3-5:ペトロとブランカ
出立までの時間は瞬く間に過ぎた。
普段の仕事をこなしながら、週に二度、北方騎士団の詰所に出向いて視察のルートや範囲の打ち合わせをし、空いている時間で荷造りをする。とはいえ、騎士団の遠征に同行しての視察など考えたこともなかったステラに、必要なものが分かるはずもない。
アンセルミ侍女長に相談したところ、土日の買い出しにスピナが付いてきてくれることになった。スピナは遠征に必要な物をテキパキと揃えてくれた。日除けの帽子は支給されるが、手袋は長いものを買った方が良いこと、着替えの枚数なども細々と相談に乗ってくれた。
留守の間の宝飾室とルーチェ殿下の侍女のシフトもなんとか決まり、挨拶は前日に済ませた。
荷物を持って使用人棟のロビーに降りると、朝食の準備で忙しいであろうカーラが顔を出して、持っていくのよと堅焼きビスコッティを持たせてくれた。保存食として三ヶ月は保つらしいので、道中でありがたく食べさせてもらうことにする。
「では、アンセルミ侍女長、行って参ります」
「ローレ騎士長の指示に従い、無事に帰って来るように」
「はい」
出立のこの日も、案内はスピナだった。挨拶を済ませると通用口を出て、西通用門を抜けるのではなく前庭を突っ切って東通用門に向かう。軍部の通用門として使われる、ステラには本来全く縁が無かったであろう門だ。
東通用門前には、すでに北方騎士団が整列していた。あくまで視察であるので人数は多くない。ステラも含め、衛生兵などの非戦闘員も入れて三十名だ。この三十名で二ヶ月間の視察をこなすことになる。
リベリオとアマデオが改めて目的とルートを説明し、出立となった。
ステラは予定通り、衛生兵の二人と特注の馬車に乗り込む。号令が掛けられ、騎馬と馬車が出立する。一団は王城の左右にある北門ではなく、王城の背後にある軍部専用の裏門から北方に向けた街道に出た。
軍馬に引かれる馬車は、フェルリータから王都に向かう馬車とは比べ物にならないほど早い。白く雄大な城壁は、あっという間に小さくなり、次第に霞んで見えなくなった。二ヶ月の旅の始まりである。
最初の仕事は同じ馬車に乗っている二人の衛生兵と、互いの自己紹介をし合うことだった。男性がペトロ、女性はブランカ、二人ともステラよりひとまわり以上歳上で普段は王立病院で働いているとのことだった。ブランカの方が先輩で、今回の遠征における衛生の責任者らしい。
ふんわりお姉さんといった雰囲気のブランカが、今回の遠征の道程をおさらいがてら説明してくれた。各小隊長に渡されている地図をブランカも持っていて、馬車の中で広げて三人で覗き込んだ。
「まずここが王都カルダノ、ここから北に出て私たちが向かうのはミオバニア山脈の北西部。ちょうど曲がっているこの辺りね〜」
打ち合わせの時に手元のメモ帳に書き写しておいた地図と同じかどうかを、もう一度確認する。海に面した王都のすぐ西から、北に向けて山脈は伸び、次第に右に向かってカーブする、ステラのメモは間違っていない。
「ローレの西にある拠点まで、片道十日で到着予定、であってますか?」
「そう! ステラちゃんよく覚えてて偉いわぁ。昼夜走ってしまうと五日くらいで着いてしまうから、ペースを落として行軍して、途中の宿場町や村にも泊まるの」
事前に聞いてはいたが、割と余裕のある旅だ。片道十日の間に、予定されている野営は三回しかない。
「……あの」
「なあに? 私で分かることなら何でも聞いて?」
「ありがとうございます。ええと、この遠征自体がいきなり決まった気がするのですが、割とゆっくり向かっているのは何故ですか?」
昼夜を問わず騎馬で北に走り、速やかに対処するイメージがステラにはあった。恐らくは、マリアーノ殿下が唐突に言い出し、慌てて出立したイメージが強いからだ。
けれど、いざ出立してみれば早足ではあるものの、宿場町や村に泊まる余裕がある。
「そうねえ、いろんな理由があるけど〜。大急ぎで駆けつけたら、本当に悪い人も大急ぎで逃げちゃうからかしら」
「⁉︎」
「だからこの行軍はあくまで『北方までの領地の運営視察』なの。抜き打ちじゃないの、前触れも出してあるの〜」
街道沿いにある小さな村では、畑を見たり、村長に困りごとがないかを尋ねる。宿場町では宿を取りつつ、同様に。
「ええと、そう鴨、カモ……」
「カモフラージュって言いたいのは分かったっす、ブランカ師長」
慣れているのだろう、速やかな補足を入れたのはペトロだ。
「ペトロくん偉い! そう、カモフラージュ! 例の鉱山だけは抜き打ちで行くから、二人とも村や宿場町で話題にしちゃダメよ?」
軍法会議になっちゃうから、と微笑むブランカの顔はやはりふんわりお姉さんだったが、言っていることが怖い。ペトロと二人、首がもげる勢いで頷いた。
「あー…ミネルヴィーノ女史?」
「あああ、ステラです。ステラ・ミネルヴィーノと言います。フェルリータの商家の出なのでステラとお呼びください」
間違ってはいないのだが、自分よりも年上の先輩方に女史と呼ばれるのは心地が悪い。
「ペトロっす。王都の平民の出なんでペトロって呼んでください、ステラさん」
「よろしくお願いします、ペトロさん」
「ペトロくんはね、王立病院のエースなの〜」
「いや、ブランカ師長に褒められると怖いんでやめてください」
王立病院では有望な若手に経験を積ませるため衛生班を派遣しており、今回はペトロが抜擢され、監督役としてブランカが派遣されたのだという。
ブランカは王都でも数少ない治癒魔法の素養持ちで、首と胴体以外は繋ぐことが出来るらしい。
「……首と胴体、以外」
「いや、あれはマジですごいんで一回見てみるといいっすよ」
「見る機会があるほうが困ると思うわよ〜?」
もっともである、そして見たら倒れると思うので全力で遠慮したい。
「ステラちゃんは、遠征は初めてなのよね?」
「はい、物資の管理官を任せて頂きました」
とは言え、ある程度余裕があり途中で補給の見込める旅であるので、物資の総量は本格的な行軍に比べれば多くない。ステラ達が乗っている馬車の他に、もう二台分の荷馬車だけだ。積み込まれる物資は、ここ数日を掛けて帳票に記録してある。
「ねえねえ、例の『星の目』って使ってみた〜い」
「あ、はい」
傍に置いていた帆布のカバンから、星の目を取り出す。下賜の名義こそリベリオだが、ステラが持っていなければ意味がないとモノクル双方を渡された。持ち運びや出し入れがしやすいようにと、モノクル用の眼鏡ケースに移してある。
「すごいわよねえ、この馬車だって特注だし」
今乗っている馬車は、側面と天井をドーム状に覆う通常の幌馬車ではなく、王都内を循環する辻馬車を改良したものだ。屋根と椅子があり側面は開いている馬車を、長旅に耐えられるように車輪を替えて軍馬が引けるように改良された。
モノクルを着けようと、眼鏡を首に下ろす。ブランカ達が色のついた雲になって、けれど周囲の景色はよく見えた。街道の先を行く旅人の背中も、周囲の畑を耕す人々の土に汚れた顔も。
そして左手奥に見える緑紺の山脈がミオバニア山脈だ。夏の雲を背景にそびえる稜線がとてつもなく美しい。
「すごい遠視って聞きましたけど、今どんな感じすか」
「お二人がまだら色の雲になって、顔がどこにあるか分かりません。景色は良く見えます」
ちなみに、ブランカ達が着ている服は王城の制服ではなく王立病院の制服だ。
星の目を先日と同じように右に装着して、スクリーン側のモノクルを差し出した。どちらかに向けて出した物ではないそれを、受け取ったのはブランカだった。
「ええと、これをどっちかの目に着けるのよね。……うわ、うわあ、すっご〜い! すっごい遠くまで見える〜、えっ、これ何キロ先まで見えてるのかな」
「マジすか、早く交代してください師長」
ステラの隣に座ったブランカがはしゃいで、それからステラのこめかみに触れた。
「ちょっとそのまま遠くを見ててね〜」
「は、はい」
ブランカの指がマリアーノ殿下と同じように、こめかみの辺りを探る。
「魔力の凝りがあるわね〜」
「マリアーノ王子殿下にも言われました。あの、ブランカ師長、これは治るものですか?」
「う〜ん、血の凝りは治したことがあるけど、魔力の凝りは素養的なものだから治せないのよねえ」
「そうですか……」
いや、今治されても困るのではあるが。
「命に害は無いから大丈夫! 日常生活も眼鏡で上手くカバー出来てるみたいだし。はい、ペトロくん交代」
「うっす!……うわ、うっわ、すげぇー! あっ、ステラさん、ちょっとこっち向いてみてください。………あ、マジで近くは見えないんすね」
モノクルを渡されたのだろうペトロが騒ぎ、ついでに近距離の視界も確認された。
「ブランカ師長は、お医者様ですか?」
「医師免許も持ってるわね〜」
それから、ブランカは治癒魔法と医師の違いを教えてくれた。魔法で怪我や病気を治すことの出来る人間の出生率は至極稀であり、それに頼るのは現実的ではない。そのため、魔法によらない治療を行う者の中で、国家試験に合格したものを医師と定め、王都には医師を養成する学校がある。
「マリアーノ殿下も医師の資格を持っていらっしゃると、パーチ様にお聞きしました」
「マリアーノくんはね〜、すっごく優秀な生徒さんだったの〜」
「へ?」
生徒、とは。
「あ、あの……今、生徒とおっしゃいました……?」
「ええ、今回の遠征に着いてきたのもマリアーノくんからお手紙を貰ったからなの。旅行にも行きたかったし、かわいい生徒の頼みですものね」
メモも頭も整理が追いつかないので、少し待って欲しい。眉間を抑えて俯くと、視界が塞がったペトロから文句が上がった。
「茶色の床ぽいのしか見えないんで遠くを見て欲しいっす。……あ、もしかして知らなかったです? ブランカ師長は御歳六十五で、王立病院の医師長で、王立医学部の部長っすよ」
ものすごい偉い人だった。
「お孫さんも居るっすよ」
「やーねー、歳は気にせず気軽にブランカって呼んで欲しいわ〜」
ひとまわりくらい上かなあと思っていたら四まわり以上年上の御方だった。ニコニコと笑うふんわりお姉さんはどう見ても三十台だ。当然ながら、そんな御方を気軽に呼べるスキルなど、ステラは持ち合わせていなかった。