3-2:星の目①
昇降機が上がりきって柵が開けば、眼前には一面の空と海が広がっていた。
「うわぁ……!」
王城から中央広場へ大通りが真っすぐに伸び、中央広場からは港へ、港からは水平線へ、その全てを見渡せる絶景だ。白い建物に青い空、太陽の光を反射して光る海は例えようもなく美しかった。風が強く、ここが王都で一番高い場所なのだと実感する。
鐘楼自体はそう広くない。五人も上がれば満員の屋上の中央には大きな鐘がある。屋上にいた係員が、大きな鐘が時刻用で、他にも緊急用など小さな鐘も幾つかあると説明してくれた。
しかし、景色や鐘を見せたかった訳ではないだろう。こんなところまでステラを連れてきて何を、という疑問はすぐに解決した。青空と海の絶景を楽しむような時間を、マリアーノ殿下は与えてくれなかったからだ。
「うん、いい天気だねえ。じゃあ君、眼鏡はそのまま、まず、あそこに近衛兵が立っているね?」
そこ、と指さされたところは西通用門。ステラ達使用人が出入りする、王城の西側側面の門だ。
「こんなところまですみません、ミネルヴィーノさん。殿下にもうちょっと付き合ってやってください」
「失礼だなエルネスト、すぐ終わるよ。西通用門はここからだと三百メートルくらいかなあ、兵士が立ってるのは見えるね」
「はい」
「じゃあ、兵の兜に書いてある近衛師団の紋は見える?」
「……いいえ」
米粒サイズの人の、兜の模様が見えるわけがない。マリアーノ王子殿下は何故かステラの視力検査をしたいらしい。眼鏡無しでは日常生活すらままならないのだ、いかに眼鏡があろうともステラが見える距離は普通よりも悪いだろうに。
「じゃあ、次。中央広場にいる人は見える? 二キロ半くらいだけど、服の模様は?」
「……クスクスの粒のような大きさです」
人が居ることは分かる。だが、どんなに眼鏡の奥で目をすがめて見ても米粒よりもさらに小さく点が見えるだけだ。服の模様どころか服の色すら分からない。
「まあ、見えないよねえ。じゃあ、眼鏡を取って」
言われるがままに眼鏡を首に下ろす。
「もう一度、西通用門の兵士を見て。兜の紋が見えるかどうかも」
相手は第一王子殿下である、ステラに拒否権などない。ステラの頭にあったのは、よく分からないけれど早く済ませて帰してもらおうということだけだった。少しばかりげんなりしつつも、言われた通りに西通用門の兵士を見た。
「……」
「じゃあ、次、中央広場に居る人を見て」
「……」
西通用門の兵士を見る、それから中央広場の人を見る。
「………ぇ」
自分が見たものが信じられず、ステラは何度も西通用門の兵士と中央通りの人を見返した。ギギギとぎこちない動きで、横に居るマリアーノ殿下を見る。恐る恐る見た麗しいのであろう殿下は、やはり黒い雲にしか見えなかった。
なのに。
「ねえ、どのくらい見えてるの?」
黒い雲ことマリアーノ殿下の声は、この上なく楽しそうだった。
「……中央広場の人の、服の模様が見えます。西通用門の兵士さんの兜の模様も見えます、こちらは少し、ぼやけていますが……」
見えます、とステラは答えた。
「どうして……」
どうして、見えるのだ。ステラは今眼鏡を着けておらず、横にいるマリアーノ殿下とエルネストの顔は全く見えないのに。何故、二キロ離れた中央広場を歩く人の、服の模様や顔がはっきりと見えるのだ。
「うわあ、ほんとに見えるんだ。もしかして、港に居る人も見えてる?」
言われて目線を向ける。王城からは四キロ離れた港、そこで働く筋骨隆々の男達、船から降ろされる荷物。それら全てが、七十歩ほど先の近さに見えた。
「見え、ます」
人数も、顔も、服の模様も、と震える声でステラは答えた。
「面白いなあ! 近いものほど見えないのは確かに遠視だけど。近くはどこまで見える?」
港から視線を下げ、少しずつ近くを見るようにする。正門前の兵士の格好はよく見えた、けれど鐘楼に近い西通用門の人たちは少しぼやけ、鐘楼の下にいる人たちは芝の色と混ざって緑色の雲になってしまった。
「……正門に立たれている方々までは、はっきり見えます」
「七百メートルくらいかあ、面白いねえ。何が面白いって、七百メートルまでが見えるんじゃなくて七百メートルから先がよく見えるところがとても面白い。あ、眼鏡もう掛けていいよ」
眼鏡を掛ければあれほど近くに見えた港は見えなくなり、横には美しいご尊顔と、エルネストの驚いた顔があった。いつの間にかマリアーノ殿下の手にはノートがあり、何やら書き付けている。
「あの、これは……」
「……その遠視は生まれつき?」
「いえ、高等部に入る頃に……三年くらい前から、悪くなり始めました」
「それより前は、遠くって見えてた?」
尖塔と建物が密集したフェルリータでは、遠くを見る機会が少ない。しかし、季節の折々で登った尖塔の上から、遠くの人が見えたということはないはずだ。少なくとも、こんなふうに数キロ先の人の顔が見えた記憶はステラにはない。
「見えてなかったと…思います」
「本の文字とか、近くは見えてたんだよね?」
「はい」
「後天的かぁ」
「あの、殿下、ミネルヴィーノさんの目は、なにか病で…?」
驚きで青ざめているエルネストの問いに、ステラはびくりと肩を跳ねさせた。
「病気じゃないよ、こめかみのところに魔力のうねりがあったから多分そのせい。遠くを見るとき、目の周りが楽だったりしない?」
「え……」
眼鏡を下ろし、もう一度港を見る。
言われて気づいた。常に目をすがめ、イガグリ娘とまで呼ばれていたのに、港や中央広場を見るときは目や眉間を引き絞っていない。
「あ、はい……楽、です」
「人よりも焦点が遠くなったんだ。失明の心配とかはしなくていいけど、城の中で暮らすには眼鏡をしていたほうがいいね」
疲れるから、と言われ、ステラはエルネストと顔を見合わせて胸を撫で下ろした。
「あの、マリアーノ殿下はお医者様なのですか?」
「殿下は医師の資格を持っておいでです」
エルネストが説明するところによると、魔法師団で人体の魔力の流れを研究しているうちに、人体の仕組みに精通すべく王都の医学部の門を叩くに至ったらしい。王族でなければ奨学金が出るほど優秀だった殿下は医学部を主席で卒業した。
結果、魔法にも医学にも精通する王都随一の研究者が出来上がった。今は国庫を食い潰したり潤わせたりしながら、魔法師団で意気揚々と研究をしたり王立病院に呼び出されたりしているそうだ。
「面白いなあ、その視界見てみたいなあ。何か方法ないかなあ、……あ」
楽しそうに独り言を呟いていた殿下が、ポンと手を打った。
「君、ミネルヴィーノさん。夜の十時くらいにもう一度ここに来てくれる?」
十時、使用人の消灯をとうに過ぎた時間である。いい考え、とはしゃぐマリアーノ殿下を、エルネストが咎めた。
「侍女を夜に呼び出すなど言語道断です、殿下」
「えええ……じゃあ誰か他の人も呼びなよ」
「……すみません、ミネルヴィーノさん。アンセルミ侍女長に話して、迎えも寄越します。絶対に二人きりにはさせませんので、夜にもう一度来て頂けますか」
「………はい」
はい、以外の何をステラに答えられただろう。
昼前から想定外の困憊をして、一旦解散となった。