1-4:カルミナティガラス工房
「ガラス工房」
「エリデ、うちの事を説明せずに連れて来たね?」
「だってビックリさせたいじゃない」
「それは、私も分かる気がします」
職人とは、いつだって客に驚いて欲しいものである。
けれど、ステラがなぜガラス工房の客になるのかは分からない。ガラス細工はヴィーテで発展し、内陸部のフェルリータでは高額で取引される工芸品だ。学生のお小遣いで買えるものではない。
「カルミナティガラス工房は僕と妻だけの小さな工房でね。まあ、普通に皿や壺なんかのちょっとお高い贈答品を作ってるんだけど。最近それだけじゃ利益が出なくなった」
「ヴィーテはガラス工芸の競争が激しいの。うちみたいな家族工房も山とあって、かといって大物を作るには設備もコネも足りない」
これが理由で心機一転引っ越して来たと、エリデの父は言う。フェルリータで言うところの、画家が星の数ほど存在して、大手の絵画工房に属さない画家が他の街に引っ越すのと同じだとステラは理解した。
「それで引っ越されて来たんですね」
「そう。フェルリータに店を構えてみようと思ってね」
ヴィーテよりも遥かにガラス工房の数は少ない。数百の店が並ぶ中央通りにもガラス工芸の店は十もない。そもそも、フェルリータの店は多岐に渡りすぎているため、大規模な被りが少ないのだ。
「……」
これは本当に壺を買わされる流れかもしれない、ガラス製の。ステラは見えもしない天井を仰ぎそうになった。
「今まで通り皿や壺も作るけど、眼鏡を売ろうと思ってるの」
「めがね、ですか?」
聞いたことのない単語だった。
「丸ガラスの表面を削ったり、盛り上げたりするわ」
「はあ」
「エリデ、ミネルヴィーノさんが困っているよ。……と言っても説明するのは難しいし、面白くもないね。ミネルヴィーノさんの目を助けられるかもしれないから、少しエリデに付き合ってもらえるかな?」
エリデを咎めつつも、エリデの父の声はどことなく楽しそうだ。戸惑いつつ頷くと、良かった、と返事が返ってくる。
「じゃあ早速着替えてくるわ。ママー! お茶の葉っぱどこー⁉︎」
遠くから「淹れてあげるからさっさと着替えて来なさい」と、女性の声がした。
「じゃあ僕はまた後で。妻がお茶を用意するよ」
「はい、ありがとうございます」
五分も経たずにエリデは戻ってきた。作業服を着て、手には軍手、それと木の箱を持って。
木の箱から取り出した何かをステラの目の正面に上げて、止まる。
「……前髪が邪魔ね」
エリデはもう一度箱を漁り、取り出したピンでステラの伸び切った前髪を纏めて、耳の横に留めた。イガグリ娘と呼ばれた目つきがいきなり露わになって、ステラは肩を強張らせた。
エリデはステラの緊張を気にも留めず、箱から何かを取り出しては、作業しやすくなったとステラの目にあてて大きさを測っている。
「うちに来る人、皆そんな目つきしてるわ」
年寄りの分、眉間の皺はステラより深いわね、とエリデは笑う。
「眼鏡を作ってみたかったの」
「作ってみたかった?」
変な言葉だとステラは思った。家がガラス工房なのだから、いつだって作れるだろう。
「眼鏡は、その人その人の目に合わせた特注品なのよ。だから、眼鏡ってお高いの。ヴィーテでのお客様はお貴族様や裕福なお年寄りばかりで、私が担当にはなれない」
つまり。
「でも同級生なら、私が作ってもいいかなって」
「なるほど、それで私がお客様なのですね」
ステラは深々と頷いた。ステラが宝飾品を作っても店には並べられないが、同級生に贈るという名目があれば作ることくらいは許される。
「見えないだろうけど、これがガラスの板の切れ端。これを丸く抜いて、表面の中央が盛り上がるように縁を削るわ」
ちょっとずつ調整するから、前髪はそのままで。そう言い置いてエリデは離れていった。
ガラスの壺を売りつけられる心配は無くなったようだった。途中、エリデの母という人がお茶を持って来てくれた。
「ゆっくりしていって下さいね」
明るくて気さくな声は、エリデに似ている。
ローテーブルに置かれたのは、紅茶と焼き菓子のセットだった。お茶の入ったティーカップは白くない、きっとガラス製だ。間違っても割ってはならないと慎重に飲んだ。焼き菓子はアーモンドの乗ったクッキーで、香ばしくてとても美味しい。
三十分もせずに、エリデは戻ってきた。
「お待たせ! とりあえず七十歳くらいの目に合わせて作ってみたわ」
お医者様に言われていても、中々に堪える目の年齢だ。ステラはまだ十七歳である。
「学校でも使えるように、色の無い透明のガラスを使ったわ」
まず、右目の前に丸く整えられたガラス板が来た。
「どうかしら……。この後、調整を繰り返すんだけど……ステラ?」
ぽたり、と膝の上の手の甲に水滴が落ちた。
「ちょっ…! ステラ、何、どうしたの⁉︎」
「見える……」
ぽたぽたと頬を伝って落ちる涙を拭いもせず、ステラは目を見開いていた。
この後の人生で、まだ見ぬ誰かの顔を覚えることは、もうないのだとステラは思っていた。それどころか、だんだんと霞んでいく家族の顔をいつか思い出せなくなるときが来る、それは絶望にも等しかった。
嬉しい、嬉しいという言葉では言い表せない。
だって、見えるのだ。熱気を上げる工房の設備も、手際良く働くエリデの父も、壁に掛けられた時計の針も。手元のティーカップは、予想した通りに美しいガラス製だった。
心配そうにステラの顔を伺う赤い髪の少女、その人の目は澄んだ空の色をしている。
「エリデは、美人ですね」
それから、エリデは数字や文字を書いた板とステラとの距離を測りつつ、見え具合を細かく確認した。最終的に、遭遇したことのないレベルの遠視、という結論に至り、エリデの父が呼び出された。遠視という言葉を、ステラは初めて知った。
「本当に見えないんだねえ。こりゃあ大変だったろう」
「見えるようにするには、ガラスが物凄い厚さになっちゃう。こちらからステラの目はほとんど見えなくなるけど、それでも大丈夫?」
「大丈夫です!」
ステラは即答した。見えることに比べれば些細な問題にすらならない、むしろこの目つきが隠されて好都合というものだ。
エリデとエリデの父が二人がかりで視力を測り、ガラスの厚さを決める。エリデが緊張しながらも表面を削り、膨らみを細かく調整する。
「ステラの利き手はどっち?」
「右です」
「じゃあ左手側に持ち手を付けるわね」
出来上がった丸ガラスを長方形の木板をくり抜いて嵌め込み、左側に持ち手の棒を取り付ければ眼鏡の出来上がりだった。