく弓を描いた。
「こんにちは」
鈴を振るような可憐な声、クリーム色の愛らしいドレス。大晩餐会で同席したマリネラ妃よりも三つ歳上のはずのリベリオの母は、少女のような風貌でそこにあった。
「ご無沙汰しております、母上。この度、結婚式を挙げることになりました。こちらが」
「お初にお目に掛かります、ステラ・ミネルヴィーノと申します」
ステラのお辞儀にリベリオの母は少し首を傾げたあと、ああ、と声を弾ませて白く華奢な手を合わせた。
「結婚式なのね、じゃあ支度をしなければ」
「式は来週末の予定です。当日になりましたら、用意と迎えを寄越します」
「ええ、そうです」
「……母上は、お変わりありませんか」
「はい、流行りのドレスを用意しなければいけませんね」
遠く王都で働く子供への労いの言葉も、結婚を祝う言葉も無く、親子の会話は進む。否、進んでいるのかも定かではない。数年ぶりに会う親子の会話であるはずなのに、こうも噛み合わないものなのか。
「では、当日に」
「ええ、ええ、わたくしも心構えをしておきます」
お花畑、とこの佳人を最初に評したのは誰だったのだろう。とてつもなく美しい少女のような佳人が、ステラには得体の知れない生き物に見えた。
会話は終始盛り上がることも噛み合うことも無く、近況報告として用を成しているのかも怪しいままに屋敷を出た。
「……初めは、そんなに目立たなかったのだそうです」
屋敷を出て村に戻る途中、リリアナがぽつりぽつりと話してくれた。
誰よりも美しく可憐であったローレ家待望の長女。末は王妃か他の三大公爵家の奥方かともてはやされたルクレツィアは、子供の頃はただの『おっとりとしたお嬢さん』だった。周囲が違和感を抱き始めたのは、彼女が適齢期を迎えた頃だ。希望はあるかと尋ねれば微笑んだまま首を傾げ、必要であろう本や教師を用意しても手に取ることは無く、その指が楽器以外を持つことはついぞ無かった。
「お医者様が言うには、性分だろうと」
けれど、十年、二十年、三十年と経てば周囲は老いる、そして周囲が老いるほどに違和感は大きくなり、やがてどうしようもない齟齬となってルクレツィアは社会から途絶した。
「ただ、お母様はあの状態でもご自分に不幸は感じていないのだそうです」
「……それは」
幸いですね、などと言えはしない。本人はそれで良くとも、煽りを受ける周囲はたまらない。何よりも、彼女には子供が居るのだ。
眼鏡の奥で眉間と目を引き絞ってしまい、リベリオが首を振った。
「そんな顔を、しなくていい」
「ええ、お気になさらずです。私達は運が良かったので、お祖父様と伯父様が迎えに来てくれましたし」
最も煽りを受けたであろう当人達が、そんなことを言う。リベリオが頷いてリリアナが笑っているのを見て、ステラはもう何も言えなくなってしまった。
鬱々としながら村に戻るべく歩いていると、リリアナが力強く声を上げた。
「大丈夫です! リリアナは北方軍総司令になるので!」
「ほっぽうぐん、そうしれい」
「頑張っているか」
「はい! 最近、お祖父様から三本に一本取れるようになったんですよ!」
「それは凄いな」
北方軍総司令とはローレの全軍を任される最高指揮官であり、有事の際には王都に真っ先に駆けつけ、最前線に立つ役割である。カルダノ王国の軍部における、上から三番目以内には入るだろう。
「御祖父殿が引退されて、今はグレゴリオ伯父上が総司令を務めているのだったか」
リベリオの祖父はグレゴリオに当主を譲ったのと同時に、北方軍総司令も引退している。グレゴリオが名義上北方軍総司令の座に就き、祖父の副官がその傍を埋めた。
「リリアナ様は、凄いですね」
「次の代が狙い目ですからね! ステラ姉様は、何になりたいですか?」
「? リベリオ様の妻になりました、が……」
リリアナの質問の意図がわからず、ステラは首を傾げた。
「もっと個人的な夢とかは、ありませんか? 兄様も口に出されないので、心配なのです」
心配であるし、リリアナのために望まぬ勤労をしているのではないかと思うと心苦しいのだという。
「……働くのは、楽しいが」
「もう! そうではなく!」
「いや、本当に……」
表情に乏しく勤労が楽しいと答えた兄と、表情豊かに怒っている妹の図は微笑ましい。
村で用意されていた昼食は美味しかった、湖で採れた魚を中心に採れたての野菜と焼きたてのパンまでご馳走になった。
リベリオ少年はこの方々にお世話になっていたのだなあという感慨深い気持ちと、聞きしに勝る母親の衝撃と。串焼きにされた魚は大変に美味しかったが、喉に小骨が刺さったような心持ちは消えはしなかった。