3-11:ステラ・ミネルヴィーノ
魔法師団の詰所を出て、居住棟まではリベリオが送ってくれた。真っ赤に腫れているだろう目元は分厚い眼鏡が隠してくれた。横を歩くリベリオに余計な嫌疑が掛からなかったことだけは幸いである。
「この時間なら、アンセルミ女史も居るはずだ」
「……ありがとうございます。あの…ハンカチは洗って返しますので」
時刻はまだ昼過ぎだ、半年ぶりの居住棟のロビーにも変化はない。アンセルミ侍女長と侍従長が書き付けをしたり指示を出しているのも見慣れた光景だ。
「アンセルミ侍女長」
雑音の多いロビーでも、リベリオの声はよく響いた。指示を出していた侍女長が、リベリオとステラの姿を見て、足早に来てくれた。
「北方騎士団、無事に帰還しました」
「大変なお役目になったと聞いております。また、ミネルヴィーノを無事に返してくださったことを御礼申し上げます」
ステラの姿を上から下まで見て、大きな怪我の無いことを確認した侍女長が深々と頭を下げる。
「ミネルヴィーノはローレ騎士長にしっかりと従い、皆様のご迷惑にはなりませんでしたでしょうか」
ステラはぎくりと肩を強張らせた。
「……何者にも変え難い任を果たしてくれました。つきまして、マリアーノ王子殿下より彼女に褒賞が与えられます」
リベリオはステラの任務について深く話すことはなく、殿下からの褒賞の話に移った。
「金のサッシュ、金貨、縁談など、広くミネルヴィーノ女史の希望に沿うとの仰せです。アンセルミ侍女長にも相談に乗っていただければと」
「承知致しました」
アンセルミもまた詳細を聞く事なく、頭を下げた。
「――あ、あの! お話し中、すみません!」
ロビーで話していたステラ、リベリオ、アンセルミ侍女長に声を掛けたのは、臙脂色の制服を着た少女だった。背は小さく、見たところ中等部を出たくらいの年頃だ。臙脂色の制服に銅色のサッシュを身につけているので、最近入城した者だろう。
「ああ、ミネルヴィーノに紹介しましょう。先日入った新人で、軍部の食堂か針子部屋に配属予定です」
「メリルです、ローレの西の町から来ました」
ローレの西の町、と言うと。
「お話し中すみません、でもあの、お礼を言いたくって」
もじもじと指をこねる少女は、赤茶の髪を三つ編みに編んでいる。その途中が焦げたように縮れていた。
「ミオバニアで燃やされた集落に住んでいたんです。私も襲われそうになったときに矢が飛んできて。ローレ騎士長とミネルヴィーノ様が助けてくれたって、王都に送ってくれた騎士の方にお聞きしました」
ステラの背筋を冷たい汗が伝う。立っている足から床の感覚が薄れて、膝がガクガクと震え始めた。
「家族で王都に引っ越してきて、私はこうしてお城勤めになったので、お礼を言わなきゃって思って。あの、助けてくださって、本当にありがとうございました‼︎」
ヒュ、と喉が詰まった。
「私も、ミネルヴィーノ様みたいになりたいです……!」
少女の言葉に嘘や世辞は無く、笑顔は純粋な感謝と憧れに満ちていた。
それが、限界だった。
一歩後ずさる、前に立つ少女とアンセルミ侍女長が怪訝な顔をした。視界が滲んで吐き気がする。口元を押さえ、ステラは全力でその場から逃げ出した。
「ミネルヴィーノ!」
「えっ、え……⁉︎」
「追います」
行きたい場所があったわけではない、ただあの場から逃げ出したかった。どこか、どこか人の居ないところへ。
思いついたのはあの鐘楼だった。遠くが見えるのだと知った、始まりの。
鐘楼の門番はマリアーノ王子と訪れたステラのことを覚えており、あっさりと通してくれた。自動昇降機が上がり、目の前に何も変わらない王都の風景が広がった時、ステラは崩れ落ちた。
「う、うぁ……ぁぁぁぁぁ…!」
うつ伏せになって泣き出せば涙は止まらず、次々と溢れて石の床に落ちた。
「う、うぐ、ぅぇ」
涙と同時に吐き気が込み上げ、唾液と胃液が混ざったものをゲホゲホと吐き出した。何かに捕まりたくて鐘楼のへりを掴もうと伸ばした手は、けれど冷たい石垣を掴むことはなかった。
「……飛び降りる気かと、思った」
ステラの腕を取ったのはリベリオだった。いつも無表情気味の顔は険しく顰められ、息を切らしている。
「ひ、一人、に、なりたく、て」
飛び降りることは考えていなかった。
「……そうか」
ふうううう、とリベリオが息を吐いた。肺の中の空気を全部出すかのような大きな大きな安堵だった。掴まれた手は離されない、ステラよりも大きな、温かい手だった。
「……ご、ごめん、なさい」
それは何に対しての謝罪だったのだろう。涙でぐちゃぐちゃになった眼鏡を外しても、視界は涙でぐちゃぐちゃのままだった。
「わた、わたし、わたしは……!」
何を謝りたいのか、何を話したいのかもわからないまま、濡れた喉元を掻きむしる。
「話していい」
誰にも言わない、誰も聞いていないとリベリオが促す。
「わ、私は、『嫌だ』とリベリオ様に言って、しまって」
あの時、ステラは『嫌だ』と言った、見たくないと。
襲われる人々を助けたいと思いながらも、狙撃される人間が死ぬ様も見たくなくて怯えて、拒んだ。
「わ、私のせいで、助けられなかったかも、しれないのに」
自分可愛さに見ることを拒んだ先に、助けられない可能性があることを、ステラは考えてもいなかった。
リベリオが命令してくれなかったら自分が目を閉じたままだったら、あの少女は、家族は。
今になって、その可能性に気づいて、こうして惨めに怯えている。
「あ、あんなふうに、お礼を言われる、なんて、……!」
言われたくない。言われる資格も、ない。
「……」
えづきながら泣くステラに、リベリオは『星の目』を出した。美しい装飾が施され、魔法技術の結晶であるはずのそれが、ステラには呪わしいものに見えた。
「……これを下賜されたのは、貴女では、ない」
リベリオの声に顔を上げる。固く、辿々しい声だった。
「『星の目』の使用権はあくまでも俺にあって、だから、使えと命じたのは俺で。貴女は確かに『嫌だ』と言った、それは、普通のことだ」
すまない、とリベリオが頭を下げた。
「非戦闘員の貴女がああいった場面を見る可能性を想定していながら、明言を避けた。……それは、俺の過失だ」
自分よりも立場も責任も遥かに上の人に、謝られてしまった。驚きで涙が少しだけ引っ込む。
「リ、リベリオ様が謝る必要は、わたし、私がもっと……っ!」
しっかりしていれば、毅然としていれば。
ステラの言葉の先を汲み取ったリベリオが、首を振る。
「謝罪と、感謝をしている。貴女は、『嫌だ』と言ったが、それでも最後まで集落と対象を見てくれた、……ありがとう」
礼を言われても嬉しくないかもしれないが、とリベリオは言う。
「う、ぅぁぁぁぁ……」
驚きで引っ込んでいた涙が、再度溢れた。
リベリオは何をどう言ったものかと、困った顔で固まっている。早く泣き止まなければと思うのに、今度の涙は止まらず、借りていたハンカチが更にぐしゃぐしゃになった。
ステラが泣き止んだのは、ゆうに十五分は後のことだった。
「褒賞の話だが」
「はい……」
泣きすぎて目元は真っ赤に腫れ、近くはおろか、あれだけよく見えていた城下の景色も霞んで見えた。
「やはり、何かを望んだ方が良いと思う」
リベリオ曰く、マリアーノ殿下は慧眼であるがゆえに人の用途に個々人の心情を慮ることができないのだと言う。三代前の王であり曾祖父でもある効率王の性質を最もよく受け継ぎ、采配は多大な利益をもたらすが、命じられた側が心身に不具合を来たすこともあるのだと。
「特に、今回の件で貴女のその目が有用だと証明してしまった。今回のように最前線に駆り出されることを拒みたいなら、拒めるだけのものが必要になる」
「拒む……?」
ステラはずっと自分には拒否権が無いのだと思っていた。そして、実際に無いのだが。
「地位が有効だと、思う」
「地位」
ステラの鸚鵡返しに、リベリオが頷く。
「金のサッシュは王城内での地位は上がるが、それはあくまで使用人としての地位だ。また唐突に駆り出されないとも限らない。だから、個人での男爵位が一番かもしれない。……確か、お母上の親族が貴族だと聞いたが」
「はい、母方の親族は男爵位を持っています」
「それに加えて個人の男爵位を持てば、今回のように説明も無しに観測手をさせられるようなことは無くなる。貴女に見て欲しいものは事前に通達される、はずだ」
次の動員が北方騎士団に同行するとも限らないのだと、リベリオは言う。
錯乱し、この目を活かすことを拒んでいたステラに、リベリオはどこまでも真摯だった。役目を果たせとステラを叱咤することも出来ただろう、逃げられないまでもせめて見るものを選べるようにと考えてくれている。
ステラは姿勢を正した。こんなにも考えてくれている人の前で、自分だけがいつまでも怯えて錯乱しているのは情けない。
思い出せ、マリアーノ殿下は何を褒賞としてくれると言っていたか。考えるのだ、この目で見るものを自分で選べるように。
金のサッシュ、金貨、男爵位、それから。
「リベリオ様、私と結婚して下さい」
「構わないが」
あっさりと、事もなげにリベリオは了承した。
「構わないのですか?」
「構わないが、問題がある。俺が用意できる持参金が、微々たるものだ」
あまりにも真剣な顔で持参金が少ないと言うものだから、ステラは笑った。皆の憧れのローレ騎士長が持参金が少ないと悩むなんて、誰も思わないに違いない。
「ふ、ふふ」
赤く腫れた目元を薄い潮風が掠める。鐘楼から見る景色は何も変わらない、美しく白い城壁、大きくてまっすぐな大通り、煌めく海面と青い空。
ステラがどんなに辛い思いをしても、景色は何一つ変わらず美しくそこにある。
いつだって、変えるのは自分からでしかないのだ。