Another:華燭の典
熾火のように燻り続けていたのであろう戦端は、突如として開いた。
小競り合いはあれど三代前の王以来長らく戦争を行なっていなかったカルダノ王国において、戦禍の可能性を覚悟していたのは二人。王国に住まう第一王子と、西の帝国に十年前に嫁いだ第一王女の兄妹であった。
「ステラ・ローレが申し上げます。王都西の山岳地帯、国境沿いに帝国軍が布陣致しました。数はおよそ二万、旗印は銀の獅子にございます」
国王を始めカルダノ王国の重鎮が揃う謁見の間に、嘆き混じりのどよめきが広がった。最奥中央、玉座に座る王の表情も苦渋に満ちていた。
「銀の獅子はイズディハール皇太子殿下の弟の旗印だ。イズディハール殿が負けたか、あるいは追われたか……」
帝国の皇太子の旗印は金の杯だ。金の杯が攻め込んでくる可能性はグローリア第一王女が嫁ぐことで十年前に消えた。嫁いだ第一王女は卒なく男児を産み、皇太子殿下との仲も睦まじく最近第三子を宿したと書簡で聞いていた。
王国と帝国の貿易は栄え、何もかもが順風満帆であり、もう王国と帝国の争いは起こらないと誰しもが考えていたというのに。
「マリアーノ、お前の所に情報は来ているか」
「イズディハール皇太子殿下は合理的な方です。一方、弟君は野心に溢れた方です。イズディハール殿のやり方は冷たく、皇族のみが利益を得るものと吹き込まれた帝都の民が暴動を起こしました。教育をほどこし識字率を上げ、治水を行い疫病を防ぐ、先進的な施策を民のためにならぬと扇動された。弟君の野心は情熱であると、民の目には映ったのでしょう。……民は分かり易きに流れるものです」
第一王子の声音も、いつになく固かった。黒の詰襟に金のライン、白の手袋、魔法師団長を始め多くの役職を示すメダルがついた制服は、一部の隙もなく着込まれている。
「シルヴェストリ、詳細を」
第一王子に促され、控えていた諜報部の長が口を開いた。シルヴェストリもまた、何事もなければ後進に任せ引退していたはずの人間だ。
「暴動が起きたのは七日前にございます。市民だけの暴動であれば難なく鎮圧されたであろう暴動を、弟君の軍閥が先導し宮殿に攻め入りました。皇帝陛下はご病気であると触れが出され、弟君が代理を。暴動を取り締まる皇太子殿下の軍閥と市民の衝突は続き、帝都では至る所で火の手が上がっております」
シルヴェストリの報告を聞いた王が、眉間を押さえた。
「皇帝陛下は捕えられたのであろうな。あとは、折を見て退位させるつもりか。……イズディハール殿とグローリアの安否は分かるか?」
シルヴェストリが首を振った。
「御子らと共に宮殿から脱出されたと思われます。ただ、グローリア殿下は身重です。出産の間近な身で移動に耐えられるかどうか……」
「何ということを……そして愚か者は帝都の煙も消さぬうちに我が国に攻め入ろうとしている。……欲の深いことよ」
皮肉の混ざった嘆きを零し、王は一度天を仰いだ。
謁見の場に集う重鎮たちが王の言葉を待つなか、王は自らの頭に乗る冠を下ろした。
「マリアーノ、エヴァルド」
「はい、国王陛下」
「ここに、父上」
明晰な第一王子、太陽のような第二王子。どちらも王に足る資質があり、どちらが王になったとて王国は幸福な日々を築けただろう。
「其方らに冠を渡せぬこと、遺憾に思う」
第二王女は礼拝堂で祈りを捧げていた。
祭壇には手づから切った白い薔薇を。この国の大神は乙女の摘んだ薔薇を好むという。朝摘みの薔薇は水滴を纏い凛として、未だ安否の定かでない姉のように美しかった。
帝都で暴動が起きて七日、重鎮が揃い軍議が行われている謁見の間にルーチェは入らなかった。自分には出来ることがないと知っていた。せめてもと庭から薔薇を切り、早朝から姉家族の無事を祈っている。
ルーチェにいつも付いてくれている傅育官の公爵夫人も、偵察に駆り出されてしまった。帝都が見える位置までしか進まないと言っていたので、距離を考えればそろそろ帰ってくる頃だろう。
ギイ、と重い音がして礼拝堂の扉が開いた。見張りの兵に下がるよう命じたのはルーチェの兄達だった。立ち上がり、裾を直す。兄達が二人揃っているのは珍しい、謁見の間からそのまま来たのだろうか。
「エヴァルドお兄様、マリアーノお兄様」
「ルーチェ」
快活な兄の表情は晴れない。姉が嫁いで早十年、ルーチェの身長は伸び、大好きな兄の腕にはもう乗れなくなってしまった。
ひねくれた自分とは大違いの明るい太陽のような兄が、ルーチェの前で膝を突いた。
「エヴァルドお兄様⁉︎」
「どうか助けてほしい。私では駄目なのだ、……ルーチェ」
グラグラと揺れる視界に、項垂れた兄の頭が映る。何が起きているのだ、兄は何を言っているのだ。ルーチェが兄を助けたことなど、一度もないというのに。
「帝国が西の国境に陣を敷いた。国王陛下は退位を宣言された。次の王は君だよ、ルーチェ」
優しいもう一人の兄の言葉を理解することを、頭が拒否した。後ずさると祭壇にぶつかって、折角の薔薇が床に落ちた。
「――火急に、申し上げます」
「こっちも火急の用だよ、後に……ああ、ローレ公爵か」
入ってきた人を見て、ルーチェは少しばかり安堵した。紫紺の髪、鳶色の目、ルーチェのよく知る公爵夫人の夫だ。個人的にも面識が深い。
「君も国境に配備されていたはずだ、どうして王都に?」
「国境は妹に任せて参りました。……急ぎ、お届け、せねばと」
北方軍は西の国境を挟み、いち早く帝国軍と向かい合っていたはずだ。北方軍からローレ公爵が離れることなど、常ならばあり得ない。あり得ないほどの緊急事態が起きたということだ。
ローレ公爵が手を挙げると、四人の騎士が入ってきた。彼らの肩に担がれた、簡素な木製の、長方形の箱。
心の臓が忙しなく脈を打って、詰まった息が喉の奥で耳障りな音を立てた。
「そこに置いて。……開けて」
そう命じる第一王子の声も震えていた。祭壇ではなく、ルーチェの前に箱が置かれる。閂が外され、蓋が開かれた。
「おねえ、さま」
白い薔薇に囲まれ、姉は眠っていた。
眠っているように、ルーチェには見えた。豊かな黒髪はブラックダイヤのように煌めき、白磁の頬に長い睫毛が影を落としている。
「……公爵」
「……北方軍の陣幕に、山賊が届けてくれました。彼らは最初、谷間に落ちていた馬車の荷を金品だと思ったそうです」
「そう……」
第一王子が、物言わぬ妹姫の指に触れた。
「……おかえり、グローリア。素敵な指輪だね、君の愛する人に貰ったのかい?」
左手の薬指を飾る、皇太子妃に相応しい豪華な指輪。サファイアに見える大きな青石は、氷の魔石だ。
金品を目当てに谷間に落ちていた馬車を漁った山賊達は仰天した。宝が入っていると思った箱は棺であり、中に納められていたのは彼らが見たこともないような美しい人だった。物言わぬ佳人を、山賊の一人は見たことがあった。十年前の王室の式典で、バルコニーに立った姫君の美しさを彼は覚えていた。
「……棺を開け、中に納められていたご遺体があまりに美しかったので、手に余りどうにもできず、届けるしかないと思った、と彼等は申しておりました」
「あ、ああ、あああ……!」
棺の縁に、ルーチェはしがみついた。
「お姉様、お姉様……!」
触れれば冷たい頬に、ルーチェの涙が落ちた。
「……その山賊達にお礼を出してあげて。さあ、行くよルーチェ、君が王だ」
「……いや、嫌です! なんで、どうして」
どうして、私が。
いつものように癇癪を起こせばいい。そうしたらきっと、兄達もまた困った顔をして許してくれる。
「……ルーチェ、其方はもう分かっているはずだ。十年前に自分が帝国に嫁がされなかった意味を。それとも、我が国の兵達を骸にして、その家族に返すのか」
グローリア姉上のように。
兄の言葉に、ルーチェの瞳からとめどなく涙が溢れた。
「あああ、ああ、あああああ……!」
大好きな姉ではなかった、姉はいつもルーチェに厳しかった。けれど、ルーチェに厳しかった姉は、何よりも己に厳しかった。だからこそ、嫌悪し、尊敬し、そして憧れた。
ルーチェを叱咤してくれた姉はもう居ない。
長い睫に飾られた瞼は開くことなく、一つだけ同じだった金の瞳がルーチェを映すことはないのだ。
――もう、二度と。
西の国境は、すでに開戦していた。
魔剣によって増幅された紫の魔法が戦場を駆ける。帝国の軍勢を円錐状に抉ったリリアナ・ローレは高台を見て声を張り上げた。
「女王陛下が出られるぞ! 全軍! 退け!」
戦場全てが見下ろせる高台からは、よく見えた。平野で帝国軍が王国軍と衝突する様も、帝国の軍勢がぞろぞろと山地を越えて来る様も。
戦場に不釣り合いなドレスは黒と金。長く腰まで波打つ髪は結われていなかった。どんな宝石にも勝る赤紫の髪が晴天の下、金を帯びて輝いた。
「わたくしは、ゆるさない」
その宣言を、戦場に存在する全ての人間が聞いた。可憐でありながら、憎しみに満ちた声だった。
「わたくしは、許さない。我が国の誇りを骸にして返した貴様達を。あまつ、貴様達はどのような顔をして、その境を越えようとするのか」
金の瞳に涙が浮かび、けれど頬を伝う前に蒸発した。
伸ばした両手の先から、黄金の火の粉を纏った赤紫の蛇が宙に生まれる。蛇は瞬く間に大きくなり、人の大きさを城の大きさを遥かに超えて地上に降りた。長大な身が踊るたびに草も森も人も焼き尽くし、国境からこちら見える山肌が漆黒に染まった。
侵略者を瞬く間に焼き尽くした炎の大蛇に、王国の軍勢すら立ち尽くした。
ややもして、王国軍から歓声が上がった。
「ば、万歳! 女王陛下万歳!」
歓声はうねりを上げ、巨大なものになった。抱いた恐怖を掻き消すように、高らかに。
讃えられた炎の女王は、眼下を見下ろした。漆黒に染まった国境を、熱狂に染まる人々を。歓声に応えることもできないまま。
「……ステラ・ローレ」
「はい、ここに」
最上級使用人だけが纏える黒のドレス、片眼鏡を掛けた貴婦人が呼びかけに応えた。
「……王になど、成りたくなかった」
「……存じて、おります」
「成りたくなかった、成らずに済めば良いと思ってた。……私は、どこに行けばいいのかしら……あなたなら、行き先が見える?」
幼い迷い子のような問いに、貴婦人は紫の目を伏せて答えた。
「たとえ千里を見通したとて、明日を見通すことは叶わぬ目にございます。ですが、わたくしは生涯お傍におりましょう。……我が、女王陛下」
ルーチェ・ヴィーテ・カルダノ。帝国の侵略を防ぎ、後に共和国を統合するカルダノ王国の中祖。彼女についての戦史書は数多存在する一方、私的な記録は少ない。
その人となりは懇意であった公爵夫人の私的な手記にて知るばかり。稀代の戦王として名高い女王の生涯が人として幸福と呼べるものであったかは知る術もない。
「……ねえ、あなたは、スピネルが好き?」
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