1-2:三年生になったイガグリ娘
「うぅ……視線が痛いよ…」
校舎の廊下の隅っこを、ステラは小さくなりながら歩いていた。
一週間の春休みを終えて進級したものの、学校にある商業科のクラスは僅か二つ。元婚約者とクラスが分かれたことは幸いだが、そもそも商業科は学年全員が何かしらの店や職人の子供であって顔見知りである。
感想は概ね『やっぱり』だ。宝飾店ミネルヴィーノはそれなりに繁盛店だったので直接聞きに来る野次馬は居なかったが、人の口に戸は立てられない。ステラの婚約破棄は学年全員に知れ渡ったと言っていい。
チラチラと様子を伺うクラスの視線に、条件の不一致だから何も揉めてないわ、と言える神経の太さをステラは持っていない。いつもより頭の角度多めに俯きながら、次の講義の教室に向かっていた。
そんな状態だったので、ほぼ床だけを見ながら歩いていたステラは前に居る人に全く気づかずにぶつかった。
「……わ、あっ!」
「え……っ⁉︎」
持っていたノートやペンをバラバラと盛大に廊下に落とし、衝撃で尻餅をついたステラの視界には、床とぼやけた四角の白い物。多分、お互いの教科書とノートだ。
「あああああ! すみませんすみません!」
「どこ見て歩いてるの⁉︎」
「すみません! 怪我はありませんか、すみません!」
必死で謝りながら散らばった教科書を掻き集めるステラに、怒号が飛んでくる。声は女子のものだった。
床は板でも膝や手のひらに怪我をさせてしまってないかと、ステラはパニックだ。頭を床に擦り付けんばかりに謝りながら、落ちたものを要領悪く掻き集めるステラに、ぶつかった女子生徒も勢いが削がれたらしい。
「……驚いたけど、怪我はないわ」
「あああ……どなたか分かりませんが本当にすみません。良かった……」
「……あなた、クラスメイトの顔も覚えてないの?」
「!?」
「編入生のエリデ・カルミナティよ! 授業前の朝礼で挨拶したじゃない!」
半島国家の真ん中にある都市フェルリータは交易都市であるので、人の出入りが激しい。商業科は特に親の仕事に着いて転入転出する生徒が多く、年に五人ほどが入れ替わる。互いに床に膝をついて顔の高さはほぼ同じ、目の悪いステラには彼女の髪が赤いことしか分からないが、名前は分かる。
「あああ、すみませんすみません! ヴィーテから転入して来られたカルミナティさんですね⁉︎」
教室の真ん中あたりのステラの席から、黒板前に立つ彼女の髪色は分からなかったが、ハキハキと綺麗な声で喋る人だなあというのは記憶している。顔がわからない分、声や会話を覚えるのにステラは必死だ。
「そうよ! ……まったく、人の顔と名前をすぐに覚えないなんて、フェルリータの商業科のレベルも低……ん、んん?」
レベルが低いのは商業科ではなく私です、と答えようとしてステラはすくみ上がった。文字通り目と鼻の先に赤い髪と白い顔があったからだ。目鼻立ちは分からないが、鼻先がくっつきそうなほど近くに相手の顔がある。
「…ちょっと失礼するわ」
「ヒィ!」
彼女の手が遠慮なくステラの前髪を掻き上げた。
パニック状態だろうがステラの険しい眉と目つきの悪さは健在である。顔色の悪さも相まって、むしろ悪化している。
「……ふーん」
「……あ、あの……」
さらなる失礼を何かしましたでしょうか、とは言えない。ぶつかって転ばせたのはステラだ。ジロジロと眺めまわされる圧力に、制服を握りしめた手のひらに脂汗が湧いた。こうなると相手の表情が分からないのが、いっそ幸運に思えてくる。
一分ほど凝視されてから、前髪は降ろされた。しかも元の真っ直ぐなすだれに戻す丁寧さで。
「あなた、目が悪かったのね。どこを見てるの、なんて言ってごめんなさい。近くが見えないの、不便だものね」
「え、え?」
何だろう何が起こっているのだろう。今日転入してきて会話をしたのも今が初めての人が、ステラの目が悪いのだと、不便だろうと言う。なぜ、そんなことが分かるのだ。
「違うの? ボケっとしていて、目つきが悪いだけ?」
「い、いえ、目が悪いです!」
「だと思った。授業が始まるわ、背中は見える? ついてきていいわよ」
「は、はい!」
転入生に校内を誘導されるという、まさかの事態である。けれど、ステラは固辞せずにスタスタと歩く背中となびく赤い髪について行った。
「……どうして、目が悪いって分かったんだろう」
商業科クラス合同の授業で、ステラはぼんやりと考えていた。
本人は考え事に夢中だが、目つきの悪さに磨きが掛かっている。最前列の席に座っても黒板の字が見えないのだ、隣に座ってくれる友達などもちろんいない。誘導してくれたエリデは教室に入るなり編入生に興味のある一団に囲まれ、その子たちと一緒に座っている。
「今から問題を黒板に書くぞー。各自手元で計算するように」
帳簿計算の教師が、商品の単価や数量、税率などをカツカツとチョークで書いている。書いているの、だろう。
黒板に浮かぶ白い雲をステラは目をぎゅうぎゅうと細めながら凝視したものの、かろうじてわかるのは『1』くらいだ。授業中にしかめ面をしている生徒、しかも最前列は目立つ。
「何を睨んでいるミネルヴィーノ、前に出て解くか?」
「いえ、あの、……読めなくて」
「はあ⁉︎ 数字がか!」
「……はい」
クスクスとひそやかな笑い声が教室に響く。
「最前列の席で何を言っているんだ。もういい、……そうだな、編入生から誰か。カルミナティ、解いてみるか?」
「はい」
ステラにもういいと手を振って、教師はエリデを指名した。前に出たエリデは小気味よいチョークの音を鳴らしながら快調に問題を解いた。
「うん、正解だ。計算は家業の手伝いか?」
「はい。お聞きしたいのですが、この税率はフェルリータの税率ですか?」
「これは美術品や工芸品の税率だな。食べ物や酒はまた個別に指定される」
「なるほど、では……」
目の前で行われるハイレベルなやり取りでさえ、ステラには雲のようにしか見えない。
ステラの『目が悪い』は、子女の通うこの学校の『目が悪い』と少し違う。同年代の子たちにも目が悪い子というのは一定数存在している、けれど彼らは近くのものは見える。本は顔に近づければ良いし、黒板の文字も最前列に座れば大丈夫だ。
ステラは違う、『近くが見えない』のだ。
最初から見えなかったわけではない。本の文字が歪み始めたのが中等部三年生の終わりごろ、高等部への進級試験には響かなかったが、そこから急速に悪くなった。どんなに顔に近づけても本の文字が見えない、自分が手元で書く文字も読めなくなった。
医者にはもちろん見てもらった。ステラを心配した両親は、市長御用達の医者のところに連れて行ってくれた。
診断の結果は、亡くなる間際の老人が掛かる目の病、だ。
七十歳くらいの老人は近くが見えなくなるのだと医者は言った。ステラのように十五歳そこらで掛かった例は見たことがないと。盲目にはならないが、ハッキリと見えるようになる薬も無い。
医者にそう言われたとき、ステラを抱きしめてくれた母の腕は震えていた。父は武骨な掌で顔を抑えていた。
「……本当に、目が悪いのね」
「え、あ、……カルミナティさん」
「エリデでいいわ。ミネルヴィーノさん」
「ステラです。ステラ・ミネルヴィーノ」
休憩時間にお礼を言わなければと教室の中を探していたら、エリデの方から話しかけてきてくれた。申し訳ないと同時に、とても助かった。この目で人を探すのは難易度が高い。
中等部のころのステラは要領はさておき計算も筆記も苦手ではなく、真面目に取り組むことで成績は良い方に入っていた。礼状の字が綺麗だと褒められたこともある。
その成績は、高等部一年で直滑降で落ちた。
二年生の一年間は地獄だった、婚約者どころではなかった。目が悪くなった詳細を、婚約相手や周囲に話すのはやめましょうと母が言った。口さがない人間はどこにでもいるからと。
なによりステラは裕福な商家の年若い娘だ。おあつらえ向きだと誘拐する人間がいるかもしれないからと。幸いステラには妹がいて、一緒に登校することは当たり前で、内弟子の誰かが送り迎えをしてくれることもあった。
「先程は本当にありがとうございました、お礼も自己紹介も遅れてすみません。中央通りの宝飾店、ミネルヴィーノの娘です」
ステラは丁寧に腰を折って頭を下げた。目が悪いステラにとって、自分のせいで周囲の誰かにケガをさせてしまうことが何より怖かった。移動中でなければ、少しは落ち着いて商家の娘らしい対応が出来る。
「エリデ・カルミナティ。工房通りに工房を構えたところよ、看板は今作ってる」
「工房通り! お隣ですね」
華やかな中央通りと、職人が軒を連ねる工房通りは平行に市街地を通っている。店部分は中央通りにあるステラの家も、父が作業する工房は工房通りの地区に入っている。『買うなら中央通り、作るなら工房通り』とは観光客に向けて掲げられる言葉だ。
「で、あなたのその目だけど、どのくらい見えないの? さっき答えられてなかったけど、黒板の字もダメ?」
「見えないです……」
最前列の席と黒板の間は十歩もない。
「手元の本やノート書きは?」
「全然……」
「まるで老人の目ね」
はじかれたようにステラは顔を上げた。
「な、なんで知って……⁉︎」
震える声に問われたエリデは、ぱちりと目を瞬かせた。なんでそんなことに驚くのかと、腕を組んで首を傾げて、さも不思議そうに。
「なんでって……だってあなた、うちのお客様じゃない」