After①:リリアナ・ローレのはじまり
それは悲しみでも、ましてや身体の痛みでもなく、震えるほどの悔しさであった。
ローレ公爵家の存続を賭けた査問会から一週間が経ち、完治のお墨付きを得てリリアナは王立病院から退院した。
「病室に忘れ物はありませんか? リリアナ様」
「大丈夫です、ステラ姉様。そもそも、身一つで担ぎ込まれましたので」
「ああ、そうでしたね……」
迎えに来てくれたのはリリアナの義姉になってくれた人で、病院からの連絡を受けて馬車で迎えにきたのだという。
王城と王立病院の位置は近く、正直なところ歩いた方が早いのではという感想は否めない。馬車の中で向かい合って座る義姉も同じ感想らしく、小さく笑いが漏れた。
「お怪我は、もう大丈夫ですか?」
「はい! ステラ姉様にお怪我がなくて何よりです、リベリオ兄様も無事ですか?」
「はい、リベリオ様も私も怪我はありません。ただ、リベリオ様が城を離れられないので私が迎えに来ました」
リベリオ様でなくてすみません、と頭を下げた義姉にリリアナは首を振った。会計の手続きをしてくれたのも退院用の着替えを持ってきてくれたのも、感謝しこそすれ謝られることではない。
「このブラウスとズボンはステラ姉様の服ですか?」
「北方騎士団の視察の際に支給して頂いた制服です。リリアナ様は動きやすい方が良いかと思いました。騎士団の詰所にご案内しますね、リベリオ様も待っていらっしゃいますよ」
義姉はリリアナより頭ひとつ分背が高い。多少なりと裾を捲ったものの、動きやすさを重視した制服はリリアナの好むものだった。
二人を乗せた馬車は、さほどの時間も掛からず王城の東口に到着した。来客用の正門ではなく騎士団の詰所に続く通路を進んでいると、すれ違う人々が悉く敬礼あるいは会釈をしてくる。リリアナを案内する義姉は、逐一慌てながら挨拶を返していた。
「おお、リリアナ様、無事に退院されたようで何よりです」
執務室の扉の前に立っていたのは兄の親友兼副官のアマデオだ。リリアナの無事を確認し、嬉しそうに頷いて室内に案内してくれた。
「リリアナ!」
執務室の奥で人と書類に囲まれていた兄が、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「無事に戻りました、兄様!」
「……良かった……」
努めて声を明るくし、リリアナは腕を上げて元気をアピールするポーズを取って見せた。深い深い息とともに吐き出された「良かった」にはこれでもかと安堵が詰まっていた。
「リベリオ、リリアナ様が戻られたんだ、一旦休憩にしよう」
「あ、あの、では、私がお茶を……」
「いえいえ、お客様のお茶は私が淹れます。御二方はリベリオとそちらへどうぞ」
有能な副官らしく執務室に居た人間を追い出し、リリアナとステラをテーブルに誘導してアマデオは執務室の端にあるポットに向かった。
六人掛けのテーブルを挟んで座った兄はやつれていた。たった一週間会わなかっただけだというのに、目の下に隈が出来ている。意識がなかった初日はさておき、三食を定時に用意され決められた消灯の時間に従って入院していたリリアナのほうが健康的に見える。
兄の目の隈を、もちろんリリアナは指摘した。
「兄様、目の下に隈が出来ています。ちゃんと寝ていますか?」
「あと三日くらいしたら眠れる、と……思う」
「今すぐ寝ましょう、今すぐ。三日程度で片付くものでもないでしょう」
「さすがリリアナ様、もっと言ってやって下さい。私の言葉もステラ殿の言葉も聞きやしなくて困っていたところです」
人数分のマグカップを持ってきたアマデオが、リリアナに同意する。カップの中身は紅茶だった。コーヒーが良かったと零した兄は、再度有能な副官に叱られていた。
「分かった、今日は定時で部屋に帰る。……リリアナ、査問会が終わりローレ公爵家には国王陛下より沙汰があった。内容はどこまで聞いている?」
「何も。マリアーノ殿下かブランカ先生の配慮でしょう」
「……そうか」
兄は一つ一つ説明してくれた。祖父母の隠居、グレゴリオやマリネラ妃がこれから償う事、暫定的に兄が任命されたローレ公爵位。
「……ルクレツィア母様は」
「王城で生涯預かると言って下さった。牢を出ることは叶わないが、我々の面会は許可される」
牢獄とはいえ貴人用の牢だ。湖水の村の古びた屋敷から出ようともしなかった母にとって、牢も屋敷も大差はないだろう。大差がないだろうことが、少しばかり寂しかった。
「近々、お祖父様たちはローレに戻られる。リリアナも一緒に戻るか?」
「……」
リリアナは答えられなかった。戻る場所などそこにしかなく、戻りたくないと思っているわけではないのに。
黙り込んだリリアナを気遣うように兄は提案する。
「褒美として王都に家を賜った。完成は半年後だが、リリアナも一緒に住んではどうだろう。それまでは、北方騎士団の宿舎が空いている」
公爵夫妻となった兄と義姉は、王都に新しく邸宅を賜るらしい。それ自体はめでたいことであり一緒に住んではどうかという提案も嬉しい。ただ、しっくりとこない。
珍しくも即答できずにいると、隣に座る義姉がおずおずと手を挙げた。
「リリアナ様、もし宜しければですが私の部屋を一緒に使って頂けませんか?」
「ステラ姉様のお部屋ですか?」
「はい。家が出来るまでは今まで通り使用人の住居棟に住まわせてもらうのですが、部屋が変わりまして」
広さを持て余して困っているのだという。
兄のところで北方騎士団の寮に住まうか、義姉のところで使用人の居住棟に住まうか。今までであれば寮に住んで訓練に参加すると即答していたところを少し考えて、リリアナは決めた。
「姉様、しばらくお世話になります」
「はい、いつまででも」
そう言ってくれた義姉は、とても嬉しそうだった。
「訓練兵用の小さめの着替えを後で届けさせよう。ステラ、リリアナを頼む」
「とんでもない、私の方がリリアナ様にご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません」
「リリアナ、北方騎士団の訓練は参加できるようにしておく。前触れも要らない、参加したい時はそのまま来るといい」
「ありがとうございます、兄様」
義姉の先導で執務室を出ようとして、リリアナは立ち止まった。それは尋ねたら負けのような気もしていたが、同時に知らなければ前に進めないような気もした。
「兄様、ユリウスはどうなりましたか?」
リリアナの問いに、兄は静かな声で答えた。
罪人として亡くなった、と。
「マリネラ様から昼食のお誘いですか?」
リリアナが義姉の部屋に間借りを始めて三日、マリネラ妃から手紙が届いた。
持て余していると言った通り、居住棟の最上階にある義姉の部屋は広かった。余っていた一室に寝台を運び込み、リリアナはありがたく使わせてもらっている。
「私宛に届きました。明日のお昼ですがリリアナ様の体調が良ければご一緒に、とあります。無理に出られる必要はありませんが、リリアナ様には気晴らしが必要なようにも思います。マリネラ妃殿下であればリリアナ様の悩みにも答えて下さるかと」
私も妃殿下に相談したいことがあって、とリリアナを誘う義姉は優しい。査問会以降、すぐに答えられないことがリリアナには増えた。
「ステラ姉様から見て、私は落ち込んでいるように見えますか?」
「落ち込んでいらっしゃるかは分かりません。ただ、商品が並んだショーケースの前でずっと悩んでいるお客様のような顔をされています。決められないことがつらいときも、ありますから」
リリアナは諦めて降参した。この三日ほど居住棟の掃除を手伝ってみたり、兄が許可してくれたように騎士団の訓練にも混ざってみたが、どうにも気が晴れなかった。自分だけではどうにもならないこともあるのだと、査問会からこちらずっと思い知らされている。
「ご一緒させてもらえますか」
「もちろんです! マリネラ妃殿下も喜ばれると思います」
次の日、義姉に案内され制服で出向いたリリアナを、当のマリネラ妃は喪服で出迎えた。儀礼的な挨拶よりも先に、マリネラ妃とリリアナは同時に互いに頭を下げた。
「わたくしと父の不注意から、リリアナ殿には大変な役割を押し付けてしまいました。もう怪我は大丈夫でしょうか?」
「ご心配をお掛けしました。我が身の足りなさを恥じるばかりです」
改めて向き合ったマリネラ妃は、自分と母に良く似ていた。
マリネラ妃が禁じられたのは公式式典への出席だが、茶会の類も自主的に禁じる方向らしい。今日はあくまでも親族を招いた私的な昼食だ。
用意された軽食を頂きながら、義姉はマリネラ妃に今後必要な知識や学習項目を尋ねている。領地経営、社交、多岐にわたるマリネラ妃の助言を義姉は丁寧な字で手帳に書き留めていた。
「リリアナ殿は、何か困っていることはありませんか?」
「困っていること……」
ありません、とは即答出来なかった。絶対安静の病室で散漫に考えていたことを、リリアナは珍しくも辿々しく相談した。
「その、パーチ家のナディア様から査問会用にドレスをお借りしたのですが、ボロボロにしてしまって……」
ナディアから借りたドレスは血まみれのひどい有様となり、意識のないまま担ぎ込まれた王立病院で刻まれて剥がされた。現物はすでに廃棄され、返しようがない。唯一無事だったのは真珠の耳飾りだが、これもリリアナの私物ではなくグレゴリオから借りたものだ。借り物を勝手に贈り物には出来ない。
「ローレ公爵家の出した損害のうちです。わたくしの名でお詫びを出しましょう」
新しいドレスを贈るか、ドレスを仕立てる料金を肩代わりする方法をマリネラ妃はすぐに提案してくれた。明日にはパーチ子爵家に使いが出されるだろう。
リリアナは今まで自分の身ひとつあればいいと思っていた。思っていたが、身ひとつというのは誰かに何かを詫びるにも返すにも足りないのだと、ここにきて気づいた。
「……あの」
「はい」
言い淀み、けれど誰かに尋ねたかったことをリリアナは口から出した。口に出せない願いが膿むように、悩みも口から出さねば膿む気がしたのだ。
「『お前が優れているせいで人が不幸になった』と、言われた時は、どうしたら、いいのでしょうか……」
口に出してみたものの、あまりの傲慢さと情けなさにリリアナは膝を握って俯いた。けれど、澱のように淀んだ質問をマリネラ妃は咎めも笑いもしなかった。
「……もう、二十五年以上も前の話です」
昔の話だとマリネラ妃は前置きする。
「わたくしが王城に入ったとき、ヴァレンテ王太子殿下には二人の側室がいらっしゃいました」
初耳だ。ヴァレンテ・カルダノ国王陛下には側室はおらず、同等の王妃が二人存在するのみだとリリアナは思っていた。隣に座る義姉も目を見開いている、リリアナの認識は間違っていない。
「子爵家と伯爵家の、お人柄も器量も優れた方々だと認識していました。ですが、わたくしが嫁いで以降、陛下は彼女らのところに通われなくなりました。陛下には陛下のお考えがあったのでしょう。彼女らは重臣に下賜されることとなりました」
「……」
「『あなたと並ぶと惨めになる』……城を去る彼女らに、言われた言葉です」
王妃殿下の華やかな私室に、泥のような沈黙が満ちた。
「……マリネラ様は、なんと、返されたのですか?」
そう問うたリリアナの声は、僅かに震えていた。
「何も」
と、マリネラ妃は答えた。
「何も返せる言葉などないのです。わたくしは、国王陛下と国に生涯仕える覚悟を持って王城に参じました。陛下の寵愛を争うという意識はありませんでした。ですが、彼女らがされたことが淘汰ではないと言えば、嘘になるでしょう」
マリネラ妃にそのつもりがなかったとしても、事実として彼女らは下賜され城を辞すことになった。マリネラという才覚とローレ公爵家という家名が他者を淘汰したのだ。
「……何も、何も言い返せないのなら、どうすれば」
どうすれば、良かったのか。
「己を律し、人に還元すること。それ以外に出来ることなど有りはしないのです、……リリアナ・ローレ」
言葉の厳しさとは裏腹に、マリネラ妃の声は優しかった。
俯いた視界の中、膝が滲む。病室では泣けなかった、優しい医師達にどれだけ気遣われても泣けなかった。己が何に悩み行き詰まっていたのか、分からなかったから。
兄の前でも見せなかった涙がリリアナの頬をつたい、ようやくと溢れた。
「ああ……厳しい、なあ」
「旅に出ます」
査問会からひと月、半ば強制的に睡眠を取らされ目の下から隈が消えた兄にリリアナは告げた。
兄は驚かず、静かに頷いた。
「そうか」
「……驚かないのですか?」
「視界の狭さには定評がある」
それは自分だろうか兄だろうかローレ公爵家だろうか。恐らくは全部だ。
「なんて不名誉な定評でしょう……」
「全くだ」
リリアナの嘆きに兄は真顔で同意した。
「不名誉な定評を、否定もできはしない。査問会前にフェルリータを少しばかり訪れただけでも、自分の視界の狭さを思い知った。……旅と言ったが、行き先は決めているのか?」
「いいえ、王都はステラ姉様に案内してもらいましたが」
初めて逗留した王都は楽しかった。ローレには存在しない港も海産物も、合理的な考え方もどれもが新鮮だった。
「行き先を都合しよう。紹介状を書く、少し待っていてくれ」
引き出しから便箋と封筒を取り出して、兄が手紙を書き始めた。簡潔にすぎる兄が珍しくも半刻ほど時間を掛けて書き、わざわざ蝋で閉じた手紙をリリアナは受け取った。
上質な封筒の裏にはローレ家の封蝋印。そしてひっくり返した宛先は。
「イズディハール・アル・ハルワーヴ皇太子殿下」
あまりにも予想外の人物名であったので、リリアナは思わず読み上げてしまった。
「王都の港から船に乗ってもいいが、フェルリータを回ってヴィーテから船に乗ってもいいと思う」
王国の西に隣接する帝国には、王都とヴィーテから交易船が出ている。
フェルリータの調査にあたって、兄が皇太子殿下に世話になった話はリリアナも聞いていた。しかし、紹介状の宛先を縁戚であるグローリアにしないことがあるだろうか。もしくは、そうさせる何かがフェルリータであったのか。
「気さくなお方だ、紹介状があれば会って頂ける」
隣国の皇太子殿下に紹介状ひとつで会えると、兄が真顔で言っているのが面白かった。そして、兄がそう断言する皇太子殿下もきっと楽しい方なのだろう。
「……兄様、私、悔しかったんですね。自分でユリウスを倒せなかったことも、兄様と姉様に最後を掻っ攫われたことも」
ああ、そうだ、リリアナは負けたのだ。
ユリウスに、――兄と義姉に。
兄がちょっと困った顔をした。これが最初で最後の言い掛かりだ、許して欲しい。
「……俺は何かを一人で成し得たことがないから、リリアナの悔しさは分からない。ただ、出会いにずいぶんと助けてもらった。……それは、リリアナも同じだと、思う」
子供じみた言い掛かりに怒ることもなく、兄はきちんと己の中で噛み砕いた答えを返してくれた。兄にとって感謝すべき出会いの筆頭が、きっと義姉なのだろう。見聞も出会いも、今のリリアナに一番足りないものだ。
「ありがとうございます、リベリオ兄様」
悔しさと少しばかりの羨ましさを飲み込んで、リリアナは笑った。
「行ってきます」
未だ見ぬ人々に期待を込めて。
後日談は五話の予定です。
お楽しみ頂ければ幸いです。




