Ever After:絶え間ない日々を
彼女の奏でるチェンバロは凡庸だった。教師に評させれば「楽譜に忠実ですね」と評され、音楽家に評させれば「余韻が足りない」と評されるだろう。
楽譜に忠実過ぎるほど忠実な演奏をしている貴婦人ことステラ・ローレは、彼女の敬愛する主人に半ば泣き言混じりに進言した。
「あの、ルーチェ殿下、殿下がお望みなら音楽家を呼んで参りますが……」
何もこんな素人の演奏を聞くことはないとステラは思う。
「あの人たちの演奏はうるさいのよ、いちいち主張が激しくて」
「は、はあ……」
王城に召し上げられた音楽家達の演奏を、御年二十三になられる第二王女殿下はにべも無く切り捨てた。
楽器や書籍の揃った交流室は広く、演奏会から自習まで手広く使える部屋だ。傅育官であるステラを連れ部屋に籠る王女殿下から、背景音代わりにチェンバロの練習をしなさいと楽譜を渡されて今に至る。
公爵夫人という冗談のような立場にあてがわれ、音楽の技能を持ちなさいとマリネラ妃からの助言に従いチェンバロを選んで早十年、面白みはなくとも楽譜をなぞるのには困らない。ステラは自分のことをよく分かっていたので、もちろん歌や詩歌の朗読は選ばなかった。
「ルーチェ殿下は最近、共和国の言葉を熱心に勉強していらっしゃいますね」
指を鍵盤の上で動かしながらステラは尋ねた。本棚から机の上に出された本は、王国の北に位置する共和国の本だった。王国の西に位置する帝国は共用語に一致する部分が多く会話にも文通にもあまり苦労がない。一方で北の共和国の言語は、それなりに学習を要する。
「来年かしら、私が共和国を訪問する話が出ているのよ」
「まあ」
「パレルモの港から共和国の首都を訪ねる船旅になるけど、あなたも来る?」
「はい、喜んでご一緒致します」
演奏を全く止めず即答したステラに、ルーチェ殿下は少しばかり顔を顰めた。
「少しはためらいなさい」
即答したステラ・ローレ公爵夫人は、王都に家族が存在する。
「夫も即答すると思いますが……」
何ならステラより即答が早いまである。
「ローレ公爵は公爵と北方軍総司令と北方騎士長の三役でしょうに。どうやって付いてくる気よ……?」
「リリアナ様に譲り損ねてしまいましたものね」
ローレ公爵の優秀な妹は、現在西の帝国で帝国軍総司令の地位に就いている。まさか兼任もできまい。
「他国の公爵の妹を総司令に任命する皇太子も、王国の公爵位を妹に譲ろうとする公爵もどうかしているわ」
「イズディハール皇太子殿下は器の大きな方でいらっしゃいますね。自分には過ぎた役割だと、夫は常々申しております」
それなりに周囲に認められた今であっても、ステラの夫は不器用で頑固だ。
「それ、まだ言っているの? ローレ公爵夫妻は自分達を軽んじるのが欠点よ、自覚なさい」
王女殿下の叱責はもっともだった。ありがたくも耳が痛い。
交流室の扉が外側からノックされ、今度は演奏を止めてステラは立ち上がった。精巧な作りの壁時計は、ちょうどお昼の三時だ。
「王女殿下、お昼のお茶をお持ち致しました」
聞き慣れた声がして扉を開けると、ワゴンを押してアンセルミ侍女長が入ってきた。十年前から変わらず、王城に勤める誰よりも時間に正確だ。
ステラとアンセルミ侍女長の二人がかりでお茶と菓子を円卓にセットする。本に栞を挟んだ王女殿下が席に移れば休憩だ。
「ステラ・ローレ、同席を許します」
「ありがたく相伴に預かります、ルーチェ殿下」
慣れてしまったやり取りで隣の席に座る。今日のお茶は冷たいコーヒーとオレンジのタルトだった。一足先に試食させてもらって知った味に、城の厨房でメキメキと頭角を現している友人の活躍を嬉しく思う。
新鮮なオレンジが美しいタルトは瞬く間に皿から消えた。上品なサイズに切り分けられていたピースは、ステラよりも姫君の方が少しだけ消えるのが早かった。美味しいと思ったものは速やかに黙々と口に運ぶのがルーチェ殿下だ。
「アンセルミ様、タルトのおかわりを頂けますでしょうか。ルーチェ殿下も一緒にいかがですか?」
「……頂くわ」
頷いたアンセルミ侍女長が二人分のタルトを再度切り分ける。侍女長に給仕してもらうのも、侍女長と同じ黒の制服と金のサッシュを纏っているのも、ステラは未だに落ち着かない。
手伝いをしたくてたまらないステラに、侍女長が皿を渡す。
「どのような形、どのような仕事であっても、誠心誠意お仕えすることに変わりありません。長く仕え続けることが何よりも大事なのですよ、傅育官」
「はい」
皿と言葉を受け取って、ステラは神妙に頷いた。
「週末はエヴァルド殿下の式典ですが、準備は終えていますか?」
今週末はエヴァルド殿下の立太子の儀だ。晴れて王太子に指名されたエヴァルド殿下を祝い、昼は王族方のみの式が、夜は貴族と官僚を招いて舞踏会が行われる。
「はい、準備は終えてございます。舞踏会に合わせて新調しましたルーチェ殿下のドレスは、白の繻子に金糸で刺繍を施しました。ヴィーテ公爵閣下からの贈り物の鮮やかな吹き流しのサッシュをお腰に、珊瑚と真珠の髪飾りと首飾り、耳飾りに指輪の一式を新調しましたので大変お似合いで華やかな装いになりました」
真面目だが口下手で知られる傅育官らしからぬ滑らかな説明に、侍女長はこめかみを押さえた。飾られる予定の王女殿下は、我関せずとタルトを口に運んでいる。
「私が尋ねたのは貴女の準備です、ステラ・ローレ公爵夫人」
太陽が西の国境に沈み夜が訪れようとする頃、城の前庭には貴族の紋入りの馬車がごった返し、舞踏会の会場に通じるエントランスホールは大勢の人でひしめき合っていた。
歩いたほうが早いと十年前から思いつつ、ローレ公爵ご夫妻ご到着などと大仰なアナウンスをされながら、ステラはリベリオに手を取られて馬車から降りた。
「こっちよ、ステラ」
「ナタリア様」
ステラに声を掛けてくれたナタリアは、黄色と紺を組み合わせた夜明け色のドレスだった。身体に沿う人魚のようなシルエット、首飾りには大粒のスターサファイア。豪華な美女には豪華な宝飾品が似合う、と首飾りを仕立てたステラは満足げに頷いた。
「凄い人出だ」
「ええ、王国中の貴族が集まっていますからね」
目を眇めつつ人混みを眺めるリベリオとエルネストも今日は最礼装だ。黒の礼服に白の手袋、胸には同伴者のドレスと共布のチーフを。親に同伴を許されたのだろう年若い令嬢達が、二人の姿を遠巻きに見てはキャアキャアと色めいている。
「ナタリア様、今日はミケさんとナディア様はどちらに?」
「ミケさんは警備の責任者、ナディアは国賓案内よ。大役を任されたって、二人とも張り切ってたわ」
連れ立って会場へ移動する道すがら、今夜の段取りを再確認する。
「まずは国王陛下、それからエヴァルド殿下からのお言葉が。次に、国賓の方々のご挨拶。それから国王陛下ご夫妻とエヴァルド殿下ご夫妻がダンスを披露されて、その後に我々……で合っていましたでしょうか」
扇子の内側で指を折りながらステラは確認する。
「お二人はパレルモ公とヴィーテ公と一緒の、貴族の内では一番手の組ですね。ダンスを終えたあと、三大公爵家の方々にはお言葉があるやもしれません」
会場の警備は魔法師団と近衛師団だ。進行をミケと共に確認していたであろうエルネストが、増えるやもしれない手順を補足してくれた。
いつぞやリベリオが窓を粉砕した謁見の間と異なり、舞踏会の会場は臣下が先に入場し、王族は玉座のある段の側面から入場する。当然のことながら、二人は国賓に混ざり最前列に案内された。十年経っても胃は痛い、胃を押さえずに済んでいることが成長なのかは不明である。
「国王陛下並びに、王太子殿下ご入場!」
ファンファーレが鳴らされ、王と立太子の儀を終えたエヴァルド王太子が拍手と共に迎えられた。
続いて王妃と王子王女殿下が入場し、壇上に揃った。王族の方々は十年が経っても変わらず美しい。変わったのはステラが最前列に立っていることだ。
「今日のよき日、皆と共にこの日を迎えられたことを嬉しく思う」
国王ヴァレンテ・カルダノから挨拶があり、次いでエヴァルド王太子が前に進み出た。
「私は、マリアーノ兄上やルーチェのような才覚を持たない」
会場に立ち並ぶ貴族、臣下全てが静まり返った。
「私は、兄妹の中で最も凡庸である」
己を卑下するでもない、事実を述べただけの言葉だった。
「どうか皆、私と共に国を支えてほしい。凡庸な私は、それでもこの国の第一の臣下でありたい」
温かく力強い声だった。自らを飾り鼓舞する必要のない、等身大の人間の声だった。
漣のように拍手が始まり、それはやがて大きなうねりとなった。王太子殿下万歳、という歓声は長く続いた。
頃あいを見計らって王族方が着席する。王と王太子の前に、二人が進みでた。帝国の大宰相と、共和国の大臣だ。
「親愛なるヴァレンテ・カルダノ国王陛下、エヴァルド王太子殿下に心よりお祝い申し上げます。先日は我らがグローリア皇太子妃殿下の第三子誕生に際しお祝いの品々を頂いたことも、併せてお礼申し上げます」
今日は立太子の祝いの席だ、王ではなくエヴァルド王太子が代わって答えた。
「親愛なるイズディハール皇太子夫妻に新しい御子が誕生したことを我々も嬉しく思う。先日はイズディハール皇太子殿下より、我が親友リベリオ・ローレ公爵が妹リリアナ・ローレが帝国軍総司令の地位に就いたと直筆の文を頂いた。我が義兄イズディハール皇太子殿下の度量の大きさには感服するばかりだ。どうかこれからもよき盟友であって欲しい」
ステラの隣に立つリベリオの喉で、奇妙な音が鳴った。いつの間にか王太子殿下の親友になっていたらしい。
「親愛なるヴァレンテ・カルダノ国王陛下、エヴァルド王太子殿下に共和国を代表しまして心よりお祝い申し上げます。我らの友好がミオバニア山脈に阻まれることなく続きますことを願いまして、祝いの言葉とさせて頂きます」
共和国とカルダノ王国の間にはミオバニア山脈が横たわっている。陸路での通行は山脈が途切れるパレルモの北のみであり、パレルモから海路を選ぶ者の方が多い。共和国の大臣も来訪にあたり船旅を選んでいた。
「遠路遥々ようこそお越し下さった。偉大なるミオバニアの神々は我らの友好を妨げるような無粋な真似はされますまい。積もる話もある、どうかゆるりと滞在頂きたい。パレルモ公も案内ご苦労であった」
リベリオを挟んで反対側に立つパレルモ公爵が一礼する。やり手の貿易商としても知られるパレルモ女公爵は御歳五十、ステラ達のよく知るレオ君ことレオナルド少年の後見人だ。
国賓の挨拶が終われば舞踏会の始まりだ。楽団が入場し、開いた中央に国王とフルヴィア妃、エヴァルド王太子とその妃が進み出た。ルーチェ王女殿下のダンスパートナーは腹違いの兄であるマリアーノ第一王子殿下が務めた。
王太子に成れなかった王子が腹違いの妹のダンスパートナーを務めるというのは、異国からの来賓の目には奇妙に映るらしい。多少のざわめきはあれど、この日のために用意したルーチェ殿下のドレスが波打ちながら回る様は美しく、ステラはとても満足した。
王族の方々のダンスが終われば、三大公爵家と侯爵家の組の番だ。ステラとリベリオは揃ってホールに進み出た。チェンバロと同じく、ステラとリベリオはワルツも至って凡庸だ。教師に評させれば「背筋に棒が入っているのは素晴らしいです」と評され、舞踊家に評させれば「情緒が足りない」と評されるだろう。
しかしながら足を踏まないことと音に正確すぎるほど正確すぎることには定評があったので、この夜もローレ公爵夫妻は卒なく踊り終えた。挨拶の時と同じく、玉座の前に全員で並んで膝を折る。
まずは王太子の祖父であるヴィーテ公爵に国王から祝いの言葉が、次いでパレルモ女公爵に労いの言葉が。三大公爵家の中では最も年若いリベリオとステラの前にはエヴァルド王太子が立った。
「お揃い、だ」
ステラとリベリオは顔を見合わせる。お揃いとはなんだろう。
「十年前、其方達は制服で国王陛下の謁見に出た。覚えておるだろうか」
「……若気の至りに御座います」
実利を優先したとはいえ、思い出すととても恥ずかしい。
「ローレ公爵夫人のドレスの色が、その時の制服によく似ている」
ステラの今夜のドレスはアウローラ製だ。首元から腕を覆うのは白のレース、胸から足元まではピーコックグリーンの生地に銀糸で刺繍が施されている。奇しくもその緑色は、王城で働く大多数の人間が纏う制服の緑色によく似ていた。
十年前、ステラとリベリオの制服は緑色だった。それ自体はただの事実だが、問題はここが国賓も列席する公式式典の場であることだ。労働者の色で出席するなどと、と王族の方々が非難されるような理由になってはならない。ステラの顔から血の気が引いた。
けれど。
エヴァルド王太子殿下の金色の目が柔らかく、懐かしむように細められた。
「働く者の正装は、真面目で誠実な其方達らしい揃いであった」
リベリオの鳶色の目が丸く開いて、それから少しだけ弓を描いた。
「其方達のような臣下を持てたことを、私は身に余る幸運に思う」
胸がいっぱいになって言葉が出ないステラに代わり、リベリオが応えた。十年前と同じ言葉を。
「何よりも嬉しいお言葉を頂きました。これからも国王陛下並びに王太子殿下、カルダノ王国に忠勤を尽くす所存です。――夫婦ともに」
ローレ公爵家の馬車が王都の邸宅に戻ったのは、夜がとうに更け日付が変わる寸前だった。ステラとリベリオを玄関に出迎えたのは執事と侍女とそれから。
「リカルド、ロゼッタ」
「まあまあ、お父様もお母様も遅くなると言ったでしょう?」
長椅子から立ち上がった寝巻き姿の子供二人は、どう見ても眠そうだった。起きていると言って聞かれませんで、と執事が説明する。
「……そうか」
上着を脱いだリベリオがぬいぐるみごと男児を抱き上げ、寝室に連れて行くと指だけで示した。ステラは頷いて、女児の手を握った。
「待っていてくれてありがとう。さあ、寝ましょうね」
頷いたのか舟を漕いでいるのか分からない子供は、自分のベッドに入って毛布を掛けられればすぐさま眠りに落ちた。
「奥様、お風呂と夜食の用意が御座いますが」
着替えられますか、と尋ねる侍女にステラは少し考えて答えた。
「コーヒーだけお願いできますか。少し、夜風にあたってきます」
「……執事の仕事を奪ってくださいますなと、叱られた」
「私は、侍女の仕事を奪ってはいけませんよと、叱られてばかりです」
鐘楼の長椅子に腰掛け夜風にあたっていたステラにコーヒーを手渡したのはリベリオだった。
コーヒーを運ぼうとする執事と厨房前で遭遇したらしい。頼んだステラの分に、リベリオの分を足して持ってきたと弁明した。
日付が変わろうとする王都の夜景は、煌々と明るい繁華街の奥に漆黒の海が広がっている。西の城門に近く城壁よりも高い七階建て相当の鐘楼からは、飲み交わす人々の姿が鮮明に見えた。ステラの眼鏡が片眼鏡になって、もう十年が経つ。
「貴女は初め、ここを嫌っていたはずだが」
「ええ」
用意された新居に付属する高い鐘楼を、ステラは最初忌避していたように思う。
「空の青さが無情に思えて、怖かったのです」
「……今は?」
いつ頃からだったかは覚えていませんが、とステラは前置きする。
「夜空の星と海の静けさを、優しいと思い始めました。そうしたら不思議ですね青空もとても綺麗に思い始めて」
ステラ・ローレ公爵夫人の日課は、朝と晩と鐘楼で一杯のお茶を呑むことだ。
「ステラ」
「はい」
「ここから貴女と見る景色は、綺麗だ」
辛いことから逃げるように始まって、立ち向かいとりあえずの幸福を経て、歳を取れば辛いことが無くなると思っていたら、その時々なりの辛いことがあるだけであったけれど。
腕の中に得られた、あるいは周囲に浮かぶ、星のように煌めく大事なものたち。
「まあ! 明日は星が降って来るかもしれませんね」
フェルリータとローレを離れ辿り着いた王都には、雪は降らない。
「……星は地面には降らないだろう」
「分かりませんよ。遠くは見通せても、明日は見通せない目ですから。……だから私は、毎日確かめているのだと思います」
隣に腰を下ろしたリベリオの肩に、ステラは頭を乗せる。
肩はあたたかく、何を?と問う声は細波のように静かで優しかった。
「貴方が隣に居ることと、変わらない景色と、」
後日談予定分はこれにて終了です。
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活動報告に少しだけご挨拶を書きました。




