4-1:冬の始まり
目覚めて見えたのは、見慣れない天井だった。
いつもの天井と違う、とステラは思った。そのまま呆けていることしばし、今自分が寝ているのがミオバニアの麓町の宿ではなく、王都の王城の自室であることに気づいて飛び起きた。
懐中時計の時刻は朝の九時。
「そ、そうだ昨日帰って来て、ええと、それか、ら……朝礼⁉︎」
朝礼の時刻はとうに過ぎている、大遅刻どころか終了後だ。制服は、いやそれより自分は昨日、と必死に思い出そうとしてみるが、夕方以降の記憶が無い。
何からしたものかすら思いつかず、とりあえず眼鏡を掛けたところで、コンコンとノッカーが鳴った。
「起きていますか、ミネルヴィーノ」
「は、はい!」
既視感のあるやり取りに慌ててドアを開ければ、そこにはアンセルミ侍女長が立っていた。
「おはようございます、アンセルミ様」
「おはようございます、制服を持って来ました」
入城初日を彷彿とさせる、懐かしいやり取りだ。
「昨日のことは覚えていますか?」
「……所々、覚えておりません」
と、ステラは正直に項垂れた。
「具合が悪くて吐いて倒れた貴女を、ローレ騎士長がここまで運んでくれました」
「ひっ」
「貴女の服を緩めたのは私です」
言われて自分の姿を見れば、帰還した時の同行用の服のままだがベルトや靴下が脱がされ、ベッドの下には靴が揃えられている。涙と涎で汚れていたであろう首元にはタオルが差し込まれていた。
「た、大変なご迷惑をお掛け致しました!」
倒れて気を失ってリベリオに運んでもらった上に、アンセルミ侍女長に介抱されたらしい。もはやどこから謝れば良いのか分からない。
取り乱しているステラをアンセルミ侍女長は叱らず、手に持っていた制服を手渡した。
「冬用の制服です」
「冬用……」
視察に出たのは初夏だった、帰ってきたらもう季節は冬で、ひと月もしないうちに年が変わるのだという。ミオバニアで冬支度を買い込んだ記憶はあるのに、王都で冬だと言われても実感が湧かない。困惑しつつも、制服を受け取った。
「……張り詰めていたものが切れたのだろうと、ローレ騎士長はおっしゃっておりました。今日の午前は臨時の休暇とします」
「申し訳ございません、ありがとうございます」
「身体を洗い身支度を整え、十五時に第二王女殿下の所へお茶を出すように」
「はい」
殿下も、宝飾室の方々も心配されていましたよと付け加えてくれたアンセルミに、ステラは深く頭を下げた。
「冬、もう冬だった……あ、さ、寒っ⁉︎」
アンセルミが去ったあと改めて窓の外を見れば、前庭の木々は緑ではなく茶色に染まっていた。寝ている時には気づかなかったが寝台の上の布団は、ぶ厚い冬用の布団に変えられている。
今更ながら、季節が変わったことと寒さに気づく。
しかし、ステラは冬服を持っていない。取り急ぎミオバニアで買った冬用の上着を羽織り、渡されたばかりの冬用の制服を持って、居住棟の風呂場に向かった。本来なら夜しか開いていない大浴場は、アンセルミ侍女長の言伝で開いていた。ごく浅くしか湯は張られていないが、独り占めである。
「ゔわああぁぁ」
熱々の湯に浸かるなど、半年ぶりである。年寄りのような声を逐一上げながら全身を洗って、冬用の制服に袖を通した。冬用はいつもの制服に上着が付いただけであるが、北方の視察明けの身には十分すぎるほどきちんとしていて温かい。
眼鏡の紐を革紐から銀鎖に戻し、銀のサッシュと母からもらったリボンを装備すれば出来上がりだ。半年ぶりの制服がどんな一式だったかを思い出せず、これで良かっただろうかと鏡の前で少しばかり首を傾げた。
部屋に戻り、昨日のうちに運び込まれていた荷物を解いて、服、筆記具、その他と分けて行く。支給され、毎日着ていた文官服は一旦洗濯室に出すことにした。騎士団に返すにしても、一度洗ってからのほうが手間も省けて良いだろう。
自分の服と文官服を洗濯室に預けたところで、胃がクルクルと鳴った。
「………」
そういえば、昨日帰って来てから何も食べていなかった。水すら飲んでいない。
半年ぶりの食堂は懐かしかった。半端な時間にも関わらず、無事で良かったよと快くありあわせを出してくれた。
定番の豆のスープにキノコとハムの乗った黒パンを、ありがたく噛み締める。食堂のマグカップに注がれた牛乳がやたらと美味く感じる。ミオバニアの麓町は労働者が集まり賑わっていたため、食事の内容が王都とそう違うわけではないが、安心感が違う。
朝食の時間も過ぎて閑散とした食堂で一人食べているのが目立ったのだろう、顔馴染みの同僚が次々と声を掛けてくれた。
「ステラ! 帰ってきたって⁉︎」
大声と共に食堂に駆け込んできたのは、カーラだった。
「カーラ!」
「ステラ! 無事だった⁉︎ 生きてる⁉︎」
「い、生きてる! 生きてます!」
精神的にはさておき、大きな怪我をすることもなく帰れている。立ち上がり、キャアキャアと手を握ってブンブンと振りながら再会を喜んだ。
「秋には帰ってくるって言ったのに冬になっても帰って来ないし、ステラ達が行った先で山が焼けて王都に避難してきたって新しい人から聞いて」
心配したのだとカーラは言った。カーラが勤める軍部の食堂にも、焼け出された人が入ったらしい。
「良かった……」
気の抜けたカーラがへなへなと隣に座る。
「なんとか、無事に帰りました!」
「いやもう、無事だったならそれでいいわ。……あ、お土産ばなしとかあったら聞きたい」
お土産ばなし、できる話があっただろうかとステラは道中を反芻する。麓町や鉱山での出来事は口外禁止を事前に申し渡されている。帰り道は精神的に限界だったので、ろくに覚えていない。ということは、話せるのは行き道の話のみである。
「ええと、王立病院から来られていた方と同じ部屋になりました」
「ふんふん」
「リベリオ様が獲られた鳥を焼いて食べたり」
「流石、リベリオ様だねえ」
「宿場町は人がたくさんいて、夏のミオバニア山脈が綺麗でした」
「ローレ行きの街道沿いは人気なのよね。ちょっと待ってて、飲み物貰ってくる」
避暑地もあるのよとカーラは頷いて、一旦コーヒーを取りに行った。
変わらずシャキシャキとしているカーラの明るさが、ステラは何よりも嬉しかった。張り詰めていた気持ちが緩む。
「ステラ嬢」
閑散とした食堂で一人になったステラに声を掛けたのは、リベリオだった。想像だにしない人物の訪れに慌てて立ち上がる。軍部には専用の食堂がある。ロビーには騎士団もよく訪れるが、ステラ達が使う食堂にまで訪れることは全く無いと言っても過言ではない。
「リベリオ様にアマデオ様。どうなさいましたか?」
上着の増えたステラの制服と異なり、騎士の制服に傍目の変化は無いが、心なしか二人とも髪や肌が整って見えた。昨日から今日に掛けて身を整えたのは、恐らく北方騎士団を含めて視察に参加した全員である。
「やあ、ステラ嬢。いや、リベリオがステラ嬢に会いに行くと言うので。私はお付きです」
リベリオが進み出て頭を下げる。本来はステラが呼び出されて出向くのが筋合いであり、リベリオが出向く必要も頭を下げる必要も無いのだが、律儀な人だ。
「早朝からすまない。だが、早い方が良いと思って」
「いいえ、今日の朝はお休みを頂きましたので」
報連相は早いに越したことはない。今度は何だろう、またマリアーノ殿下のところへ行くのだろうか。
「これを、貴女に」
リベリオが差し出したのは、ビロード貼りの小箱だった。
「……リベリオ様、星の目は私の手には余る代物です。もし宜しければ、しばらくリベリオ様が持っていて頂けませんでしょうか」
ステラが着けていなければ用を成さない代物ではあるが、昨日の今日だ、とてもではないがしばらく触る気にはなれない。また、いつ着ければ良いのか、何を見れば良いのか、その判断が自分で出来るとも思えなかった。
目を伏せて首を振ったステラにリベリオは首を傾げていたが、しばらくして、ああ、と合点が言ったように目を瞬かせた。
「違う、星の目じゃない。これを」
リベリオの手で開けられたビロードの小箱の中は綺麗な絹張りになっていて、星の目を入れていた箱とよく似ていた。似ていたが、中央に鎮座する物体はその形状も用途も余りにも異なっていた。
「リ、リリリ、リベリオさま……⁉︎」
傍でアマデオが目を見開いてあんぐりと顎を落とし、ガシャンと音がして振り向けばカーラが二人分のコーヒーを床に落としていた。
絹張りの中央には、美しい指輪が一組。
銀の地金に嵌め込まれた石は、紫と黄緑のバイカラー。
百面相をしているステラに対して、リベリオの表情はいつもと変わらない。強いていうなら、少しだけ優しい。それこそ、焼いた鳥を取り分けてくれたときのような顔だった。
「するのだろう?」
「……?」
「結婚を」
アマデオとカーラは完全に硬直している。ローレ騎士長のお越しだと、こちらを遠巻きに伺っていた食堂の同僚達がなんだなんだとザワつき始めた。
怒涛のように脳裏に蘇ったのは昨日の醜態の数々だ。帰還して、マリアーノ殿下のところに行って、ロビーで侍女長と少女と話して、鐘楼に逃げ込んでそれから。
飲めもしない酒を飲んで忘れてしまいたくなるような醜態の数々。けれど、忘れてはいけないこと、決して冗談で言ったのではないことも、ある。
「はい」
なけなしの気力を振り絞り、まっすぐにリベリオを見据えてステラは頷いた。
差し出されたリベリオの右手に左手を乗せる。ややもして、左手の薬指に指輪が納まった。繊細な細工が施された銀の地金に、石は紫と黄緑のバイカラーアメトリン。
後にアマデオは語る、どう好意的に見ても決闘の申し込みと承諾であったと。